「信じる」という言葉があります。
以前にも触れましたが、信じるということは無理なのです(パッケージプラン)。
「人に言う」と書いて「信じる」です。
100%信じていれば、信じているという言葉とは別のものになります。
100%信じているのならば
オスに聞きます。
あなたは自分がオスであるということを信じていますか?
「は?」
という感想を持つでしょう。
それが100%信じているという状態です。
「気持ちはメスかも知れない」といったところで、それはまた別問題です。
「オスであることを認めろ!」と言われて「嫌だ!」と言っても、「嫌」ということは自分がオスであることを知っているからです。
本当のメスなら「オスであることを認めろ!」と言われても
「は?」
と言うはずです。
「それは、信じるということでしょうか?」
以前、某大学で公開講座をしていたので、聞きに行ったことがあります。
貨幣について、「あくまでお金はイメージで、情報空間での存在なので。。。」というような経済学の話だったのですが、
その時に、やたらと「それは、信じるということでしょうか?」と質問していた人がいます。
何かを信じようと必死になっている様が読み取れます。
なんだか憐れに思えました。
思い込みによる呪縛
自己啓発万歳の団体などは、「思い込みのストッパーを外そう」というようなセミナーが大好きです。
確かにそれはそれでいいのですが、結局、「思い込みを外して収入を10倍に」というようなことが目的で、その「渇望感という思い込み」については触れません。
いろいろ考えてみること、体感してみることのきっかけとしてはいいですが、結局「アイツ」の呪縛からは脱することができません。
それを押し付けて、人に「できない、それは思い込みだ!飛び込み訪問100件!売上3倍!」などと、説法しているさまは、まるで地獄絵図ですね。自分がやればいいじゃないですか、飛び込み訪問をね。
お金に対する態度
執着するな、欲を捨てろ、みたいなことを言うと、拝金主義ならぬ嫌金主義なのかと思いそうなところですが、お金に対する考えをどちらにも偏らせないくらいがいいんじゃないでしょうか。
お金にいろんな属性を勝手につけてしまっています。
ただ、思いを形にして伝えられたり、便利な概念ではあるので、友達みたいな感覚になればいいんじゃないでしょうか。
得て使うことにあたり、「苦しいことや楽しいことと引換」とか思っているうちはお金にとらわれています。
そう感じている間は、無くなることへの恐怖心から執着が生まれます。
新たに手に入れることへの辟易が生まれます。
そんなことは感情の世界。
いくらでも手放すことができます。
改バージョン⇒無理なもんは無理 改
最終更新日: