この若者たちには、人格も、才能も、勤勉さも不足していない。しかし彼らには、自分自身に或る方針を与える時間が決して許されなかった。むしろ彼らは、幼児から或る方針を受け取るように習慣づけられた。彼らが「荒野に送られる」に足りるほど成熟したその頃、幾分違った扱いがなされた。― 彼らは利用された。彼らから自分自身が奪い取られた。彼らは日々使い古されるものへと教育された。それが彼らの倫理学となった。 曙光 178 前半
意識の中の材料がそれほど多くない年頃に「あなたの夢はなんですか?」と聞くことは、一種の洗脳に近いと昔から思っています。
学校を出て、コンビニでバイトしている若手芸人のネタの題材がだいたい「コンビニ」であるように、日常で触れたものくらいしか、意識の中の選択肢にあがってきません。
そうなると、小学生などに「将来の夢はなんですか?」と聞いても、あまりロクなものは出てこないのではないでしょうか。
将来の夢の具体性
「将来の夢はなんですか?」というような問いに対し、
僕は中学生の時に「賢者」と答えました。小学生のときの卒業アルバムには「実業家」と書いていました。
夢は具体的であればいいとよく言われますが、あれは間違いです。
若い時に具体的に描いた夢は、その材料自体が少なすぎるからです。
検討したり空想するにしても、その材料となる情報がまだ少ない状態だとロクなことにはなりません。その情報量の少なさに比例した発想しか出てこないからです。
なお、よく自己啓発系の人たちは具体的に思い描くことの例としてイチローさんの話をしますが、あれが有効なのはその対象が野球だからです。
野球というフィールドだから通用するようなことをすべての分野に共通することかのごとく説くということは少し無理があります。
安易に「保育士」などを選ばないほうがいい
あまりに小さい時に「夢」を聞くと、その年齢時点で実際に会ったことがある人の職業やテレビの中の職業くらいしか浮かびません。
そうなると、「警察官!」とか、「保育士」とか、そういった幼児でも実際に会うことのある人の職業ばかりになってしまいます。
で、そこで保育士さんになりたいというのはいいですが、その目標を持ち続ける時に、「実際」を知ろうとすべきだといつも思います。
夢を潰すことと「実際」を知らせること
「早いうちから夢を潰すことしたくない」
という人がいますが、夢を潰すことと、「実際」を知らせることは別物だと思います。
包み隠さず知っている限りの社会の全ての構造を知らせるべきだと思います。
少なくとも僕はそうすべきだと思っています。
「需給バランスがおかしい職種は、必ず構造がおかしい」
これは、必ず教えるべきだと思います。
「仕事」ならばなんでもいいのか?
これは実際にあった話ですが、友人の元奥さんは、地方から出てきて京都の短大の保育科で学び、京都の保育園に就職しました。
が、何故かバイト扱いです。確か当時の時給は800円でした。
「何故か」とは言いましたが、単純に需要に対して供給過多だからです。
根本的な保育の需要はありますが、「求人」という意味での需給バランス的に、新卒求職者のほうが圧倒的多数なのでしょう。
で、バイト扱いの給料で、京都で一人暮らししたとして、働き続けたとしましょう。
それで、学費・下宿にかかった投資は回収できますか?
そのお金は親が出したのでしょうが、元が取れないのになんで京都の学校なんかに来たんですか?
高校卒業で普通に働いている方がマシです。
その学校で取得した資格はその業界でしか使えません。そしてその業界は、そういった労働条件です。
あとで嘆くのは少し違うと思います。
で、その元の取れない投資のツケは誰が払うのでしょうか?
親ですか?配偶者ですか?
大学・教育サービスという「資格ビジネス」にお客にされただけです。
まずは、そういった業界の仕組みを知る、そして、それでも選ぶというのならばそれでも構いません。
でも、誰かにツケを払わす前提で「夢を叶えたい」というのは厚かましいのではないでしょうか?それを知ろうともしないのはどうなのでしょうか?
その人も、休みの日にも折り紙で輪っかなんかを作って、七夕のなにかの準備を自宅でしていました。
それでも、コンビニバイト程度にしか扱われていないのです。
引用にちなむなら、「人格も、才能も、勤勉さも不足していない」はずです。
かなり前の話ですが、すごくみじめに見えました。
昔から、「夢」という言葉は人を狂わせると思っています。
日々使い古される人々 曙光 178
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