恐れられる眼

威嚇された時よりも、こちらがギクッとする時の「こちらを見ているの眼」の方が恐ろしく感じる時があります。

それはまさに電車の中で英書を読んでいる人が、その真意を悟られた時です(電車で隣に掛けた客の本)。

世の中には、恐れられているものがたくさんありますが、その相手が「強いかどうか」より、「本気かどうか」の方が重要な事は言うまでもありません。

一見体つきは弱そうな人でも、命がけになればどんな手でも使いますから、そちらのほうが厄介です。

ミナミの帝王で、強面のお兄さん相手に、零細企業の社長が、「社員や家族守るためやったら、鬼にでもなんでもなったるぞ」と本気になった時、相手は怯んでしまった、というシーンがたまにあります。「たくさんある儲け話のひとつ」という心境対「命懸け」では、心意気が実力に勝ってしまいます。勝てないケースもありますが、それほどまでに本気度合いというものは恐ろしいものです。

しかし、そんな恐ろしさは、本能的なバトルのような時で、実際の肉弾戦などの時に近いようなケースです。それとはまた違った恐ろしさというものが、「カッコつけるために英書を読んでいることがバレた時」に向けられた眼です(ちなみに僕は英書すら読んだことがありません)。

人間失格

「カッコつけるために英書を読んでいることがバレた時」

この恐ろしさを包み隠さず描写した作品が、有名な太宰治氏の「人間失格」です。「第二の手記」に明確に記されています。引用しておきましょう。一部要約しています。

自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、

けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。

その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
それからの日々の、自分の不安と恐怖。

この恐ろしさをいずれ感じることになります。いや、一生気づかない人もいるかもしれません。単純に馬鹿にされることよりも、もっと恐ろしい瞬間です。馬鹿にされることを恐れてやりすごした演技がバレた時です。心の奥を見ぬかれることを恐れて演じた「道化」が、その仮面を剥がされた瞬間です。

くれぐれも電車の中で英書を読んだりしないようにしたいですね。ふふふ。

恐れられる眼 曙光 223

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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