以前大学で、「モノの考え方」的な講義がありました。
その時に引用された資料はすべてがA新聞でした。
そして講義中に次のようなことを言い始めました。
「中立な立場になって物事を考えられるようにならなければならない」
そこで、ある学生(僕ではありません)が質問しました。
「では、どうして資料がすべてA新聞なのでしょうか?」
周りはざわざわし始めました。
「どんな答えが返ってくるのだろう」
おそらくみんな期待していたと思います。
少なくとも僕は、どんな答えが返ってくるか楽しみにしていました。
「A新聞が一番中立的な見解を書いているから」
どこの世界にも絶望的な人がいるものです。
講義室は爆笑の嵐に包まれました。
(小学生の時にも絶望的な先生がいました。「なぜこのように崇高なのだろう!」)
解釈による印象の違い
目の前の現象の解釈によって、気分は変動します。
「こうでなければならない」「こうであるべき」
という前提のもと、それとは違った現象が目の前で起こったとき、イライラするものです。
「こうでなければならない」「こうであるべき」という前提は頑なな信念として持っているため、「そこを変えてください」などと言われればたいてい人は怒ります。
何かを満たしていくよりも、前提をなくしていくほうが簡単で根本的です。
まずは解釈を変えてもいいですが、究極的には解釈を入り込ませない境地に立ちましょう。
解釈を変える試み
今回、ひとまずは解釈を変える試みですが、「さよなら私」の中にもあるように、
「うちの家は狭すぎて困る」と、「うちの家は広すぎて困る」では、どちらが考えとして愉快か、どうか?
―
近所を全部、自分ちの敷地だと考えるやり口です。
―
「離れに行ってくる」と、己に言い聞かせて出かけることをお勧めします。そして道の途中で、「本当、うちの家は広すぎて困るなァ」としみじみ思いましょう。
昔何かで読みましたが、同じようなことを松下幸之助さんも言っていたようです。
自分の土地にわざわざポイ捨てする気もせんでしょう、というような内容だったと思います。
それはさておき、コンビニも自分の離れの倉庫、冷蔵庫だと思うと、なんだか楽しくなってきます。
離れの倉庫、冷蔵庫としてのコンビニ
実際に使いきれないほどのお金があれば、全部買うこともできます。
そうなると、冷蔵庫と変わりありません。
必要な分だけ、取りに行けばいいのです。
そうなると、本当に「所有」して、自分のものであるという確認が取れないと不安、ということが馬鹿らしく思えてきます。
「なんでこんなに広いんだ!勘弁してくれ!」
そんな感じで笑いながらコンビニまで歩いていきましょう。
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