ふとドラえもん誕生の時の藤子・F・不二雄氏を思い出したのですが、その誕生の時の発想やマンガ自体が「現代の哲学がようやく追いついてきている視点」であることに気づきました。
大きく分けると
ドラえもん誕生の時のF先生の思考
「タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくるのに」
という点、そして
「ドラえもんの世界自体がパラレルワールドであるということ」です。
前者はやや大乗仏教的です。
後者は「量子的な重なり合いの解釈」として現代の哲学でようやく追いついてきた考え方です。
ドラえもんというものが普通の社会に馴染んでいるので見落としがちですが、見方によっては「先を行き過ぎている」としか思えない視点です。俗っぽい見方をするとドラえもんを特別すごいとか不思議がることはありませんが、普通は子供だましだと見落としてしまうこうしたところにすごい視点が潜んでいたりします。
タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくる
この「タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくる」という発想は、時間空間は一方に流れるというものではなく、時間は一種の距離のようなものであって、すべての状態は同時存在しているという哲学的視点から考えていくこともできます。
そしてやや大乗仏教的ですが、「既にある未来の完成した自分が『自我が捉える時間』というものを超えて、今の自分を手助けする」ということになります。これは最近の認知科学などでもそんなふうに言ったりしています。
「タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくるのに」
というのを子供向けSFだと軽く見てはいけません。
この視点を哲学的に噛み砕いていくと空海のようになります。
完璧ではありませんが、途中まではかなり楽に行けるようになります。
ドラえもんの世界自体がパラレルワールド
小学生の時は「のび太たちはいつ次の学年になるのだろう?何回夏休みやお正月を迎えているのだろう」ということを純粋に思っていました。
特にドラえもんに限ったことではありませんが、「いつ、歳を取るのだろう?」というようなパターンのものがあります。もちろんそうではない「ストーリーが進んで新しい仲間が現れて、主人公も成長する」というパターンのものもあります。
「のび太はいつ歳を取るのだろう?」
これはパラレルワールド的解釈で解決することができます。
「ああいうお正月を迎えたのび太と、こういうお正月を迎えたのび太がいる」
ということです。
認識する働きである「心」をどのストーリーに合わせたかというだけになります。
最初にセワシがやってきた時に、「のび太の奥さん」はしずかちゃんではありませんでした。
「その時のセワシの先祖はしずかちゃんではないのに、ドラえもんが来て未来が変わって、奥さんがしずかちゃんになってしまったら、セワシが生まれるということはないだろう」と小学生の時は思いました。
つまり、マンガの中の説明に納得がいっていませんでした(どのルートをたどっても行き着くというような説明ですね。また、ルートが変わっても同じところに行き着くなら、ドラえもんがのび太と暮らしたところで、未来のセワシが裕福になることもないだろうとも思いました)。
ただそれもパラレルワールド的に解決することができます。
その時以降ののび太の心が、「しずかちゃんが奥さんで孫の孫がセワシである世界」に移動したということです。もちろん「しずかちゃんではない奥さんがいる世界」が消滅したわけではありません。その世界に心を合わせなくなったというだけです。
という感じで、ドラえもんをよくよく読んでみると、現代の哲学者が盛んに議論している点がふんだんに含まれていたりします。
「創作された子供向けの娯楽」と思えばそれまでです。しかし、フラットな視点で読んでいくと、面白い点がたくさん含まれています。
未来の自分に聞いてみよう
そのような感じで、「世界自体がパラレルワールド」という点と「未来の自分からアイデアをもらってくる」という点を今の自分にあてはめてみても問題はありません(勝手に「奥義 タイムマシン」と名付けても問題はありません)。
こうした理は考え方や解釈で変えられるものではありませんし、絵空事でもありません。
奥義タイムマシン
今、困り事があると思っている人は、過去の自分や周りの人に相談します。「色々と自分で考えてみる」という時、過去の自分の記憶を頼りに考えています。
周りの人はまだいいかもしれませんが、過去の自分は「解決策を考えるために必要な情報材料が少ない」という感じになります。揃っているのなら問題は生じないか、生じても既に解決しているか、解決方法を思いついているはずです。
「じゃあ未来の自分に聞いてみたらどうですか?」
というのが奥義タイムマシンです。目を瞑って寝ながらの方が良いですね。
たいてい「悠々自適な未来の自分を思い描こう」などと言われても、「そのためにはいろいろと面倒なことをこなしていかなければならないんだろうな」と、思い描くことすら消極的になります。
「〇〇ができる」「〇〇を達成する」とか、そういうものではなくて「すべての苦から脱している自分」とか「最高に幸せな自分」というふんわりしたものでいいのではないでしょうか。
それにカチッとハマると体感が消えていきます。
刺激は「苦」ですから。
そんな消えたような自分に聞いてみてはいかがでしょうか?
「さあどうしましょう?」
答えをすぐにくれるわけではないかもしれません。
しかし必要な時に、降りてきます。
その最高の自分に近づくために選ぶと良いものがよく見えるようになります。
その「選ぶと良いもの」は一般的なアイデアではないかもしれません。
「ひとまず有給を消化して寝ろ」
というものかもしれません。
休養というものも「最高の自分に近づく」という意味で、今一番必要なものかもしれません。
イライラしたり焦ったりしているとそうしたものすら見えなくなってしまうときがあります。
ということで、「最高の自分に近づく最適な選択」を未来の自分に聞いてみてください。
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