いわゆる心

一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。

そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。

ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ(記号、意味されるもの)などを語り出しますが、いずれにしてもそれが一致しようが、持っている観念が違うので、全く同じというわけには行きません。

同じ話を違う人にしても、各々が持つ印象は異なるでしょう。

同じものを見ても、必ず見ている角度が違いますから、同じものを同じように見ているわけではありません。見ている場所、光の入り方、反射する光の量も違うのですから当然です。

同じ対象を捉えても、それに付随する情報をどのように持っているかで、得る印象は異なります。

ストラトキャスターを見て、「ストラトキャスター」だと思う人はストラトキャスターを知っている人です。知らない人は漠然ともっと抽象的な「ギター」という印象を得るはずです。

さて、ただでさえこのように対象を捉える時に差が出るのは当たり前として、乱用される割にいまいち定義の分からないもの、それは「心」です。

心は受け取るだけ

たまに意識と同義語で「心」という言葉を使ったりしますが、狭義には何かの信号を受け取る働きだけをさします(心とは何か)。

よく意識や「考え方」、その場の感情もひっくるめて心と言われます。意識や「考え方」、その場の感情そのものは心ではありませんが、それら全てを受け取っているもの、それが心です。

その心が受け取っているものが全てです。それ以上も以下もありません。妄想も意識が作り出した情報を、心が受け取っている。それだけです。

あるニュースの情報も、ただの情報です。情報をアイツが解釈して、五感以外のところ、つまり意識の中で作り上げているにすぎません。

意識の中で作り上げているのだから「実在」しているわけではありません。それは五感を通していても同じことです。確かにそう捉えてはいるものの、「実在している」というわけではありません。

「そう感じている」

それだけです。

その「感じ」を受け取る働き、それが心です。

今この瞬間にも何かを受け取っていますが、受け取っているから「ある」とか、体のどこを探しても見当たらないから「ない」というわけではありません。

不生不滅

瞬間瞬間に起こっては消滅しています。でも無いところから新たに生じたわけではありません。消えてもその消えたことが次の原因になります。未来永劫何かが消えるというわけではないのですが、実体はありません。実体はなくても、原因としてある種のDNAや材料を残しているようなものです。

簡単にいえば不生不滅です。

不生不滅ですが、「永遠の命」とか「永遠の魂」というわけではありません。

物理的に見ても、完全に消えようとしても消えられるわけではなく、必ず何かの物質に分解されたりするでしょう。その状態から、また何かに成っていくというようなことです。

残飯を燃やして灰と煙になっても、それらは消えたわけではありません。ある種の結合が解かれただけです。燃える時に、持っていた結合のエネルギーは光と熱になります。それらは光エネルギーと熱エネルギーとして、飛び出しただけで、消えたわけではありません。

意識の中の情報の集合も同様です。

何か固定的な中心点があるわけではなく、常に変化していっています。

他人の情報ばかりで構築された意識

「自分がしたいことをしよう、見たいもの見よう」

と言っても、自分がしたいこと、見たいものを決めたのは他人です。

他人の情報ばかりで構築されているのだから、他人に植え付けられた視点しかありません。

他人の情報ばかりで構築された意識、それが自分です。

そんな自分が見たいもの、やりたいこと、といってもそれは他人に作られたものです。だから歪んでしか物事を認識できません。都合の悪いものは排除していきます。その「都合」自体が、自分ではなく他人からの情報によって作られた固定観念です。

どうして大学卒業前には就職活動をするのでしょうか。

「就職活動するのは嫌だ」

という感情ではなく、本当にどうしてそのような行動をとるのか、ということを考えればわかりやすいでしょう。動機のない行動はありません。「ただなんとなく」や「雰囲気」と簡単に終わらずに、徹底的に考えてみることです。

その上で「就職活動するのは嫌だ」という感情がどうして起こるのか、ということを考えてみてもいいでしょう。

意味があるとかないとかは、少し違った考えを起こしてみてもいいでしょう。意味があるとかないとかということは、どういう結果を求めて「意味がある」としたがっているのか、どういう結果を求めて「意味が無い」としたがっているのか、という点を考えねばなりません。論理上はどちらでも(つまり意味があるともないとも)論証が可能です。

ですから、意味があるないの論証にはある種の意義というものはありません。しかし、どうして意味があるとしたいのか、というような点については考えてみてもいいのではないでしょうか。どうして意味があると思いたがっているのか、というような点です。その逆も然りです。

それは自分の中に潜む他人によって作られた「固定観念」を探るよいきっかけになります。何としてでも「意味がある」としなければならない、という動機の原因です。

まずは、「自分のスタイルだ」と思っていること、こだわっていることも、どうしてそのこだわりが出来たのか、ということを思い返してみるといいでしょう。

そうして意識を観察していると、何ら執着するようなことではないことが体感として訪れるでしょう。

「なんだそんなことか、それならばこんなものに付き合う必要はない」

そんな感想がやってくるでしょう。

いわゆる心 曙光 311

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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