「自由の国」について

われわれは、行為したり体験したりするよりも、はるかに、はるかに多くのものを考えることができる。 曙光 125 序

確か病中真っ只中の時だっと思いますが、ふと考えたことがあります。

もし、夢の中でもなんでも良いのですが、イメージの世界だけにずっといれるのであれば、現実世界の身体は特にどうでもいいのではないか、という感じのことです。

何だか寝ぼけているときや、空想にふけっているときや、映画を見ている時なんかによくそんなことを考えていました。

イメージの世界

で、そのあといろいろと考えてみたのですが、仮にイメージの世界にずっと入ったとして、そこではどんなことでも実現可能なわけです。

だからこそ、色々と今まで知った「良さそうな状況」や「それに伴う体感」も感じてみたのですが、

「しょうもな」

というような感想になってしまいました。

ということは現実にそれを経験したとしてもおそらく大したことがないだろう、というような思考の結末になりました。

それは正確な意味での「諦め」ですが、世間で思われているような「諦め」ではありません。

「くだらないことだという自己説得をして、強がっている」

というような諦めではなく、

「なんじゃそりゃ」

というような感想です。

本当に経験する必要などあるのか?

「それだけすごそうなことでもこんなものか」

という意味も含まれていますが、例えば、大富豪になって自家用クルーザーでクルーズみたいなことをイメージしたとしましょう。

「それって、今のこのイメージの世界と同じじゃないか」

体感も含めてイメージの世界にどっぷりつかったとすれば、同じです。

「じゃあ本当に経験する必要などあるのか?」

という事になりますね。

これを人に説明すると、

「またまた、それは強がりだな」

みたいなことを言われてしまいますが、人に説明して納得してもらう必要などありません。

自分が楽しめばいいだけですからね。

なんだか面白くないですか?

では、科学的な視点から見るのが好きな人にも一応の説得をしておきます。

五感を感じるのはどこですか?

感じたものや時間は何でつながっていますか?

情報を受け取るという仕組みから考えてみればどうなりますか?

物理的な「証拠」も結局目で見て意識で判断して、というプロセスを踏む必要がありますね。

それって全部情報じゃないですか。

「自由の国」について 曙光 125


小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。

幻想能力

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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