新年(2011年)早々、気管支炎になり、ろくに新年会にも参加できずゴホゴホしていたが、そのおかげで大量の本を読むことができた。
「逆18禁」というタイトルから、人を嘗めてかかったような精神の捻じ曲がり方に共感を覚え、図書館で借りたが、やはり捻くれ方に同類感があったので、読み終えてからアマゾンで買ってしまった。
しかし、まだ封すら開けていない。
再配達がめんどくさいので、家族に頼み、窓口に取りに行ってもらったのだが、その包みがクリアで、タイトルがタイトルなので、手渡されたときに何故か弁解した。
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他からの賞賛や人を支配すると言う欲求の根本には自尊心の欠落がある。
プライドを保つ、ということに翻弄される、というか人生を支配される、というのが楽しいことなのだろうか?
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最近特に人相を見極める能力が増してきた。
人の心も読めるように、いや、心と言うより思考と言うほうが適当だろう、―を読めるようになってきた。
おかげであまり人が目を合わせてくれない。
目もわかりやすいが、口の形もわかりやすい。
への字型は大抵卑屈感を醸し出しているが、それにも増して気をつけるべきは、W字型かもしれない。
本来卑屈になっているにもかかわらず不気味な笑顔を作っている詐欺師に多い、と私は踏んでいる。
なお、相手をだまそうとしている輩の笑っているときの顔は、目元に特にいやらしい皺が出るのでわかりやすい。
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深夜に無目的に歩くと、怪しいことには疑いはないが、頭痛や目の疲れ、様々なコリがほぐれることに気付く。
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世界の人々がどうかはわからないが、少なくともこの国ではマネーに関する意識が低すぎると思う。
ちなみに私はお金のことが大好きだが、意識などしていない。
というのは、捉われていない、ということ。
経済学や経営学の勉強は99%役に立たないが、実はヒントがたくさん隠されている。
もちろん正式に学ばなくても習得は可能である。
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効率的に分配すること。
そして、消費か貯蓄か投資か税金しか行き先がないこと。
投資と投機は違うこと。
車や住宅は資産としての価値はあまりないこと。
新品を買った瞬間半分以上は資産としてではなく、消費したととらえねばならない。
金利を嘗めてはいけないこと。
お金がお金を生むこと。
そして、忘れてはならないのが、CF>BS>PL
と言う構図。
一般的な家計なら
資金繰り>資産状況>勤労所得
と言う感じかな。
高給取りでも流動性を持つ金融資産がなければ資金繰りが焦げ付いて地獄に落ちる。
担保としての不動産を持っていても、資金調達に翻弄される上に金利で純資産が減少する。
逆に言えば、あたりまえだが金融資産さえあれば勤労所得は必要ない。
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銀行はお金に関してのプロであることは認めるが、相手のことを思って助言するかは別問題である。
また、消費者金融などでお金を借りる人の神経がわからない。
そこまでして欲しいものなどない。
が、どういう思考の果てにお金を借りてしまうのかはわかる。
(2011年01月24日02:42)
相手の人格を見抜くには、利害関係のない他人や、その人が客側として相手にとる態度でわかる。
自分が客だと思えばやたらと横柄になる人がいるが、客が偉いなどというのには、根拠などない。
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根拠がないといえば年功と体育会系のノリである。
年上が偉いことに根拠などない。
しかし、なぜ脳筋君達はこんなにも分け隔てをしようとするのか、様々な文献を元に考察してみた。
スポーツを言うのは根本的に単なる遊びであり、「一生懸命部活をしていた」などというアピールは「親の金で必死で遊んでいました」、というのが一般的である。
なぜなら、生産を伴わない活動だからである。
ただ、利点として体力の向上というものがある。
これと富国強兵思想が見事に合致した、という見解がある。
「国民体育」という言葉がある。
つまり国の民の体を育成する、と言うものである。
これには強い兵を育成するための前提として体を鍛えさせようというという思想がある。
これゆえヒエラルキーの典型である軍隊へ入れる前提であるから、あのような序列が体育の段階で植えつけられる。
と、言う所まで考えられる脳ミソが培われないのが運動場である。
そして、役割に応じて2週間ほどで人格は変容する、という法則が見事にはまって、脳筋は大量生産されるのであろう。
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言い返したくても、さらに言い返された場合のダメージの大きさから、気にしないフリをするが、気にはなっているので悶々とする、というじわじわしたダメージの与え方そのものが、ひとつの知略である、と私が言い出したとして、それをどう捉えるかによって知力がわかる。
―
環境リサーチ能力に関しては、師匠(仮)にまだまだおよばないなぁ、と痛感しつつも、人相を見る能力は勝っているかもしれないと、ほくそ笑む。
ただ、その先の戦術は、まだまだかなわない。
というのも、経験値が足りない。
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嘘を見抜く能力は、試験ならそれだけでクリアできる。
しかし、実生活では見抜いた上での対処法を考え、実行できる能力の方が必要となる。
と、言うことを理解は当然の上、実践できねばならない。
―
就職内定率について。
内定率が下がっている原因は大きく2つ。
ひとつは内定を取り消したときのダメージの大きさを恐れて、そもそも何が起こっても取り消さなくてもいいだけの最低人数しか求人を出さないこと。
そして、また必要になれば募集をかければよい、という戦略。
―
もうひとつは、所謂大企業志向。
その要因は、メディアが説くものとは少し違う。
学生がバイト先の店員を見る限り、零細企業なら賃金未払い残業を強いられる、というイメージが強いからであり、仕事のやりがい云々ではない。
「中小零細に行けば奴隷だ」と。
「うちに限ってそれはないですよ」
と、はっきりと説明会で説くべきである。
しかし、一生勤め人でいることを覚悟した瞬間、一般的に奴隷であることは疑いようがない。
(2011年01月31日03:20)
謎の店。
友人と酒を交わした後に、よくわからないが何かを売っている怪しい店があったので、入ってみたところ、レトロな品物が何の統一性もなく所狭しと置いてあった。
500円と1800円のジッポが置いてあったので、友人が
「何の差ですか?」
と聞くと
「適当ですね」、と。
さらに「これ、売れてるんですか?」と続けると、
「そもそもニーズがあるかどうかですよね」
微笑を残して帰りました。
・・・
まあ半年、といったところですかな。
―
親会社が変わったことにより、もうすぐM社に社名変更するA社の人間は、どこもかしこも傲慢である。
外資が嫌われるのはあいつらのせいかもしれない。
自信と傲慢は違う。
コストを抑えたり運用実績を上げて、余剰を増やして低価格での提供等により、相手に還元するのはいいが、日本人の心理を読み間違えていることには変わりない。
購買意欲は数字だけで決定されるものではない上に、この土地では自信を表すにも謙虚さがなければ壁は越えられない。
とは、彼らには言わない。
おそらく自滅してくれるだろうから。
―
いくら進化しようとも、携帯電話には飽きている。
―
税理士なんて必要無いくらいに税法をもっとわかりやすくすれば、世の中はわかりやすくなる。
と、つくづく思う。
あれは社会を難解で複雑なものにするための官僚の自己満足にしか過ぎない。
そもそも、なぜ義務教育で税や民法を教えないのかがわからない。
教えないまま社会に放り出してから「知らないあなたが悪い」という構図。
さらに、ただ知ったからといって動けない構図まで作り上げているのだからタチが悪い。
相手には強制的に納付させ、自分たちが払う分は「請求なければ給付なし」というのも性格が捻じ曲がっているとしか思えない。
(2011年02月12日02:16)
何をくだらないことをダラダラと綴るのだ、と言われそうだが、そう思うなら読まなければいい、という強気な面は未だに健在である。
基本的に真か偽か、肯定か否定か疑問しかない言語の特性があるので、いずれかにしか成りえないが、否定形のほうが盛り上がるのが常である。
なぜなら、肯定は単なる事実の描写にしか過ぎず面白味にかけるから。
しかし、その否定的な表現が精神を侵す。
ここでニーチェ的に言うと事実と言うものは存在しない。存在するのは解釈である。
つまりは解釈をどう転ばすかの問題である。
すべては個人の頭の中での話しなのだ。
―
あの時、あの手を離したのは、それがその時の最良の選択であると僕の精神が決定したからだろう。
もし窓越しに君を見つけたなら、ラブレターを紙飛行機にして、扉が閉まる直前に君に投げてぶつけてみたい。
と、フジファブリックに言いたい。
―
おっさんたち
―に限らないが
―の嘆きを聞くたびに
そもそも誰かに期待することのほうが愚かである。
そして誰かに期待する人ほど素直さが無い。
良いことを聞いても実行できない。
というか聞こうともしない。
自分たちの中に固定化された概念を壊すことが、自己同一性を崩壊させると思っているからだ。
確かにそうだが、10年刻みで見るとその間に色々な偏見が打ち砕かれていった事実に気付くはずだ。
―
エネルギーを吸い取られる前に帰ることを実行すると肩こりがマシになった。
―
つぶやけば良いではないか、というツッコミに対して、
「つぶやく」
という文体と表現に寒さとムカツキを覚えているのであえてしない、と弁解しておこう。
―
文字にも文にもそれ独自の色がある。
ただの文字の組み合わせは、美しくもなれば醜くもなる。
ちなみに筆記用具を見れば、勉強ができるか否かがわかる。
―
自分にはマネーの美学がある。
自分の誤解があるかもしれないから、何度かは考え直したりもするが、それに反するような提案は全てお断りしている。
それは使う方、稼ぐ方共にである。
(2011年02月14日01:23)
セカンドギア
力む必要などまったく無いが、力もうにも力が出ない。
未だにセカンドギアで走るような奇妙な感覚は拭い去れない。
これは寒さか、気管支炎の残骸のせいかもしれない。
おそらく僕にはリハビリが必要なのだ。
一度神経をやられると、3ヶ月か半年くらいは元に戻らない。
世の中を知ろうとして、余計に混乱したりする。
そんな日々が続いている。
なぜ知る必要があるのかはわからない。
ただ、時折無性に起こるその欲求の衝動の惰性だけで、ガス欠寸前で走っているような、変な感じが日常を覆う。
おそらく人に相談して解決できる類ではない。
哲学的思索は、一種の日常であり、また、非日常でもある。
―は人を狂気にも導けば、味わい深い芸術を感じさせることもできる。
―
バフェットは何を言っているか理解しがたいと言われるが、僕は精神が捻じ曲がっているのでよくわかる。
ただ、理解しているつもりなだけかもしれないし、誤解もあるのかもしれない。
知識が知恵に変わるように、行動するしかない。
―
新聞や雑誌程度の見解は、市場を分析する上でまったく役に立たない。
だから新聞など読まない。
そんなことよりミスターマーケットと対話するべきだ。
株を買うのに日経新聞を読んでいる人は自分のセンスを疑ったほうがいい。
―
人にすがろうとするやつに貸す手は無い。
―
人は感情によって決定するが、その感情の大半を左右するのは思考、というより思考方法と経験による記憶である。
―
ユングでも読み返そう。
(2011年02月16日23:37)
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