われわれが結婚を是認するのは、第一にわれわれは結婚をまだ知らないから、第二に、われわれは結婚に馴れているから、第三に、われわれは婚約しているからである。― すなわちほとんどあらゆる場合に是認する。それにもかかわらず、結婚一般の品質の良否については何もそれで証明していない。 曙光 359
なんだかんだでニーチェは結婚ネタが好きですね。
ご無沙汰しております。bossuです。眼のピクピクも少し落ち着いてきました。
さて、以前結婚相談所の方と、結婚についてお話をしたことがあります。
「結婚=第三者に対する二人の関係性の外部的証明」
というような旨でお話をすると、大激怒されてしまいました。が、別に間違っているとは今でも思っていません。
法律を勉強していた影響もありますが、実はこのような考えは小学生の時から持っています。大学生くらいの時に、民法の婚姻を勉強して、「やっぱり正しかった」と、思ったくらいです。
結婚=第三者に対する二人の関係性の外部的証明
それでは「結婚=第三者に対する二人の関係性の外部的証明」について、婚姻の効果等々、社会的な機能について触れていきましょう。
結婚にロマンを感じている人もいるかもしれませんが、基本的に婚姻というものは社会的な制度であり、「自分と相手の関係性」自体は婚姻関係になくてもどのようにでも取り扱うことができます。
婚姻関係にあるか否か、という点は、二人の関係性をその他の第三者たちがどのように取り扱うようになるか、という点が主な違いです。つまり「第三者に対する二人の関係性の外部的証明」ということになります
二人の関係性を二人以外がどう捉えるか
婚姻、結婚とは、二人の関係性を二人以外がどう捉えるかだけの問題です。
なぜなら、いわゆる「結婚生活」みたいなことを二人でやる分には、婚姻の必要が無いからです。
一緒に住むことも生計を一にすることもできます。そして別に子作りだってできます。さらにその子を実子とすることもできます。
では、結婚とは一体何なのでしょうか?
二人の関係性を当事者である二人以外がどう捉えるか、というだけの問題になります。
それは法的にもそうですが、社会的にも同様です。
婚姻は一つの対外的な方法論
別に二人が二人でどう生きようと、それは二人の自由です。婚姻は一つの対外的な方法論にしか過ぎません。
最近、同性結婚が云々、ということもたまに話題になりますが、法的に相続や代理権の効果が得たいだけならば、無理に「婚姻」という名目でなくともなんとでもなります。
つまりは「私達を認めろ」
ということです。
残念ですが、他人に認めてもらう必要はありません。他人に認めてもらうことが心の安穏の条件になっている状態のほうが、苦悶の原因になります。
「結婚=第三者に対する二人の関係性の外部的証明」
ということから、まだ先に続きはあるのですが、よくよく考えないと、この大前提の先にはたどり着くことはできないでしょう。
あることを是認する 曙光 359
感情の約束は性質上不可能です。婚姻は単なる社会的制度であり、二人の感情を約束するものではありませんし、第三者に対する二人の関係性の外部的証明により、行動の約束を促すものとなるにとどまります。ただ、結婚効果に着目した時に制度の中で一つの正当性、説得の根拠を手に入れることはできます。
社会的に考えると「結婚=第三者に対する二人の関係性の外部的証明」ということにはなりますが、本来はそうした社会的制度は利用するものであり、二者間の本質とは若干別物となります。さて、理想のパートナーというものについて思い浮かべる時、どんな人を思い浮かべるでしょうか?
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