魅力と期待・信用と相対基準

すごく単純なことなのですが、魅力は相対基準で決まります。あくまでそれを魅力だと判断する人の観念に沿って、魅力が魅力であると判断されるという感じです。もちろん本能レベルでの快・不快や「ちょうどいい」という基準もありますが、それらが複合されて魅力というものは判断されるということになります。

その魅力には、奥に期待や信用というものもあります。例えば、僕は遊び盛りの十代の女の子には魅力を感じさせることは難しいのではないでしょうか。

なぜなら、遊び盛りの十代の男の子たちと比較して、彼女たちを「楽しませる」という部分での期待を与えることについて不足があり、遊べば楽しいであろうという期待への信用となる「楽しい遊びを知っている」とか「遊び場所を知っている」というような面でも不足があると考えられるからです。

魅力に引き寄せられるというのは、確かにその通りになりますが、その魅力は期待や信用で支えられていないとすぐに破綻します。

例えば、今年の夏、カンカン照りの北木島で吸い込まれるように自販機まで向かったことがあります。

もちろん冷たい飲み物を求めてということになり、手前には喉の渇きの解消や体温を下げたいという欲求もあるのですが、その自販機の飲み物が確かなものであるという推測があってこそ、その魅力に吸い寄せられたということになります。

なぜなら、例えば同じ「飲み物」という括りで考えて「水が欲しい」と思ったとしましょう。そこで、自販機と同じ距離に胡散臭そうな外国人がいて、露天商としてキャップと本体がバラバラのペットボトル飲料を売っていたのなら吸い寄せられなかったかもしれないからです。

ただの水道水に詰め替えられたものかもしれないという点や、睡眠薬が混ぜられていて、昏睡強盗に遭うという可能性すら考えてしまいます。

自販機であるからこそ、今までの経験則でかなり安定した品質で「水が飲める」と思えるからこそ、その自販機の魅力に吸い寄せられたということになります。

しかし猛暑のカンカン照りでなかったのなら、もしくは水をたくさん飲んだ後であったのなら、その魅力に吸い寄せられることもなかったでしょう。

どのような女性に魅力を感じますか?

そういえば昔結婚相談所のような事業を展開されている方に質問されたことがあります。

「どのような女性に魅力を感じますか?」

というようなものでした。

「猫村ねこさんかな」

と答えておきました。

それはさておき、魅力というものは相対的なものです。

世の中ではスペックなどといいつつ、客観的に判断できそうな絶対基準があるかのような演出がなされていますが、あくまで相対的な基準で判断されるようなものです。

小学生、中学生、高校生、大学生などの頃を振り返り、魅力とされてきた基準がどんどん変化していったことを思い返してみましょう。

そして、そうした感じで世の中の製品やサービスもあくまで相対的に価値が付けられているという感じになります。

だいたい「魅力を求めて」という人は、どこかのタイミングでついた基準を絶対基準だと思っていつまでもすがっているようにしか見えません。

「どのような女性に魅力を感じますか?」と合わせて、質問されたのですが、「パートナー女性に何を求めますか?」というようなことも聞かれました。

「何も求められないこと」

と答えておきました。

まあほとんど答えになっていないようなことばかり答えてみたという感じですが、それだけでは何なので次のように言っておきました。

「事業をしている人であれ勤めている人であれ、いつ倒れるかもわからないし、どんな社会情勢になるかにもわからない中で、自分の所得や資産をあてにされると『いざという時どうすんの?』になるでしょ」

ささやかな信用

さて、経済活動においては、「信用」の取引だとされています。まあ確かにお金はあくまで媒体であって本質は役務の交換だったりして、結局交換しているのは役務と信用だというようなことになります。

そして実際に交換に至ろうと思ったとき、つまり稼いだりしようと思った時、期待や信用に支えられた魅力がないとあまり誰からも相手にされないという感じになります。

で、その信用ですが、信用はわかりやすい経歴と言ったものだけで構成されているわけではありません。そして信用だけでなくそれが魅力にならないと効力を発揮してこないという感じになります。

そして魅力には耐用年数が限られているものと、長期的なものとがあります。

例えば、「カリスマ読者モデル」みたいな人は、同じようなタイプでその領域に強烈な憧れがある人たちにとってはすごい魅力です。やり方は色々ありますが、その魅力を経済的に、貨幣に交換することも可能でしょう。

その奥にあるのは、期待と信用です。だからこそ、最新のファッションを研究したりすること、街を歩くことも信用力強化につながっていきます。しかしながら、時流というものもあるので耐用年数が限られています。

そうした魅力は、人々の「飽き」によって消えていってしまうという感じになります。

ただ、一見意味がなさそうな分野のことでも、ある空間においては信用につながっていったりもします。だから無駄に思えることも何かの空間では魅力につながり、何かの収益につながっていくこともありますし、人と人との関係性の強化につながったりもしていきます。

普段ただ暇つぶしがてらスマートフォンを触っているだけでも、もしおばあちゃんか誰かが「スマートフォンを買いに行く」という段になれば、「専門家として同伴して欲しい」ということにもなったりします。操作方法を教えたりすることもできますし重宝されます。そしてその結果、お小遣いをくれたりもするかもしれません。

ということで、魅力によって惹きつけることはできますが、最終的にはその期待と信用に沿った形で人のお役に立った時、お金になったりするという感じになります。

姿形だけで完結するわけがない

そんなことを考えると、僕があまり飲食店に行かない理由なども見えてくるような気がします。

端的には僕を惹きつけるだけの魅力がないということになります。ということは期待も信用もないのです。

姿形だけ真似て原価率や回転率、客単価しか考えていないような人たちが、何かをもたらしてくれるとは思えません。まあもちろん事業を成り立たせるためにそうしたことを考えること自体は重要ですが、「形だけ作って後はバイトにやらせる系」の店が何かをもたらしてくれることはありません。

飲食店経営者の方にはいつも話すのですが、「人が喜んでいる姿を喜びと思えないならやめてください」ということです。

良い飲食店は例外なく、お客の満足を考えています。

例えばそれは、初めてのデートかもしれません。結婚記念日かもしれませんし、十年ぶりの再会を記念したような場面なのかもしれないのです。

そんな中、価格帯に応じる形にはなりますが、今ある環境で「最高の時間を過ごしてもらいたい」と思えないような飲食店は潰れればいいのです。

「国産」のすぐ脇に小さく「入」と書いて人を誤解させるような飲食店やスーパーなど潰れればいいのです。

そうして無くした信用で魅力はどんどん無くなっていきます。そしてカンフル剤的に広告を打ったりしますが、その効果もどんどん低減していきます。そしてどんどん嵩む広告費の分だけまたサービスを低下させていくという悪循環です。

魅力の空間

そういうわけで、重要なのは姿形ではなく、エネルギーと方向性という意味での意図とそこから生まれる魅力と魅力の空間だということになります。

そして期待と信用に支えられた魅力があれば、何の苦労もなく物事が展開していくことになります。無理にあがいたりしなくても、それらは勝手に空間に吸い寄せられてくるからです。

そして自らの空間が強靭であればあるほど、低次元のものには吸い寄せられなくなります。

だから特に何も欲しくならなくなったりしていきます。

Category:company management & business 会社経営と商い

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