カテゴリー別アーカイブ: 曙光(ニーチェ)

経験のすぐそばで!

大人物たちもまた彼らの五本の指幅の経験を有するにすぎない。― そのすぐそばで彼らの熟慮は止む。そして彼らの無限の真空と彼らの愚鈍とが始まる。 曙光 564 「もう一度ゼロからやり始めたい」 稀にそんなことを思うことがあります。それは過去に遡って「やり直す」という意味ではなく、違う分野でもう一度初心者から這い上がるというような感覚を味わいたく思うという感じです。 そういうわけで先日から、全く畑違いのカテゴリを追加して書いてみようかなぁというような感じのことを思っています。が、殆どの分野の書籍は一通り読んだりしています

» 経験のすぐそばで!の続きを読む


肉体のキリスト教的な解釈者

とにかく胃や、内臓や、心臓の鼓動や、神経や、胆汁や、精液に原因を持つものが何であろうと― あのすべての不機嫌や、衰弱や、過度の刺戟や、われわれにとってはなはだ知られていない機械の偶然性の全体!― これらすべてを、パスカルのようなキリスト教徒は、そこにひそむのは、神か悪魔か、善か悪か、救済か地獄行きか、とたずねることによって、ひとつの道徳的、宗教的な現象と考えざるをえない! 曙光 86 前半 猫も杓子も健康食品・サプリメントの時代になってきました。そこで考えてみたいのが、幾分科学的でいかにも必要そうな栄養分とその吸収

» 肉体のキリスト教的な解釈者の続きを読む


利巧だが狭量

彼は自分以外には何ものも尊重する術を知らない。そこで彼が他人を尊重しようと思うなら、彼はいつもまず他人を自分に変えなければならぬ。この点ではしかし彼は利巧である。 曙光 412 ニーチェもうまいこといいますね。「利巧だが狭量」というタイトルがぴったりで、まるで落語のようです。 狭量は心の狭いことを意味しますが、まあもともと口がうまいことを意味する「お利口さん」の「利口」ではなく、あえて巧みという字を用いる「利巧」という表現を用いた訳者の粋な感じもいいですね。 さて、「利巧だが狭量」ということで、ここで何となく社長仲

» 利巧だが狭量の続きを読む


最も個人的な真理問題

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序 「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うはずですが、誰もその疑問に答えてはくれず、その先自分をごまかすように大人になっていきます。 「これが答えだ」と束の間の錯覚を覚えることもありますが、寝て覚めればそれもなんだか色褪せ、また

» 最も個人的な真理問題の続きを読む


より美しいが、価値は劣る

絵のように美しい道徳。それは、まっすぐにほとばしりでる感動の道徳であり、けわしい通路の道徳であり、激昂した、強烈な、ものすごい、荘厳な挙動と口調の道徳である。それは道徳の未開の段階である。その美的な刺戟によってそそのかされて、高級な順位をそれに割り当ててはならない。 曙光 141 より美しいが、価値は劣るということで、安物の心理学を駆使する水商売の人や胡散臭い人、そうした人たちに騙されてしまう正体である「劣等感」についてでも書いていきましょう。 よく利用されるのはアドラー心理学あたりでしょうか。まさかアドラーも自分

» より美しいが、価値は劣るの続きを読む


不足の中にある精巧さ

ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない!その鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう! 曙光 85 世を見渡してみると、「結局何がしたいんだ?どうありたんだ?」としか思えないような構造がよくあります。 何となく世間では良しとされている中間ゴールのようなものを盲目的に目標として、こなした先にあるのはただの疲労、というような構造です。 元々、人間にも飢餓に対する戦いがありました

» 不足の中にある精巧さの続きを読む


倫理的世界秩序の妄想

あらゆる罪が贖われ償われることを要求したような、永遠の必然性は全く存在しない。― そのようなものが存在するというのは、罪として感じられるすべてのものは罪であるということが妄想であるのと同じように、恐ろしい、ほんの僅かな部分だけしか有益でない妄想であった―。物ではなく、全く存在しない物についての意見が、人間の心をそのように乱したのである! 曙光 563 世界平和を夢見る人たちは数多くいます。おそらくそれは今現在だけの話ではなく大昔からです。 社会的に見れば、争いの種はほとんど「君主」にあります。 国と国の戦いは国同士

» 倫理的世界秩序の妄想の続きを読む


憎しみをもたずに

君は情熱に別れを告げようとするのか?そうしたまえ。しかし情熱に対して憎しみをもたずに! 曙光 411 序 情熱と別れということで、叶わなかった恋、そして叶わせなかった恋というものについてでも書いていきましょう。 いくら情熱を持とうとも叶わなかった恋というものもあります。しかしやはり、何にも情熱を持てないままに過ごすよりは随分とその瞬間を輝かせるものとして、その成就に関わらず良い経験であると思っています。 一方、いくら情熱を持たれても叶わせなかった恋というものもあります。「何がいけないのか?」と聞かれれば、「いけない

» 憎しみをもたずにの続きを読む


いわゆる古典教育

われわれはあの詩を、しばしば感動して真に受ける。 「運命よ、お前に従おう! 心のすすまぬときも、そうしなければならぬわたし 吐く息も悲し!」 曙光 195 序盤抜粋 どうしても何となく調子が悪い時があります。そうした時には「風の流れが変わるのを待つ」ということをした方が賢明です。 風向きが悪い時に踏ん張り続けるとロクなことがありません。 しかしながら「待つ」というときにもやることはあります。 それは、ひたすら気を落ち着かせることです。 一ミリでも気分が良い方向に向かうように舵だけは切らねばならないのです。 仕事の時

» いわゆる古典教育の続きを読む


キリスト教の文献学

キリスト教が誠実と正義とに対する感覚を陶冶することがいかに少ないかということは、キリスト教の学者たちの著作の性格の上からかなりよく見積もることができる。彼らはその憶測するところを、あつかましく、あたかも教義のように提出し、聖書の章句の解釈に関して誠実に困惑することは、稀である。 曙光 84 序 あまりストレートに宗教学的な分野に触れるつもりはありませんが、どうしても曙光の中にはキリスト教を名指しして書いている箇所が多くあります。今回も「キリスト教の文献学」ということで、ユーザーさんにも検索エンジンにもキリスト教マニ

» キリスト教の文献学の続きを読む


定住している人々と自由な人々

定住している人々と自由な人々ということで地元愛についてでも書いていきます。 なんだかんだで毎年毎年いろいろなところに行きますが、どの土地に行ってもそこに地元愛が感じられればその分だけ旅の醍醐味があります。 20代中頃は、周りの大企業に行ったような人たちが「いつまで地元にこだわるんだ?」的なことを自慢げに言っていました。 まあいろいろなところで働いて視野を広げてみるのもいいですが、外国人男性を連れている女性のような「羨ましがられたい」というような感覚にしか思えませんし、ジャンプ派の人間が何かの優位性を持って優越感に浸

» 定住している人々と自由な人々の続きを読む


その幸福もまた輝かせる

実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561 前半 生きていると「嫌だなぁ」と思う瞬間も多々あります。しかしながらそれがコントラストとなったり、また、新しい意図のきっかけにもなります。 嫌な上司にあたると、その上司との関係性を良

» その幸福もまた輝かせるの続きを読む


道徳教師の虚栄心

道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序 万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すようなものだからというのがその最たる理由でしょう。 ともすれば、全体に適用するのか個に適用するのかというような尺度を元に、功利的・数量的に全体を包括しているもののほうが優れているというよう

» 道徳教師の虚栄心の続きを読む


あわれな人類!

脳の中の血が一滴多すぎたり、少なすぎたりすると、われわれの人生は、いいようのないほど惨めになり、つらくなることがありうる。そこで、プロメテウスがそのはげ鷹に苦しんだより以上に、われわれはこの一滴に苦しまなければならない。しかしあの一滴が原因であることをわれわれが知りさえもしないときこそ、一番恐ろしいことになる。知りさえもしないで「悪魔」!とか「罪」!とかいうときである。 曙光 83 20歳の時、成人式あたりの時に思ったことがあります。それは、大人と責任というような属性のことです。 今となれば、法律上の責任くらいの意

» あわれな人類!の続きを読む


エスプリと道徳

精神や、知識や、心情を備えていながら退屈であるという秘密に通じ、退屈を道徳的なものと感じることに馴れているドイツ人は、― フランスのエスプリに対して、それは道徳の眼をえぐり抜きはしないか、という不安を抱く。 曙光 193 エスプリ(esprit)は精神というような意味ですが、フランス語のためフランス的な精神という感じで使われます。まあ日本で言う「大和魂」「島国根性」といった感じで捉えても問題ないでしょう。 フランスについてもフランス語についても特に関心がなくほとんど知らないので、エスプリについては特に触れることがあ

» エスプリと道徳の続きを読む


聖職者の襲撃

「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から不安を免れさせるのは、われわれの勝手である。なぜなら、物自身は、その本性上、われわれからいかなる判断をも強奪することはできないからである。」 曙光 82 哲学的・倫理的な格言は、時に自

» 聖職者の襲撃の続きを読む


小心者

ほかならぬ不器用で小心な人たちこそ殺害者になりやすい。彼らは目的にかなった小さな防御なり復讐なりの心得がない。精神と沈着な心構えとの欠乏のため、彼らの憎悪は絶滅以外の打開策を知らぬ。 曙光 410 なんだか曙光のこの項目を見ると北九州一家監禁殺人事件の緒方純子受刑囚を思い出します。それだけでなく、世のDV被害者が浮かびます。変な宗教まがいの団体に洗脳された人たち、パートナーに洗脳されてしまった人たちがどうしても思い浮かびます。 小心者といえば、気が小さい人や臆病者のことをさしますが、時にそうした小心者を餌食にして自

» 小心者の続きを読む


われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序 僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。 それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」というものに対して怒りのパワーが湧き起こってくる感じです。

» われわれの自由になることの続きを読む


病気

病気の意味は次の通りである。老齢、醜悪、厭世的な判断などの時ならぬ接近。これらのものは相互に関係しあっている。 曙光 409 病気は、その昔「よくない状態」というような意味だったということを聞いたことがあります。今のように科学的に捉えることができなかったということが元となりますが、単純によくない状態という感じです。 そして、一部例外を除いて大半の病気は原因がストレスだという事を聞いたことがあります。病気とは字面を見る限り「病」と「気」なのでまさに「病は気から」という感じになります。といっても、免疫の関係もありますか

» 病気の続きを読む


賞讃と非難

戦争が不幸な結末に終わると、人々は戦争に「責任」のある者を気にかける。戦争が勝利のうちに終わると、人々は戦争の張本人を賞讃する。責任は失敗のあるところではどこでも追及される。なぜなら、失敗は必然的に意気消沈を伴うからであり、これに対しては、ただひとつの治療法が思わず知らずのうちに適用されるのである。それは、力の感情の新しい興奮である。 曙光 140 序盤 人からの賞讃や非難などは、その人の気分次第であり、動機等々何かの根拠にしてはいけないものです。 他人から賞讃を受けると喜び、非難を受けると落ち込んだり起こったりす

» 賞讃と非難の続きを読む


聖者の人間性

世間の聖者のイメージとしては、どこかしら厳しい戒律を守っていて、温厚で優しい人というイメージがあると思いますが、僕は昔からこの戒律というものについて首を傾げていました。 なぜなら、「戒律を守らなければならない」「律法を遵守しなければならない」という一種の制限自体が、戒律を破る動機の存在を認め、また、強制されることでそれ自体が苦しみとなるのではないか、ということを考えたからです。 「決まっているからやってはいけない」 「戒めなのだから守らなければならない」 というのは、明らかに義務教育的です。 そういうことを言い出す

» 聖者の人間性の続きを読む


寛大がひろく必要なところ

多くの人たちは、公然たる悪人となるか、あるいはひそかな憂苦のにない手となるか、を選ぶにすぎない。 曙光 408 昨日、独りで散歩しました。その時にふと考えたことは、どうしても、「人は人に合わせると実力を発揮できない」というようなことです。 ふと今まで働いてきた数々の仕事を思い出しました。 自分を自由にさせてくれる上司の場合は、人の倍くらいの結果を残し、親切心で何かと教えてくれる上司がいる場合は、逆に「甘え」が生まれ、「やり方の制限」がかかり、人の半分くらいしか本領を発揮できなかったというようなことを思い出しました。

» 寛大がひろく必要なところの続きを読む


過度を避けよ!

到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半 「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設定の仕方としてはあまり推奨されるものではありません。 そうした設定は、すごく抽象

» 過度を避けよ!の続きを読む


われわれの性格に反して

われわれの語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき― これはしばしば起こることだが―、われわれは下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく。 曙光 407 「語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき、下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく」 それが揺るぎない理であっても、一般的に都合が悪いこと、耳障りなことであれば、語り口調が変になり、自信がなさそうに見え、不信を招いたりすることがあります。 ― そして頭はどうしても矛盾を嫌います。 だから、完全に消化しきれるまでは、思考

» われわれの性格に反しての続きを読む


同情的なキリスト教徒

隣人の苦しみに対するキリスト教的な同情の裏面は、隣人の喜びのすべてを、隣人が望みまたなしうるすべてのことに対するその喜びを、深く邪推することである。 曙光 80 どんなことでも、それを面白いこととして笑ってしまうことができます。それが悲劇の哀愁であっても、悔しさであっても絶望であっても、笑ってしまうことはできるはずです。 勤め人時代、職場の先輩二人とお好み焼き屋に行った時のことです。 「○○さんって、犬に似てますよね」 と言ったところ、 「どういう意味や!」とキレられたことがあります。 僕としては、犬顔、猫顔、キツ

» 同情的なキリスト教徒の続きを読む