無料慣れの影響

昔からフリーウェアやシェアウェアというものがありましたが、コンテンツやゲーム、サイト等々コンピュータを取り巻く環境において無料が蔓延しすぎた影響で、逆に疲弊が起こっているような気がするときがあります。

まあこれは時代的な流れで止められないような流れであると思いますが、「無料のものを用いて、それに飽きてすぐにまた違う無料のものを試す」という感覚は、浅い味わいと一種の逃避をもたらすため、人を疲弊させていくというようなことを感じます。

「無料系のアプリを試して、やめて、また次の無料ものを試す」、「無料動画で時間を潰して、また他の無料動画を見る」という感覚は、コンピュータに関する分野のみならず実社会にも蔓延しているような気がします。

それは深いところまで見れば、人格の形成、コミュニケーション能力の高まりなどにも大きく影響を与えている気がしてなりません。

相対的な痛みと集中力

感覚的なものですが、よほどの領域にいない限り、お金を消費する時、少なからず痛みを感じるという部分があります。しかもそれは相対的な感覚なので、所有している資産が少なければ少ないほど強くなります。つまり、出す金額の「全資産に対する割合」によって痛みは変動するという感じです。

そういうわけなので、無料のものならば消費の時の痛みがない分手を出しやすいということになりますし、金額が高額ならかなり痛く、少額ならば痛みは少ないということにもなります。

金額に応じて集中力が変動

そして、それに応じて集中力も変動します。無料ならば最大限手を抜き、金額に応じて集中力が高まっていくという感じです。

本来はそんなことに関係なく物事に集中するのが望ましいのですが、ある種本能的な感覚で痛みに応じて集中力が変動するという感じになっています。

心の底からやりたいこと、好きなことであれば関係がなくなりますが「そうでもないような適当な対象」である場合は、そうした痛みに応じた集中力になってしまうという感じです。

無料で浅く味わい、すぐ他のものに乗り換える

ということなので、特に深く味わうこともなく、無料で浅く味わい、結局それは味気ないので、すぐに他のものに乗り換えるという感じのことが繰り返されるようになります。

以前、羽生善治さんの本に書いてありましたが、将棋の世界でも、「情報への到達が楽になればなるほど、ある程度の地点、八割程度まではすぐに行けるようになるが、それ以降は非常に難しく、結局ラスト二割を埋めるためにかかる時間や労力を総合計すると、昔からのやり方で徐々にレベルアップしていく時とさほど変わりがない」という感じのようです。

ということなので、技術の進歩自体や技術の無料化自体はいいですが、人の楽しみへの影響として「自分自身が徐々にレベルアップしていくという喜びに関して、最初の八割はすぐに到達できるので、楽しいながらもすぐに終わり、ラスト二割はあまりにゆっくりしすぎていて高揚感がなく、飽きてしまう」という感じの傾向があるような気がします。

八割までを楽しむ

しかし、周りが八割までの間をすごい速度で高めている中、牛が歩くほどの速度で歩むのは気が引けたりもします。

ただそうしたことは、ある種時代の流れとして仕方がない面があるものの、結局、世間が取る選択は「他の物に手を出して八割までを楽しむ」というものになりやすいという感じがしています。

そして、無料と代替物の検討による集中力の低下と「八割までの到達速度」によって楽しみや喜びを奪われているという感じにすら見えます。

さらに無料や安価であるということが影響して代替物の検討が常に頭をよぎるため、その他の実社会においても「合わなければ他に行けばいい」という感覚が増してしまうことになります。

加速する「原因は外にある」という感覚

無料ものそれ自体が人格形成にどのように影響を与えるのかということを考えてみた場合、その最たる影響としては「原因は外にある」という感覚が増すという点ではないでしょうか。

「無料や低価格のものを試して、すぐに乗り換える」という感じは、インターネットを通じたゲームやコンテンツの世界のみならず、現実世界の就活・婚活系の〇〇活動にも同様のニオイがします。

「自分に合うかどうか」という視点

それらは結局、安く浅い付き合いを試してみて、自分に合うかどうかというところばかりに着目している感じがします。

「自分に合わなければ逃げる」という感じです。それはそれでひとつの手段ですが、「それは最終手段だろう」と思っています。

「自分に合うかどうか」という視点もいいですが、現段階では合わなくても、何かしらの成長とともに合うようになっていく可能性もあります。それがハナから排除されているような雰囲気があります。

気まずさの克服

昔「放送室」で、「誰でも一度はいじめられかけて、それをどうかわすかによって本当にいじめの対象になるかどうかが決まる」というような対人関係を如実に表したような会話がありました。

基本的に、学校や会社等々、何かのコミュニティでは、自分と合わない人というものが混じっていたりします。

近年台頭してきた「よくわからない集まり」は、自分と気が合う人、趣味が合う人を求めて人が群れるという感じですが、実社会において中心となるコミュニティは、自分と合わない人も入り混じった空間です。

喧嘩をしたりして気まずくなっても、翌日には顔を合わせなければならないという中、「仲直りして仲良くなる」とまではいかなくても、せめて同じ空間に居ても大丈夫なくらいにまで関係を修復し、最低限の関係を保つということを求められたりします。

「浅く安く手軽に出会い、合わなければ次」という様は逃避にしか見えない

その気まずさの克服が、人格形成や対人コミュニケーション能力を磨く良い訓練になるはずですが、「浅く安く手軽に出会い、合わなければ次」ということを繰り返している様は単に逃避にしか見えません。

何度か書いていますが、コミュニケーション能力とは、自分の気持ちや考えを相手に伝える能力と、相手の気持ちや考えを理解する能力です。仲良くなるというのはその結果起こりうることであるというだけで、ひとまずは「合わない人を理解する」という部分から逃げるというのは少し違うのではないかと思っています。

概念への執著

「嫌なことはやらなくていい」とか「嫌なやつと仲良くする必要はない」ということ自体は正しいですが、「それ自体がそんなに嫌なことか?」という部分は棚に上げられている感じがします。

例えば、世の中には「営業するのは嫌だ」という人と「営業は楽しい」という人がいます。

で、自分は営業が嫌だと思っていても、それを楽しいと思う人もいるのであれば、「嫌という感覚は妄想概念や偏見ではないか?」と一度自分を疑って、営業自体を試してみるということが望ましいという感じになります。

嫌な気持ちには、本能的なものもありますが、よくよく観察してみると「概念への執著」がほとんどです。

論争したところで実質的に何の実りもないような議題に対してあれこれ喧嘩をしたり、気まずくなったりと、所詮その程度だったりします。

相手が何かの特性を持っていたり、何かの概念に執着を持っていたりしても、結局「幾多の原因がそこで合わさって今その結果が生じているだけなので、実は本人は不在」という感じのことを明らかに観れば、実害がない限り特にその人のことを嫌悪する必要もなくなります。

嫌な気分になる時、自分とは合わないと思う時、原因は自分の外側にあると思いたいのはわかりますが、大半は自分が保持している概念への執著です。

それを棚上げして、自分の保持している概念、もっと言えば歪んだ信念と合致している対象を求めて彷徨っているという感じがします。

無料慣れにより浅い経験の連続で疲弊していく

その一端を担っているのが、すぐに手に入り簡単に乗り換えが可能な「無料もの」であり、無料慣れの感覚だと思っています。

無料や安価でクオリティが低く、無料や安価であるため集中力も発揮できず、常に代替物が視野に入っている状態で、「合わなければ他のものを探す」という逃避の感覚が内在されているため、切磋琢磨することが無くなってしまい、結局全てが浅い経験で終わってしまうということになりかねません。

そして浅い経験の連続で疲弊していくという感じです。

仮に対象が無料ものでもフルパワーを発揮できるようになる領域になるには、どのようなものでもある程度受け入れられる教養が必要になります。

「弘法筆を選ばず」という言葉の奥には、そんな感覚も含まれているのでしょう。

Category:IT &Internet パソコンとか通信とか

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