「病苦」病の苦しみについて触れていきます。語るまでもなく病については、ダイレクトに苦しく、痛かったりしんどかったりするので誰しもが実感を持つものだと思います。ただ、「四苦八苦シリーズ」なので触れざるを得ないため、あえて哲学テーマとして、この「病苦」について考えてみましょう。
病苦(びょうく)とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられないという意味で「思い通りにはならない」という苦しみになります。四苦八苦の3番目の苦しみです。
老苦においても、「病に冒されやすくなる」という側面があります。ただ、老いたから病苦が訪れるわけでも何でもなく、生まれた時から病に冒される可能性は常にあり、それから完全に逃れることはできません。
「完全に逃れること」が不可能という意味で、四苦八苦として語られるという面は見逃すことができません。
それがどのような病気であれ、何かしらしんどかったり痛かったりと体からストレートに苦しさがやってくるという一方、ある程度起こることを防ぐ事はできても完全には防ぐことができないという感じなので「思い通りにならない」ということになります。
個人的には腹が弱いので、昔はよく腹の激痛に苦しみました。十二指腸潰瘍などにもなりましたし、うつやパニック障害も経験しているので、病の苦しさは実感しています。
思考上、論理上の善悪・真偽・正邪を遥かに超え「どうあがいても苦しい」それが病苦です。
もちろん体が痛いということでいえば怪我でも痛いのですが、いちおう病苦ということなので病の苦しみついて進めていきます。
体は健康へと向かおうとしている
だいたい病苦とは、完全に生存本能に直結していて、「生命維持に関して不都合な状態を示す」という感じで苦しさがやってくるという感じになっています。
感染症のような直接的な原因もありますが、冷えや緊張、環境といった間接要因もあり、要因も症状も多種多様なので枚挙に暇がありません。
実際の病気については、専門外なので語れるような領域ではありませんが、少なくとも「体は常に健康に向かおうとしている」ということだけは確かだと思っています。
それを「変な環境にいること」や「変な考えがもたらす緊張」がマイナスに引っ張っているのだというのが基本形だと考えています。
病とまでもいかないような体の不調に関しても、結局は体を冷やしたりだとか、変な姿勢を取り続けていたということだとか、酸欠になっているとかそうしたことが原因だったりもします。原因は結局水分不足で軽い脱水状態だったことにあった、ということもよくあります。
その上で偏った食生活を送っていたり、やたらと睡眠が浅かったりなどなどが続くと、体が限界を迎え、どこかしらがおかしくなってくるという感じで病気になってしまうということになるのでしょう。
ということで、「たった一つの原因」を示すとするならば、心が体をおかしくしているということになります。正確に言うと、思考が体をおかしくしているという感じです。
といっても、極端な観念論のように「観念だけが問題」というわけでもありません。
ただ、結局冷えや変な労働環境や暴飲暴食や睡眠不足も、よくよく考えてみると、全ての原因の発端は思考、思考の状態であるはずです。
日常の単純な事柄であれば、何かが気になって食が進まないとか、眠れないといったこともありますし、何か考え事をしていて食事に意識が集中せずに箸を止めるタイミングを見逃したというような場面もあります。
そのような感じでいたるところであらゆる思考が体への悪影響を形成しています。
そういうわけで、病気と思考について考えてみましょう。
病気と思考
病的な思考が病気を引き起こす、という場合もありますが、それ以前に人間が動物であることを忘れているという感じがどこかであります。
万物の霊長などと言いながら、特殊で最高の動物だと考えたりするのは勝手ですが、所詮体としては動物であり、現代のような生活はごく短い歴史しかありません。ということで、体はこんな生き方に適応していない、適応しきれていないという感じになります。
道具の使用というのは多少なりともあったと思いますが、それでも日中は外で太陽を浴びながら多少動き回り、夜は出歩かないという感じで数万年過ごしてきたはずです。
ところが現代では完全に様子は異なっています。もちろんそれで新しい世界が広がったという面もありますが、それは思考上の話です。
文明が合理化を進め、暑さ寒さ栄養摂取などについてはある程度克服してくれましたが、あくまで自分の体をただの動物であると考えれば、こんな生活環境の中で、健康でい続けること自体が不自然だということになります。
と、ここで思考による不自然な行動について考えてみます。
思考による不自然な行動
例えば、体的には、「冷えないほうがいい」という感じのはずですが、「寂しい」などといいつつ、深夜に外を出歩いたりしたりします。生存本能的には「仲間が近くにいた方が安心だ」ということになりますが、それも一応思考上の都合です。
本来はそうした「寂しい」という感情、それを呼び起こす恐怖心自体が錯覚であると観るのが正しいのですが、まあここでは動物としての群れを「自然な行動」として考えたまま話を進めていきます。
「寒い中夜に外を出歩き、酒を飲んで寂しさを紛らわせる」という行動は、一方で生存本能的な恐怖心が発端となって起こした行動でありながら、一方で体としては冷えたり、アルコールで体を痛めたりすることになります。
そして、さらに因果関係を考えてみた場合は、プライバシーが重視され、近所付き合いがなくなったこととか、競争社会で周りが敵に見えるため、勤め先でも安心しきれず、軽薄な関係しか築けないとか、そうしたことも要因となっていると考えることができます。
しかし、そんな中一人だけ昔のようなコミュニティを求めようと思っても「異物」として扱われ、逆にコミュニティから排斥されてしまうという可能性もあります。
ということで全てが不自然だということになります。
そして、そうした不自然は「外を出歩いて体を冷やしてしまう」といった面だけでなく、慢性的な緊張ももたらしてしまいます。
慢性的な緊張
緊張はそれだけでマイナスになるようなものではありません。
自然界においても「物音がしたらそちらを振り向く」というような感じで、常にちらほら緊張がありますし、そうした緊張は逆に自然なことです。
仕事を長期間休むと、仕事の仕方を忘れたり、能率が悪くなったりするというような感じで、あまりに緊張が無いと、逆に体もうまく働かなかったりします。それと同じように、瞬間的な緊張は、体にとってある程度必要なものとすら考えることができます。
ただ、緊張が続くと確実に体にはよくありません。呼吸が浅くなり酸欠になったりして、結局体の何処かが犠牲になったりしていきます。そして、慢性的な緊張が続くとだいたい病気になります。
気にしていないようで気にしている思考
思考という言葉を使っていますが、ここでいう思考とは、今能動的に頭で考えている思考だけにとどまりません。
慢性的な緊張、それはだいたい無意識に保持した「気にしていないようで気にしていること」が要因となっています。
何か論理上の正しさなどを元に自己説得を行っていたりして、何かに抵抗しているような格好になっていたり、他のことをしていてもどこかしら「息子や娘が気になる」とか「財布を落とさないようにしよう」というような感じで、自分でも気づいていないだけで気にしている事柄があったりというような感じです。
ということで、それが考えであれ、物や対人関係であれ「所有」すればするほど、「気にしていないようで気にしている事柄」が増えていきます。そしてそれが慢性的な緊張をもたらし、しまいに病気になりやすくなってしまうということが起こったりします。
そして「病気の苦しみを持ってそれに気付け」と体から提案されたりするのです。
環境すらも思考の結果
病気となると何でもかんでも周りのせいにしてしまいがちですが、冷えてしまう環境や、ブラック労働環境などなど、不自然な環境を選択してしまったのも結局元を辿れば思考の結果です。
病苦は、病の苦しみとして体の苦しみ、体が思い通りにならない苦しみになりますが、「他から制限されていない」という社会学的な意味での自由意志の上で選択したような環境は、やはり発端が思考です。ということでここでも心が病気を作るという感じになっています。
健康へのおごりとしての病苦
病苦は、「痛い、苦しい」という病そのものの苦しみという面もありますが、「健康へのおごり」、「健康時における健康の意気」という体への執著も精神としての苦しみの要因となりえます。
病苦も、四苦八苦の四苦のひとつであり、仏教としての概念になるため、経典の中から病苦について触れられている点について掲示しておきます。
「愚かな凡夫は、自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している―自分のことを看過して、じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―このことは自分にはふさわしくないであろうと、と思って、わたくしがこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康のおごり)はまったく消え失せてしまった」(アングッタラ・ニカーヤ/増支部経典 中村 元訳)
健康な状態にある時は何とも思わず、また、健康ではなく病にある人達を見て「病気や怪我は嫌だなぁ」と思ったりしてしまうということが起こります。
健康な状態にある時は、もちろん体的には爽快なのでそれを好むというのは語るまでもなくということになりますが、健康な状態への執著が、「不安感」とか「慢心」といった感じで現れ、時にあまり意味のない苦しさを与えてくることもありますし、心のありようで病が生じて結局「体的にも苦しい」ということが起こったりもするという感じになっています。
目的に合わせるように現れる病
ここで、思考が病をつくるということについて、別の側面から考えてみたいと思います。
病苦は、論ずるまでもなく苦しみでありながら、思考上の何かの目的に合わせて現れることもあります。
例えば「うつと診断されれば、会社を休むことができる」というような解決策を求めて病が起こるというようなやつです。「風邪をひけば学校をサボってゲームをすることができる」というような感じです。
個人的には、小学生の頃に「スポーツドリンクをもらいつつアニメが観たい」という目的に合わせるように風邪になったことがありました。また、勤め人時代に「嫌いな上司に表情を見られるのが嫌だ」とあまり意味もなく風邪気味のふりをしてマスクをしたところ、本当に風邪になったこともありました。
小学生の時の思い出は、あまり覚えていないので、比較的記憶が鮮明である勤め人時代のマスクの件についてもう少し触れてみましょう。
風邪のふりをして本当に風邪になった
「嫌いな上司に表情を見られるのが嫌だ」ということと、「風邪のふりをしていれば、あまり絡まれもしないだろう」ということで、風邪気味のふりをしてマスクをし続けていたところ、本当に風邪になったという感じです。
体としては風邪になったほうが辛いはずなのに、それでも嫌な上司と同じ空間にいるよりは病休で休んだほうがまだマシだと思った、ということになるのでしょう。
この時は、その目的に合わせるように足元が冷えてきました。「天然カイロ」と名高い年中ポカポカの手のひらも、日に日に冷え、おそらく体温自体が下がってしまったような感じでした。そして結果的に本当に風邪になりました。
病苦は即時的な苦しみであるからこそ
と、ここまでは哲学テーマながら、あまり関係のないような話になってしましましたが、ここからは少し哲学的になっていきます。
が、まずは病苦との向き合い方について触れていきましょう。
病苦は即時的な苦しみであるからこそ、それを求めることは避けなければならないということです。
病気はストレートに苦しいことであり、必ず避けたいような事柄になるため「意図して病気になりたい人などいないだろう」ということを思ってしまうかもしれませんが、世の中には仮病を使う人もたくさんいることを見てきているはずです。そんな感じで病の状態にあることを欲しているという場合があったりもします。
病気の苦しさが本能的な、体的な苦しさとしてあったとしても、「病気のフリをしていると周りの人たちが優しくなるからなぁ」という社会的で意識的な楽さ、精神としての楽さというものが構造的に生まれるからです。
さらに仮病なら短期的にしか説得材料になりませんが、その裏付けとしての何かの証明があると、さらに長期的な伝家の宝刀になります。
よく病気になると、環境のせいにしたりしてグチグチ言ったり哀れみ乞いをする人がいますが、おそらくそれは病気の苦しみよりも、「病人であること」が社会的な成功法則となっていて、精神的な楽さに比べれば病気の苦しみのほうがマシだということになっているという感じです。
もちろん、公害や災害が発端となったようなものなど、病気には完全に周りの責任である場合もありますが、たいていの病は思考がもたらすという感じで考えれば、そうでないものもたくさんあるということになります。
「その病」になりたくてなったという感じではなく、何かの目的に合わせて、「あ、じゃあその病気いくわ」と体が適当にそれを勝手に選択して発症させたということもあるという感じです。
「元々腎臓が弱めだから手っ取り早く腎臓系でいくわ」
という感じです。
という感じで考えると、世に「うつ病」が認知されてくるに従いやたらと数が増えたのは、「内臓壊す必要がないんだったら手っ取り早くうつ病にしとくわ」という感じかもしれないということです。
といっても、環境や思考のあり方を含め、全て「自分が作り出し、選んだもの」ではなく、「関係性の中で形成されたもの」であるため、自分にも責任はありません。そして周りの人にも責任はないのです。
世界に自分一人しかいなかったら病苦は確実に苦しみ
ここで考えてみたいのが、病苦は即時的で確実に苦しみである一方、対人関係などの社会面では、病人であることはプラスになるという思考上の変な構造です。
しかし、世界に自分一人しかいなかったら病苦は確実に苦しみであり、社会的なメリットがひとつもないのであれば、「社会的なプラス」と「体の苦しみのマイナス」の打ち消し合いもなく、確実な「苦」です。
そして「他人が実在していること」は証明することができません。だから、結局は病気による社会的な成功法則すらも自作自演であり、単に苦しみを選択しているということにしかすぎないという感じになります。
そうと分かれば、可能な限り病気を治していくというのが正しい方向になります。そしてもちろん病気は、「目的」だけでなく、環境の選択や様々な考え方が原因となっています。
それらに着目し、なるべく不自然なことを避け、歪んでしまった分は何かで矯正するという感じで対応していくしかありません。
因果で紐解く原因
今までも何度が触れていますが、「それが無くなった瞬間に結果も消えるもの」が原因です。
だから病気の苦しみは、「歪んでしまった状態」が原因です。そして大前提として触れていましたが、「常に体は健康へと向かおうとしている」という方向性を持っており、それに抵抗を加えているのは全て思考です。
一旦歪んでしまった体の状態にあっても、一応常に正常な状態に戻ろうとはしています。そして、毎瞬、毎瞬そうした方向性に変化をしていっています。
病苦の苦しさは、今現在の体の状態を原因とする結果です。しかし、そうした因果も常に変化しており、基本的に正常な状態に戻る方向性を持っています。そんな中「歪んだ状態」を作り出した思考がそのままだと、思考が抵抗になります。
だから、因果を考えれば、物理的な操作や補いだけに着目するのではなく、心を観る必要があります。他人任せにばかりすることは、「追加追加で歪ませている」ということになってしまう恐れがあるという感じです。
それでも思い通りにならない
しかしながら、それでも身の回りの環境は、己の選択だけで完全に整うことはありません。思考が整ったところで、天候の変化を筆頭に災害や病原菌の蔓延など、どうしようもない部分がでてきます。
「それでも思い通りにならない」
ということで、やはり「苦」です。
どうあがいても生きている限り、病の苦しみに遭遇する可能性からは完全に逃れることができないということで「思い通りにならない」ということになります。
体からの直接的な苦しみでありながら、「思い悩んだところでどうすることもできない」という感じでやはり「苦」ということになります。
一応「病苦」は仏教用語なので、最後に少し触れておきますが、原始仏教の出家においても、「所有物」は全て実家などに置いてくることになっていたものの、薬と爪楊枝を持つことはオッケーだったようです。また伝承的になりますが「腹痛で衰弱する」というシッダルタの最期の様子から考えても、どのような人であれ病に冒されるリスクは最期まであるということになります。
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