威厳と無知の同盟

そうだ、われわれの無知と、知識に対するわれわれの渇望の乏しさとは、威厳として、性格として、肩で風を切って歩くことを見事に心得ている。 曙光 565 文末

威厳を欲することはありませんが、社会の中で過ごす場合は、威厳がモノをいう時があります。それは蔓延する体育会系思想、儒教思想的なものの影響が大きいでしょう。こうした威厳のような権威性は、儒教思想下にある場所以外でもどこの地域でもあるようなことですが、

「威厳がある方が何かとやりやすい」

「威厳がないと相手に慢心が生まれ何かとやりにくい」

ということで、「オレがオレが」、「私が私が」、ということになっています。

威厳や権威性

権威性を基準としている人たちの間にあっては、権威性がモノをいいます。そして権威性がないと相手はなめてくるのです。

権威性を正当性の基準として保持している人であふれる社会においては、そうした威厳や権威がある方が何かと楽です。

しかし物事の本質は、その言葉を発した人の属性によって変わるものではありません。しかしながら、権威を裏付けとした信憑性の基準がある限り、何かの文章でもひとまず大学の名前を出したり資格の名前を出したり、現状のその人の肩書が文章の付加情報として付け加えられます。

そうしたものがあるからこそ、人は威厳を欲し、権威性を高めるために本質はさておいてあれこれ資格取得や実績作りに躍起になっていきます。

そして、その場合には主体としての「私」、「我」があります。

こうした「我」を実態と思うからこそ煩悩に苛まれるにも関わらずです。

我と尊敬・侮蔑

まず最初に、僕には尊敬する人がいません。

それは、「我こそが」というものではなく、我自体が無い、というより虚像であることを知っているからです。

この我には、僕が不在です。

住民票で登録されていたり等々、社会的な枠組みの中では他の誰かとは区別されていますが、この「我」は、僕が作り上げたものではないからです。

客観的に考えてみましょう。

この体は両親の細胞から生まれています。そしてこの考え方は、経験の中から教育などをされたものです。本や講義から知識を得、誰かの楽曲を聞くことや誰かが作った楽器を触ることで音楽の技能を得たはずです。

そう考えると、「我」の形成に関して僕が何かをしたわけではありません。

ということで、この僕には僕だけが欠落しているのです。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

「外界からの情報の集合」であり、オリジナルの考えのようなものがあったとしても、結局、環境要因としてそれぞれ条件が違う中、たまたまそうした「組み合わせ」が出来上がったにすぎず、ゼロから何かを生み出したわけではないはずです。

そう考えると、般若心経に出てくる、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」も何となく理解できそうでしょ?

まあ般若心経は、その文言の使い方から道教の影響を受けた偽経という感じがしますが、それはそれで置いておいて「不生不滅 不垢不浄 不増不減」について少し考えてみましょう。

厳密にいうと、組み合わせが出来上がったというよりも、今、その状態になっているという感じです。そしてそれは可能性的には予め予定されているとも捉えることができますし、今、状態が変化したということは、またその状態は変化するということも予定されているという感じです。諸行無常ですね。認知や動機を含めた意識の状態を含め一切の形成されたものは固定的ではなく常に変化するというやつです。

これは情報状態が全てであり、意識的な情報も物理的な情報状態もすべて含んでいます。ということで、「全て」に対する理でもあります。

外界として形成されたものも、外界を感受して形成されたこの内側で起こる認識も、一切の形成されたものは無常であるということです。

偉い人と凶悪犯罪者

そういうわけで、話を元に戻しますが、世の中で言われているような偉い人や凶悪犯罪者にしても、社会的には「他の誰でもないその人達」ではあるものの、その人自体にも「我」はなく、ある種社会全体の中のある一定の情報の集合体にしかすぎないはずです。

そう考えると、主体たる「我」はなく、対象としての「尊敬する人」というのは対象が虚像であり、対象となりえないのです。

同時に凶悪犯罪者にしても、見方によればその人の意志で行ったことであっても、その意志の形成自体にその人は不在です。

だからその人個人を悪人だとして恨むことも少し違うのです。

社会としての個人と考えれば恨む矛先はその人ということになりますが、「その人」を形成したのは、その人以外の外界の要素であり、その人自体は不在といえば不在ということになります。

これは何かの偉業を賞讃するなということや犯罪者を罰するなということではありません。

それぞれ各々行動として、社会活動として最適な行動を選択すれば良いのですが、我が事として「我」を基準とし、その我が賞賛されたり非難されたとしても、本当はこの「我」は自分ではなく外界の情報の集合体であり、本質的な自分はその情報を元にしたストーリーに対する観客くらいでしかないと気づくことです。

「我が我が」を客観視

そう気づくことで、社会の中で活動する「我」が行う「我が我が」を客観視することができるようになります。

「どうしてそんなに自尊心を渇望するのか?」

ということを傍目で眺めることができるようになるでしょう。

「我」が虚像であることに気づけた時、「あの人はすごい」とか「あの人は劣っている」とか「あの人は私と同じくらいだ」ということが無意味であることに気づくはずです。

威厳に対する渇望は、無知から起こっている、ということがストンと腑に落ちることになるでしょう。

そして、威厳に対する渇望の源流は生存本能的恐怖心であり、それこそがこの心を蝕む原因であることに気づくはずです。

「求不得苦」求めても得られない苦しみ

威厳と無知の同盟 曙光 565

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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