折に触れて自分自身の美徳から逃亡する術の心得がないのなら、思想家など問題ではない!思想家は言うまでもなく「単なる道徳的な存在ではない」のでなければならぬ! 曙光 510
そう言えば最近タイヤの細いチャリの発見率が下がってきました。彼らの中でブームが去ったのでしょう。
「自分に酔いつつ、影響されやすい人」という人は一定数存在します。
純度100%というわけではないですが、「ビューティフル・ライフ」を観て美容師になった男性などは、影響されやすい人なのかもしれません(日和見な昼行灯)。
さて、哲学者というものは、道徳の影響を一番受けてはいけない人種です。様々な先入観を取り払って考える必要があるため、できる限り道徳や宗教を切り離す必要があります。
ところがやはりクリスチャンとして哲学者をしている人たちもいたわけです。そうした場合はキリスト教の先入観を受けた思考にならざるを得ません。そうしたことからどうしても思考に歪みが生じます。哲学者の中には、その中途半端さから、そうした人を毛嫌いしていた人たちも結構いたと思います。
といっても哲学者みたいな人種ではない人たちはだいたい感情で物事を決めています。
それはそれでいい部分もあるのですが、感情を持ち出すべきではないところまで、感情を全面に押し出すというタイプの人で溢れかえっています。
逆に感情しか持ち出してはいけないところに思考を持ってくる人もいます。そうした人はモテません。
意識状態の同調
病中末期くらいの時ですが、ある時すごく物事がうまくいっていた時期があります。
そしてその裏付けが欲しくて、その理由や理論的なものを思考で論理付けようとしたことがあります。
そうすると、論理付けが完成していくうちに、物事はどんどん上手くいかなくなりました。
そうしたときのことを今振り返ると、馬鹿らしくて笑いが出てきそうです。
非言語的な意識状態
問題は言語としての法則性ではなく、単に意識の状態だったということです。
なるべく理解できるように簡単言うと、例えば自分が今モテていたとして、「このセリフを言うとモテる」とか「こういう行動を取るとモテる」いう法則性を頭で作ろうとします。
モテテクの本などはそんなことばかりが書いてあることでしょう。
でも、本当はそんな現象としての行動や言語化ではなく、その手前にある非言語的な意識状態にあったということです。
イライラしている人と一緒にいると、何だかこちらもイライラしてくるという経験をしたことがある人もいると思いますが、そのイライラ状態に「言葉」が無くても、その状態に同調してしまうという経験はないでしょうか。
何だか楽しそうな空間にいるだけで、何となく楽しい気分になったという経験でもいいでしょう。
情報の状態と同調
で、本来は、そうした情報の状態と同調がいわば原因なのですが、それを言語や行動でパターン化しようとすると、「うまくできているか?」とか「こんな感じで大丈夫かな?」みたいなノイズが入ります。
そしてそれがその空間にいる人に伝わってしまう、と。
といっても、これらもひとつの現象であって、実は自分自身でコントロールしているわけではないのですが。
自分の美徳から逃亡する 曙光 510
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