「学問は醜悪で、乾燥し、味気なく、困難で、長たらしい―さあ!われわれにこれを美化させてくれ!」という感情から、哲学と呼ばれるものが再三再四発生する。 曙光 427 抜粋
学問を修得していけばその分野での行動は良い結果になる、というのは揺るぎなさそうに見えて、あまり関係がありません。
たくさん勉強することによって、目の前にあるものが見えにくくなっていくからです。ジャンル問わず勉強していけば、ほとんどすべての学問に共通する何かの学力だけはついていきます。しかしながら、専門性という偏りによって、目の前のことが見えにくくなったりもしていきます。
専門性が高まることで見えなくなるもの
学力とは結局、理が解る、つまり理解力や「あるものとあるものの違いなどがわかってくる」というようなことになります。ただ、その訓練の過程で偏見もたくさんついていきます。
例文や例題に使われる題材によって知らぬ間に影響されていきます。特に専門分野に進んでしまえば絶望的です。
気が狂うほど突き詰めて思考の限界レベルまで行き詰まらないと、そういった観念はなかなか取れません。
専門性が高まっていくと、その分野の視点から物事を見るようになります。その分野の見方で、その分野の理屈で物事を解決しようとしていきます。
すると、その分野では解決策を見出すのが難しい一方、その分野以外の見方であればすぐに解決できるようなものまで、頭を抱えてしまうようになります。専門性に執著してしまうからです。
学問にしがみつくもののババ抜き
なお余談ですが、あまり意味をなさないような文献は、絵かき志望の誰にも見られない作品のように、最後は虚しく捨てられていきます。同じようなことの焼き直しのような内容の割に、それがもったいないということで、ボッタクリの本を出版し、自分の教え子に買わせようとします。
そういうことをしてまで、学問にしがみつきたいのでしょうか。強制力がなければ誰も買わないような本などこの世になくてもいいものです。
社会の圧力を受けた美化
さて、理そのものは野生的です。野生どころか、自然も人間も関係ありません。それを何とか「人が使えそうなもの」に変形させて解釈しようとする試みが、トンチンカンな哲学です。
以前、ニヒリズムについて触れましたが、積極的ニヒリズムについて雑誌のライターが何かの本を読んで記事を書くと「だからこそ自分で価値を見出し、強く生きていく必要があります」といった具合になります。学者ですら、これと同じようなことを平気でやっていくのだから絶望的です。絶望的なのは、なんとか有用性を見出そうとする試み、つまり「美化」です。
「意味ないんなら語んなよ」
という社会の圧力を受けた美化です。
何かの「理」に余計な言葉を付け足していくほどに、本題とはズレていきます。しかし本来、社会の圧力や本の売れ行きは関係ありません。
理を理解しようとした時、その理が残酷に見えても、それは何かの本質に、固定観念からの感情を織り交ぜて反応しているだけのこと。
感情を織り交ぜないと財・サービスは売れません。織り交ぜるからこそ売れるというのが「先祖の供養」と言って、法外な金額を貪り取ることを可能にしていることに象徴されています。
学問の美化 曙光 427
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