占いを信じる人たちの責任転嫁の心理ということで、占いに依存し、占い師の発言によって人生を導かれてしまう人たちの意識の構造について触れていきます。
占い師によるマインドコントロールや洗脳という事例に関する報道も一度や二度ではありません、そんな中でも未だにこうした占いへの依存が後を絶えません。こうしたものは、全面的に否定するというよりも、その本質的な依存の原因を探り、そして某かの有用性のようなもの、つまり機能を捉えて心理的な構造を見抜いた方が賢明です。
「それは古代から続いていて、いつの時代も占いの方に頼ろうとしてしまう意識・精神の構造がある」という部分に着目する方が理に適っています。
今までにも何度かこうした占いに関する「機能」とその心理構造について触れたことがありましたが、総まとめとして占い全般について触れていきしょう。
占い師の占い結果を実行する人たち
占い師の占い結果を実行する人たちということで、まずは最近見聞きした占いによる多少の狂気についてご紹介しましょう。
遊び程度に占うくらいならばそれほど害はないですが、胡散臭い占い師に占ってもらった結果を元に実際に行動してしまう人達もいるわけです。
まさに他者依存、マインドコントロールという感じがしますが、まずはそうした事例について見ていきましょう。
占いにより家族で名前を変えた人たち
今年に入ってからの話になりますが、主要取引先に出向いた時のことです。社長さんとは社長仲間のため、色々と本題とは関係ないような事業の話をしたりしました。
その中で、その方が独立する前に勤められていた会社の現在を調べるべく、遊びがてらその会社のサイトを覗いたりしてみました。
そこでその方が「ん?」となりました。
同族企業ですが、何でも創業者一族全員の名前が変わっていたそうでした。
戸籍上も変更されているのかどうかわかりませんが、名前の漢字が全て別の字に変わっているという感じのようです。
「ここの社長、占いにハマってるんですか?」
と聞いてみると、
「その気配はあったかなぁ」
というので、
「今なら怪しい壺を売りにいけますよ」
ということを言っておきました。
占いにより事業所を移転した事業者
次にこれも今年に入ってから聞いた話ですが、占いによって事業所を移転してしまった事業者がいます。
聞くところによると、占い師に「今月中に南東の方角に事業所を移転しないと十年以内に会社が潰れる」と言われて、本当に事業所を移転してしまったそうです。
個人的な感想ですが、「十年以内に潰れる」とは、まあまたどうにでも転びそうな事を言うなぁと思ってしまいました。
企業の廃業率を考えると十年後に廃業という感じになってもおかしくないですし、論理的な詭弁があります。
事業所を移転した場合、企業が生き残れば「言うことを聞いたから」、潰れれば「その時に疑いを持ったから」などと言うことができますし、十年の間にいくらでも他の要因を持ち出すことができるという構造があります。
逆に事業所を移転しなかった場合、十年以内に潰れれば企業の生存率的にかなりの高確率で「言うことを聞かなかったからだ」となりますし、十年後に会社が残っていた場合でも、その十年の間に「信仰を持ったからだ」と他の要因を持ち出すこともできたりするわけです。
確率的には十年の間に廃業する確率はそこそこありますし、環境要因の大きな変化も間であると考えられるため、少なくとも何かしらの危機くらいは起こりそうなものです。
「あなたは10年以内に病気になる」と言われても、ちょっとした風邪を含んだ広い意味での病気や、ちょっとした腹痛などを含めてよいのであれば、ほぼ100%それは起こるのと同様に、十年という大きな枠で考えれば自然法則的にも大いに当たるという感じになってしまいます。
ただ、本当の問題はそれを信じて従ってしまっているところです。
「そう言われると何だか気持ちが悪いから」
という理由で移転したそうですが、このまま進むとそのうち霊感商法的にぼったくられるか、下手をすると一家で占い師にマインドコントロールされてしまうということも起こりかねません。
基本的には「自分に責任はない」と思いたい心理
こうした感じで占い師の占い結果を元に実際に行動してしまう様は狂気に見えますが、その裏側で働いているのは基本的に「自分に責任はない」と思いたい心理です。
占い師に占ってもらうという行動をする場合、その動機は「自分には操作できない何か別の力が働いている」というものがほとんどです。
例えば、AかBかを選ぶ時に、両者が同等の価値を持ち意志決定に困っている時に、占いがてら軽くコイントスで選択を決定するというくらいならば自分対自分なので特に問題は起こりません。
その一方、占い師に占ってもらうという行動は、意志決定において少なくとも部分的には他者に依存するという構造になっています。
端的には「責任転嫁」
占いへの依存は、結局のところ意志決定における責任転嫁という部分が最大の要因です。
何かしらのトラブルや葛藤等「意志決定ができない部分」に対して「自分に責任はないと思いたい」という心理の表れという感じです。
恥をかいたり失敗することを恐れる気持ちが一種の責任転嫁として起こっているというのがその本質です。
意見を聞くとか相談するというものにしても、判断材料を得るとか、見えなかった部分を気づかせてもらうという部分以外に「決めてもらいたい」というものが潜んでいる場合は同じように責任転嫁の要素が含まれています。
直接その人のせいにするというわけではありませんが、「自分一人の判断で決めた」ということの責任への恐れが奥に潜んでいるということになるでしょう。
占いのカウンセリング的要素
さて、一方で占いの持つ機能について概観してみましょう。内容が全くのデタラメで譫言のようなことであったとしても、何かしらの機能、効果があるからこそ、それに意識が向くということになっているはずです。
それは、カルト宗教やスピリチュアリズムなどと同様で、何かしら一定の効用があるからこそ、それを盲信する人達も出てくるという感じになっています。
占いには直接的なストレスがかかりにくいカウンセリング的要素が含まれています。
ただ、強調したいのはそうした効用からその空間の論理を絶対視するというようなことは避けるべきであるということです。
幾多の類似事例を観察し、帰納法的に共通項となる抽象部分を抽出するということを意図しておいた方が安全です。
占いがうまく機能する時
「占いは統計学です」というような殺し文句もあるようですが、いくら現実的統計であっても「環境要因は常に変化するので統計自体が当てにならない」という面もあります。
そんな中、普遍性や再現性の面から考えるとそれを満たすものではないですし、科学的には根拠がなさそうなことを何かしらの法則的なものを持ち出して説得するのが占いです。
しかしながら「うまくいった」とか「安心した」いった何かしらの機能があるからこそ、占いにハマる人が出てくるという感じになっています。
中身が全くの暴論であっても、効果、機能の面で何かしらプラス面があるからこそ占いに走る人がいるという感じです。
占いには一種のカウンセリング的要素が含まれていて、その話の文脈の中には、「直接あなたには決めれないような領域でこうなっているから」という要素がふんだんに含まれています。
ということで、「自分に責任はない」ということになりやすく、よって直接的なストレスがかかりにくいという構造を作り出すことができます。
ストレートに言ってしまうと反発が起こりそうなことも、「運命的に仕方のないことでしたが…」といった感じで抵抗を弱めつつ、心理的な誘導を行うことができるというカウンセリングのような機能を持っています。
それにより、何かしらの葛藤が消えたり、前向きになれたのなら気分は変わり、行動も変化してきます。
ということで、占いには全く効用がないということもないという感じになります。
錯覚により錯覚を騙す
まあこれは一種の宗教方式と同様で、自我の領域における我執を自我の抵抗なく解放へと向かわせるという構造を持っています。
自我の意識による恐怖心を「高次の存在の愛」という妄想で打ち消すというものに似ています。
すなわち「あなたに責任はない」ということを錯覚によってもたらすという構造を持っています。あなたという個としての自我自体が「諸法無我」なのですが、それに臨場感を持っている人たちに「その我には責任がないですよ」と錯覚によって打ち消しているという感じです。
多少は科学的根拠がありそうな風水
さて、狭義の占いとは少し違うのかもしれませんが、実際に「風水的に」という理由で、引っ越しをした人がいたということを筆頭に、実際の行動に影響を与えるような風水について少し触れておきます。
どこかの投稿で触れたことがありましたが、字面を見ればわかるように、風と水なので、入口はどの方角がいいとか窓の位置とかそうしたことについては、日照や風の流れによって、湿気等々が停滞しやすいかどうかというくらいのものだと思っています。
カビの繁殖によって、身体は抵抗のためのエネルギーを消費したり、呼吸が浅くなって酸欠になりやすいというような点や、光の取り入れに関しては、ホルモンやビタミンの生成という影響の面をまだそれらに対する科学が発達してなかった時に体系づけた程度のものだと思っています。
そう考えると多少は科学的ですが、そこから派生したものの全てが科学的というわけではないと思います。
まあ実際に「風水の影響で引っ越した人」は、そうしたものを根拠に引っ越しをしようという意図を持ったということなので、「以前の自宅は精神に悪影響を与えていた」というふうに考えることもできます。
ただ、家の風水的な構造のせいにしたいというだけで、単に「家庭内が不穏なだけ」というだけなのかもしれません。その理由を自分や家族のせいにしたくなかったというだけかもしれませんし、そうした状態になったのは、風水的なカビの影響という面も多少はあったのかもしれません。
一つの解釈の材料として捉えるくらいならばいいですが、何でもかんでも「方角が悪い」ということになれば、全ての出来事に対して「方角のせいにしたい」というだけになってしまいます。つまり責任の転嫁です。
象徴による多少の方向のセッティング
さて、占いには象徴による多少の方向のセッティングという要素があります。
意識は、自分が自分に持っているイメージに沿って、それに合う情報を集め、行動を選んだりします。
ということは、そのイメージを明確にするというだけで、具体的な行動は指定しなくても、何かしらの方向へと進んでいくという感じになります。
例えば動物占いであれば、狼や黒ヒョウ、ライオンといった分類があります。その分類に当てはまると知った段階から、その分類の特徴に合わせて見えるものが変わり、得る情報が変化し、行動が変化していきます。
占い師によるマインドコントロール
ということは、まさにマインドコントロールが可能ということになってしまいます。
アドラーにちなむならば目的論的に「目的」が設定されてしまうのだから、確かに多少は明るいものになるかもしれないものの、設定者が他者であるということは、他者の都合に合わせて設定されるという可能性があるということになります。
もし、占い師が相当の策士でうまくマインドコントロールしていたとすれば、占い師の言うことが外れたとしてもカルト信者のように「信心が足りなかった」というような自己説得が始まってしまいます。
「自分に責任はない」と思いたいからこそ占いにハマり、そして占い師に依存し、最終的には「占い師の言うことを全うに行うことができなかった自分が悪い」という歪んだ形で自己責任を感じてくるようになります。
こうした感じで認知バイアスが変化するということは、まさにマインドコントロールということを示していますし、「変だと思っても、変だと思っている自分が変なのだ」というマインドが出来上がると脱却が難しくなってしまうという感じになります。
そして胡散臭い占い師の都合によってそうした歪みが生じさせられているのであればそれは洗脳と呼ぶにふさわしいでしょう。
信じるということ自体が疑いを包括している
ところで、いつもいつも書いているようなことになりますが、信じるということ自体が疑いを包括しているということを忘れてはなりません。
「占いを信じる」ということは、占いが絶対性を持ち、再現性と普遍性を持つものではないということを認めているということになります。
どこかしらに疑いがあるからこそ「信じる」ということが成り立つという構造になっています。
疑い要素が少なければ少ないほど機能する思い切り
ただ、何かにつけて葛藤を生むような二律背反性を持ったもの、疑い要素があるようなものは、選択のエネルギーを浪費し、決断と実行を遅らせます。
自我は、演繹法的に、「確実に受け入れている信念があり」「目の前にある選択肢は信念に沿っているかを判断し」「信念に沿っているのであれば選択し、実行する」という構造を持ちたがっています。
「本当ですか?」
とか
「なぜ確実だと言えるのですか?」
というような質問形式の会話が多いのはそのためであるとすら考えることができます。
すなわち、選択には自己責任という面を含めてストレスがかかるため、「意志決定において確実たるもの、確実であると思える信念があれば、その後の選択は楽になる、楽になるなら幸せになる」と思っているということになります。
ということで、宗教や宗教まがいの教義、信念を求めるという感じになっています。
そこで考えてみたいのが、「思い切り」です。これは、疑い要素が少なければ少ないほど物事の展開は上手くいくということをひっそりと示しています。
「運」が「運ぶ」であることから考える展開のスピード
占いという空間と切っても切れないのが「運」という言葉です。
「今日の運勢」とか「今月の運気」といった感じでよく登場します。
選択のストレスと行動の停滞、停滞時のフラストレーションという面から考えれば、運とは単に展開のスピードです。
「疑いを持たずに思い切って展開を早めればそれでいいのか?」
ということにもなりそうですが、パパっと決めて動くことは、少なくとも葛藤による気力の浪費、意志が決まらず停滞することにるフラストレーションの蓄積は防ぐことができます。
ということは、多少なりと気分が良くなります。そして気分が良い状態で情報を集めたり行動もすることになるので、認知バイアス的にも良い部分ばかりが目に行くようになります。
「良い方向」かつ「展開のスピードが早い」ということは、確実に「運がいい」ということになります。何も矛盾は生まれません。
そしてそうした時に第一歩として思い切りをもたらすもの、それが占いによる「葛藤的な思いを切ること」であり「ひとまずの行動」です。
占いの機能としてはそれくらいです。
そして、それは占いでなくとも実現可能です。
他者である占い師に依存などする必要はありません。
占いを信じないという抵抗すら占いを支えることがある
一方占いを絶対的に否定するということする人たちもいます。気持ちはわかりますが、「占いを信じない」とか「占いなど非科学的だ」という抵抗すら、「占い」という概念を支えてしまうことになりかねません。
なので淡々と人の意識を捉え、こういうタイプの心理的動きがあるのでそれに対して機能としてこのように対応しているという程度、と思っておくほうが無難です。
でないと、「占いを信じていないということを立証するために」という抵抗から、「占い結果の逆を選ぶ」ということが起こりえます。そうなると、従ってはいませんが、意志決定に影響を与えているという意味で、占いの空間にいることになってしまいます。
自己責任とは何かを捉えることで確率を超える
まあ仮に統計云々をある程度正当なものとして捉えた上で、確率によって現象が決定しているというフシがあるとしましょう。
それは野放しにしていると一定の確率のまま現象が起こるという仮定です。
であるのならば確率を変動させれば良いということになります。
そこで出てくるのが占い師の提案ということになっていますが、そんな確率の微妙な変動の領域を一気に脱するということは浮かばないものなのでしょうか?
まあそれは端的には占いの奥にある「自分に責任はない」と思いたい心理、責任の転嫁の構造を脱するということです。
胡散臭い占い師に依存するよりも
胡散臭い占い師は、マインドコントロールを用いて、人からお金などを巻き上げていきます。
そこで思うのが、運命的な確率を変えられるのであれば、胡散臭い占い師などやっていないで、事業でも何でももっとスマートに儲かることをなぜしないのか、という点です。
胡散臭い馬券情報とか投資情報と同じようなもので、本当にうまくいのであれば、「あなたにも幸せになって欲しいので情報を売ります」ではなく、勝手に稼いで無償で配ればいいのです。
少なくとも、融資という形でお金を借り、元手を増やして稼ぐ絶対数を増やして分配するということでもいいはずです。
どうしてそれをしないのか。
それは自分自身でも自信がないからです。
というような空間で貪っている人に依存などしていないで、確率がどうあろうが、その確率の領域を超えていこうではありませんか。
基本は「それがどうした」「それが何ですか?」
気候や人の移動などを含めた季節的な環境の変化というものもありますし、それに応じた体調の変化、コミュニティ内の関係の変化というものは常にあります。
なので「どういう属性の時期か?」というマクロ的な変動、そして変動に応じた様々な確率の変化というものはあるとしましょう。
細かいところで考えれば「何月に生まれた」ということは、経験のタイミングのズレがあるということになりますし、人格形成における体感の記憶は人それぞれということになるので、多少なり属性というものは生まれます。
名前においては、字の持つ印象から「見えやすいもの」が変化するという要素も多少なりあるでしょう。
しかしながら基本は「それがどうした」「それが何ですか?」です。
それをそれとして野放しにしていると、そうした属性や変動に応じた確率になるという感じになるとしても、それを見切って「ああこの属性の目線から見ているから偏見が起こっているのだ」という自負が生まれると確率は変化していきます。
「仮にそうだとしても構わない!」
まあ例えばですが、あなたが銀行の融資担当者だとしましょう。
占い師に方角が悪いと言われ事業所を移転した事業者に対して、
「しっかりと事業のことを考えていらっしゃいますね」
と思うでしょうか?
「人の言うことを素直に聞く優れた人」とか「リスク管理意識が強く、すぐに実行に移せる人」という評価を与えるでしょうか。
「仮にそうだとしても構わない!」
という意志を持っている人のほうが信頼できないでしょうか。
結局、ここでいう「自己責任」というのはそうした範疇のことですのであしからず。
自己責任の範囲
「自分に責任はないと思いたい」という気持ちから責任転嫁のために占いに依存するという心理について触れていきましたが、最後にこの自己責任の範囲についてもう少し詳しくお伝えしておきます。
「運」を「運ぶ」と捉えて「良い認知のあり方」で展開のスピードを早めるということが運勢のあり方という感じになるので、占い的なものを利用などしなくても、自分で責任を受け入れつつ思い切りがあればそれで良いという感じになります。
ただ、自己責任と言うと、全て自分の責任だということで、どう考えても「?」な人も受け入れなければならないというような錯覚が生まれてしまうことがあります。
そうなると、自己責任ではなく自己犠牲の方に向かってしまうことがあります。なので一般に考えられている責任というようなものではなく、他者依存を避け、あくまで意識の内側の範疇で、「何かしら気持ちの上で歪みがあったのではないかしら?」と自省する程度で十分です。
まあそうした自分の考えすら「他人によって形成されたものだからなぁ」ということを明らかに観て、無駄な自責の念を持たず、また、他者への怒りも持たず「何かしら見えなかったものを発見してみよう」とか「きっと今は気分による歪みが生じていると思うから、とりあえず先になるべく良い気分になっておこう」と持ち直したりするという部分が自己責任の範囲です。
関係のないことを関係のあることとして捉えると、意識の上では関係してしまい、結果、噂が現実となるように実際の現象にも関係してしまいます。
そういうわけなので、ただ恐怖心に苛まれ「自分に責任がないと思いたい」という気持ちが働いているだけなのだと見切り、思い切りだけの問題なのだということが見えたのなら、因果のあり方が変わります。
ということを誤魔化さずにいるというくらいが自己責任の範囲です。
「何か悪い因縁が働いているのではないか?」
と思うのであれば
「思いっきりいったれ!」
という気合いで突破すれば良いという感じです。
その究極地点は、静かなる思い切りです。
それは厭離や遠離という言葉で表現されたりもします。
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