タグ別アーカイブ: 心理

心理・意識・精神について

敵に向かって

われわれが敵に向かって行進するとき、悪い音楽と悪い理由とが何と立派に聞こえることだろう! 曙光 557 Z会の方もそうでない方も、男性であるからには、本能的に闘争心がどこかに眠っているはずです。 何となくのジリ貧で、周りに合わせつつも、どこかでそうした細かな制限を吹っ切りたい、そんなことを思っている人は結構いることでしょう。 大きな攻撃には、窮鼠猫を噛むように闘争心が湧き起こり思いを吹っ切ることもできますが、そうでもないような細かな攻撃にはだいたい、少しダメージを受けながら耐え忍んでしまい、そのうちダメージが蓄積し

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ひとつの提案

パスカルやキリスト教がいうように、われわれの自我がいつも憎むべきものであるとすれば、他のものが― 神であれ、人間であれ、自我を愛してくれるということを、われわれはどうしてそのとおりに許したり、受け入れたりすることができようか! 曙光 79 前半 何度かは触れていますが、アイツこと自我は敵ではありません。もちろんあなたの一部であり、ただ騒いでいるだけなのです。 敵視しても倒すことはできません。 バトルになるということは、同じフィールドでどちらかが勝つというようなある種対等な関係にあるはずですが、アイツとの関係において

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申し分のない相手を望む

申し分のない相手を望むということで、「理想の相手」について触れていきましょう。「本当に理想的なパートナー」というものを思い浮かべる時、どんな人を思い浮かべるでしょうか? 思う存分わがままに設定したとして、もう一度その設定を振り返ってみてください。 おそらく、どこかしら抵抗があるのではないでしょうか? 例えば、相手は金持ちの方がいいということを思っていた場合でも、気持ちの奥底では「金持ちの家の風習についていけないかもしれない」とか「不動産収入があるのはいいけど、何だかんだで自分のために外で頑張ってくれている姿を見たい

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最も些細なものでもすでに十分である

最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555 経験したことは全て無意識が覚えている、なんてなことがよく言われますが、まあそうであるなら当然に「何が欲しいか」とか「何が好きか」とか「何がしたいか」というものも無意識レベルで形成されているはずです。 自分で好きな

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誇りのさまざま

女性は、その恋人が自分たちにふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男性は、自分たちがその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。 曙光 403 序 このへんはさすが自称心理学者ニーチェといったところですね。 ただ、いずれにしても、相手に合わせるとどんどん展開は悪くなっていくというパラドクスが待っています。 どうしてか、自己犠牲の方向に行ってしまう人が多くいて、せっかく望んでいた円満の方向からは外れていってしまうということがよく起こります。 そうした方向性を正しい方向に向かわせるため、といっては何

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前進

われわれが進歩を賞讃するとき、われわれはそれによってただ動きを賞讃し、われわれをその場に停止させない人々を賞讃しているにすぎない。 曙光 554 序 「現状維持は後退である!」というようなことをよく言う人がいますが、ひとまずは、そうした社会的なことは置いておいて、前進のために最も重要なポイントについてでも書いていきましょう。 進歩していかなければならないというわけではありませんし、前進していなければならないというわけでもありませんが、まあ前進できるかできないかでいえば前進していきたい時に前進できる方がいいだろうとい

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同様に寛容

「灼熱した炭の上に一分間長く置きすぎたので、すこしばかりまさに焦げようとしている。― これは人間の場合でも栗の場合でもまだ差し支えがない!この少しの苦しさと硬さがあってこそ、本当に心がどんなに甘く硬かいかが味わえる。」― その通りだ!諸君のような享楽家はそう判断する!諸君のような崇高な人喰い人は! 曙光 402 灼熱した炭の上、ということで、「焼いた炭の上を歩け」という狂気じみた自己啓発研修についてでも書いていきましょう。怪しい自己啓発セミナー、自己啓発合宿についてです。 焼いた炭の上を歩くという自己啓発研修 聞い

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一番危険な忘却

われわれは、他人を愛することを忘れることではじめ、愛する価値のあるものを自分にもはや見出さないことでおしまいにする。 曙光 401 「自分自身に全幅の愛を注ぐ」という感じでいきましょう。そうなるとナルシシズムのようだと思う人もいるかもしれませんが、「うぬぼれ」とは少し属性が違いますので注意してください。 所謂「うぬぼれ」は、他者との相対的な比較によって自分は優位にあるという自己愛です。 顔がキレイだとか、実力があるとかそういう感じですね。 でも一般的に思われているそういうものは、比較対象がないと判断できない要素です

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理想的な利己心

妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序 利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだで利己的であり、「利己的」という言葉は、あまり意味をなさない言葉でもあります。 社会的な合議の場なんかで利己的だと、周りから非難が飛び交うというくらいのもので、どうあがいても自己中心的

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道徳的柔弱

成功のたびごとに恥じらいを感じ、失敗のたびごとに良心の呵責を感じるような、感じやすい道徳的な性格の人々がいるものだ。 曙光 400 無意識レベルの抵抗感というものは凄まじいものです。 道徳的柔弱ともいうべきか、頭のなかでは欲しいと思っていても、無意識に抵抗感がある場合が結構あります。 何かを手に入れるとしても、ルートを制限し、それ以外のルートを許可していないというケースが多く、例えば、社会道徳に反するような形では手に入れたくない、という感じで思っていることがよくあります。 一生懸命働いて、会社で出世して、というケー

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一層やさしくなること

われわれがだれかを愛し、尊敬し、讃嘆していて、さて、あとになってから、彼が苦しんでいることが分かると、― われわれは彼から湧き出てくるわれわれの幸福は、自分自身の幸福の豊かな泉から出てくるということ以外は考えていないから、いつも大いに驚くのであるが― 、われわれの愛や、尊敬や、讃嘆などの感情は、本質的な点で変化する。それは一層やさしくなる。 曙光 138 序盤 まあ曙光においてニーチェは、この後「彼が望むなら慰めの言葉を与える」ということで「よい復讐である」なんてなことを書いています。 昔「人は面白いなぁ」と思った

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魂の呵責について

ある人が他人の身体に何らかの呵責を加えるなら、今日では誰でも大声で叫ぶ。そんなことができる人間に対する憤慨は直ちに起こる。 曙光 77 序 魂の呵責についてということで、人がすごく憤慨する瞬間は、自分では何となく不服に思いつつ一応守っている各種「制限」、つまり社会的なルールを逸脱している人を見たときだったりします。もちろん、それだけとは限りませんが。 経済的なルールは、収益を最大化するために緩和されることがありますが、それ以外のルールはだいたい厳しくなっていく一方です。 自分が不服に思っているルールがあったとして、

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「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半 今回も例のごとく 「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」 と

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悪く考えることは、悪くすることを意味する

悪く考えることは、悪くすることを意味するということで、「悪く考えること」についてでも書いていきましょう。 意識の中には遮蔽効果があります。五感からも、意識からも大量の情報がやって来る中で、省エネルギーのために、「すべてを見ずに一部のものだけを見る」ということが起こっています。 そういうわけで「悪く考える」ことは、ある種無属性の対象の中から「気分を害するもの」を中心に意識に上げ、「悪くする」ことを意味するという感じにもなります。 そして、一般的に悪いことが起こった時、その結果を操作しようとします。 しかしながらよくよ

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ヨーロッパ的でなく、高尚でない

キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。 それと同

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力に対する勝利

これまで「超人的な精神」として、「天才」として尊敬されて来たものすべてを考慮するなら、大体において人類の知性はどうしても極めて低劣で悲惨なものであったに違いない、という悲しい結論にわれわれは到達する。立ち所にかなり人類を越え出ているという感じをもつためには、これまでほんの僅かの精神しか必要でなかった! 曙光 548 序 人を欺くつもりで演じるのではなく、本人も行ききっている形で堂々と物事を説く人がいた場合、その雰囲気に周りが感化されてしまうということが昔からよく起こっているようです。 ご本人が自己洗脳状態にあって、

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精神の暴君たち

小さな個々の問題や実験は軽蔑すべきものと思われた。人々は一番の近道を望んだ。世界のすべてのものは人間によって整えられているというように思われたので、事物の認識可能性もやはり人間的な時間の単位によって整えられていると人々は信じた。一切を一挙に、一言で解決すること。― これが密かな切望であった。 曙光 547 中腹 宗教的なものは代表例として当然ですが、一種の経済的民間信仰のようなものも、人を盲目にしていきます。 自由な状況で自由に思考するよりも、わかりやすい「神」などを設定したほうが、全てを一気に解決できるというよう

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なぜ「自我」を二重にするのだろう!

他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、― これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること― 同情の哲学の要求であるが―、これはわれわれを破壊に導くであろう。しかも極めて短時間のうちに。 曙光 137 前半 同情と「憐れみ」「慈しみ」などとは若干の違いがあると思っています。 どうしても同情とはどこかしら「憐れみ乞いに付き合う」という要素が含まれている感じが

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しかしわれわれは諸君を信用しない

諸君は人間通であることを示したがる。しかしわれわれは諸君の誤りを見落とさないであろう!諸君は、諸君がそうである以上に、経験が豊かで、深く、興奮し、完全であるように見せかけるということを、われわれは気がついていないだろうか? 曙光 545 前半 「わざわいだ!偽善の律法学者パリサイ人よ!あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする」 ということで、「完全であるように見せかける」についてでも書いていきましょう。 マタイ23章ですが、すごく面白いですよね。 現代社会でも「ギクッ」となる人は結構いそうな

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怒りの中には期待があり、期待が無くなれば嫌な感情は消えていく

全てのタイプの怒りではありませんが、人に対する怒りについては、その中に相手に対する何かの期待があり、「変わって欲しい」というような願いが込められている場合があります。 そしてその期待が無くなれば、怒りを発端とする嫌な感情は消えていきます。 あくまで怒りや嫌な感情が「消えていく」のであって、瞬間的な怒りを経験しなくなるわけではないのかもしれません。 といっても、自分が認識している今は瞬間的に変わっていくので、それでも全く問題がない、という感じになります。 基本的に怒りは何かを排除したいという感情です。そして怒りの裏に

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天才の道徳的な狂気

世の中でなされる悪の四分の三は、恐怖感から起こる。そして恐怖感は、何よりもまず生理学的な現象である! 曙光 538 末 天才の道徳的な狂気ということで、世の中の様々な活動を見てみると、とりわけ歴史なんかを読み込んでいくと、「この人たちは、結局何がしたかったんだろう?」と思うような出来事がたくさんあります。 後世に天才と評価されるからには、何か大した事を成し遂げたというような感じにはなりますが、その内容をよくよく見てみると狂気じみていることがよくあります。 なんだか志が高いということで、美徳のように捉えられているよう

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同情されること

未開人の間では、同情されることに道徳的な恐怖心が抱かれている。同情されると彼らはすっかり徳を失ってしまう。同情を与えることは、軽蔑することと同じくらいのことを意味する。 曙光 135 序 経済的に貧困国とされている国の人達でも、金銭援助をされることに対しては少し抵抗感を持っているというケースがあります。 もちろん実質的にはありがたいはずですが、同時に自分たちの非力さを肯定することになるからです。 ― 「同情されること」は、何かしらの弱さや非力さ、何かしらの悲惨さや不幸を認め、肯定することになるという構造を持っていま

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体を軽くして1ミリずつ楽になろう

うつに関しては、意識的なアプローチが一番で、一瞬で治すという感じで言えばもちろん錯覚へのアプローチなのですが、アイツの内にいる場合は、「ひとまず何とか、何かをしなくてはならない」と焦ってしまいます。 本当は「何かをしなければならない」ということのほうがアイツの屁理屈で、行動や条件などいらないのですが、 「それではどうすればいいのか?」と、ひとまずアイツの騒ぎに振り回されてしまう人もいると思います。 「何もしないってのもなぁ」 なんてな感じで、「何かをすること」が必要だという焦燥感がある人もいるでしょう。 ということ

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感情を認めその中に飛び込もう

前回のうつテーマでは、嫌いなものは嫌いと認めようなんて感じで、感情に蓋をするのはやめましょう、というような内容を書きました。 その続編のような形で、感情エネルギーについてでも書いていきましょう。「感情を認めその中に飛び込む」というようなものです。 感情が騒いだ時であっても、基本的に本当は何もしなくていいのですが、「何とかしなくてはならない」という変な執着があるはずです。 ということで普通、嫌な感情がやってきたら「感情を消そう」としてしまいます。 でも、そうした消そうという姿勢自体が一種の抵抗であり、抵抗している限り

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どの程度まで同情を警戒しなければならないか

同情は、それが実際に苦しみを作り出すかぎり― そしてこれがここでわれわれのただひとつの視点であるが―、およそ無害な感動に迷いこむことと同じように、ひとつの弱さである。同情はこの世の苦しみを増大させる。 曙光 134 序 人に影響を受けてしまうということは、この心の状態に関して他人が条件となっており、また「人に影響を受けたくない」という抵抗感も、人からの影響を示していることになります。 そして人を励ますという場面においても、根底に同情があり、「○○だから大丈夫だ」と慰めてしまった場合、「○○」についての執着が増してし

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