必要でもない、欲望でもない―否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。― それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福になる。― まさしく人間や魔物たちがなり得る限りの幸福になる。 曙光 262 前半
「力への愛こそ人間のもつ魔物である」ということで、力への執着は一種の魔物です。
「力が欲しい」と思った時点で、現時点では力不足だ、ということを認めていることになります。
力があると思っているのならばわざわざ欲することもありませんし、力の対象に重要性を置いていなければ、力不足と思うことも力が欲しいとも思わないはずです。
では、逆に「力はいらない」と思った時はどうでしょうか。
その時は力を認めているものの、その力が何か害のあるような属性を帯びます。害があるから排除したいということです。
すぐに二元論化して、その逆を選べばよいのだ、となりそうですが、そんなに簡単ではありません。
言語や論理の性質を知りつつも、それを超えていかねばなりません。どうして超えなければならないか、それはアイツの引力から抜け出せないからです。
力への執着
「力はあればある方がいい」ということは裏には、力がなくなった時はどんどん悪い方向に向かってしまう、という概念がセットでくっついています。
力の対象としてはもちろん肉体的な力もありますし、権力や経済力なども対象になります。
この悪い方向に向かってしまうこと、それが恐怖心になり、力への執着になります。失うことへの恐怖がつきまといます。
つまり力への執着であり、一見無条件に良いものであるかのように見える「力」が逆向きに働いてしまうということです。
なくなった時の「恐怖感」の暗示
これは力に限ったことではありません。この世の中で良いとされているもののほとんどが、同様の性質を持っています。
物事はたいてい良い面と悪い面がセットになっています。それが力であっても力を持つがゆえに起こる煩いもあれば、失うことへの恐れも生じてしまうのです。
ですから、褒めることも、祝うことも、一歩間違えなくても「そうではなくなった時への恐怖感」の暗示になります。
「前は褒められたのに」という落胆や怒り、渇望を生み出す布石となるわけです。
世間では褒めることや祝うことは無条件に良いことかのように囁かれていますが、褒めることで褒めを欲するようになったり、祝われることで一種の呪縛が生まれることもあるのです。
恐怖感の種をいかに取り除くか
この裏側に付いている恐怖感の種をいかに取り除くか、それすらも出来る人ならどんどん褒めたり祝ったりしてもいいでしょう。
しかし闇雲にそれをすることは、相手をどんどん縛っていくことになりかねません。
そして面白いことに、褒めたり祝ったりすることは褒める側・祝う側の力を誇示し、逆に褒められる側・祝われる側を縛るという特性があります。
褒められたりした記憶
世間では、怒鳴りつけたりすることだけが相手を萎縮させていくと思っていますが、本来はそれだけではありません。褒められたりした記憶も十分にその機能を発揮します。
僕は小さい時から特に褒められた記憶がありません。その時すでに褒められて喜んでいる人を冷めた目で見ていました。
喜ばないからこそ、褒められもしなかったのかもしれません。しかしそれでよかったと思います。
他人からの褒めを条件とするような生き方にならなかったのですから。
力の魔物 曙光 262
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