気づかわしい

ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる。―このことはしかし不誠実であり、卑怯であり、不精であるということを意味する!それでは、不誠実、卑怯、不精が倫理の前提であるというのか? 曙光 101

「気づかわしい」とは、事の成り行きなどが気にかかることであったり、「心配だ」「気がかりだ」というようなことを指しますが、12月25日は世間でもクリスマスだということで、「聖なる夜」が「性なる夜」的に気づかわしいということになりましょうか。稲中か何かでありましたね。

「ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる」これは日本ではよくある光景です。不誠実、卑怯、までは同じですが、最後は精力という違いはあるものの、本日、今まさに性なる夜ということをエンジョイしているウェーイがたくさんいるでしょう。人によってはそれが気遣わしいという感じでしょうか。僕としてはどうでもいいことです。

クリスマスという言葉

なおクリスマスという言葉自体は、Christmas=キリストにミサをという意味であり、Xmasと表現される時のXは、ギリシャ語のΧριστοσ(クリストス)=救世主を意味しているというのが一般的です。元々新約聖書はギリシャバイブルと呼ばれ、ギリシャ語で書かれたものなのでギリシャ語であることには不思議はありません(なお旧約聖書はヘブライ語で記述されているため、ヘブライバイブルと呼ばれています)。

文化・風習であるからという理由で、この日だけはなぜかクリスチャンを気取り十字架を胸にぶら下げている人がいますが、イエスは十字架に磔にはなったものの、十字架のネックレスはしていなかったと思います。

根本的に偶像崇拝禁止のはずなのですが、十字架という象徴化は良いのでしょうか。そうした矛盾自体についても何かしらの解釈でスルーされているのでしょう。

最初のブッダことシッダルタが仏像を拝まないように、イエス・キリストは十字架のネックレスなどをしていないはずです。

クリスマスを大いに利用していい局面

そのようなことはどうでもいいですが、クリスマスを大いに利用していいのは、男心がグッとくる、次のようなシーンです。

映画館でこのシーンにグッときた僕は、普段なら絶対に買わないDVDをその場で買って、今までにこのシーンだけを通算数百回観ています。

ということで今年も観てしまいました。Love Actuallyのこのシーンだけは何度観てもグッときますね。クリスマス被害者の会の一員ですが、このような利用の仕方はいいのではないかと思います。

ただ、これを最初にやった人が素敵なのは言うまでもないですが、単なるモテテクとしての利用や、ウェーイのネタなどには成り下がって欲しくないですね。

気づかわしい 曙光 101

こんな風習がなぜいつまでも黙認されつづけているのか

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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