過労と意識の向き

最近、アンデシュ・ハンセン氏のいろいろな新書を読んでいます。「スマホ脳」で有名ですが、最近読んだのは「多動脳」や「ストレス脳」等々です。

特にADHDやASDに興味があるわけではないのですが、身の回りの社会を見ると、そうした傾向がよく見られるので、何かしらのヒントはないかとちらほら読んだりしています。

彼のシリーズは、極端さがないのでいいですね。文理のバランスが取れています。経歴的に「MBAを取得して医学部」という少し異色な経歴だからなのかもしれません。

いつものごとく余談から入りますが、最近のAIや検索エンジンなどの弊害のひとつとして「確信度」という尺度があり、情報において表現に曖昧性があると、情報価値を下げるという面があります。

実際に断定はできないから、とか、あえて抵抗を弱めるために、「かもしれない」というような表現を使うと、情報価値が低いとされ、表には出にくくなるというような傾向があります。

そのため、原則を守りつつ極端に持論に固執しているようなものの方が前に出て来やすいという傾向があります。

例えば副腎疲労などについては、臓器としての副腎が弱るということよりHPA軸(視床下部、下垂体、副腎系)の方に着目し、どちらかと言うと神経、脳の方に目を向けるべきですが、副腎がテーマになって、臓器としての副腎にフォーカスしたものが情報として前に出てきます。

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さて、この夏の終わり頃から、contactよりたくさんの方からご連絡をいただきます。

そうしたご連絡の中で最も多いのが、「意識の向き」についてです。

ただ、これは相互関係があるような話になりますが、過労状態の時は、「向きだけでなんとかしよう」ということは避けて、本気で疲労を取り除くということをした方が良いのではないかと思っています。

体のことを気持ちだけで何とかしようとしたり、逆に気持ちのことを体だけで何とかしようとしたり、社会関係性の問題と身体の問題がごっちゃになっていたりということがないようにしておきたいと思います。

それでアンデシュ・ハンセン氏に倣えば、こうした気持ちや性格等々については、「感染しているかしていないか、陽性か陰性か」というようなものではなく、スペクトラム、いわばグラデーションであるということ、そして、明らかに咳がゴホゴホしていれば自他ともに具合が悪いということを認めるのに、目に見えないからといって軽視してはならない、ということです。

さらに、身体としての機能低下、慢性的な炎症も気持ちに大きく関わることがあり、炎症が治まれば、気持ちも楽になるということもあります。

なお書籍によれば(つまり最近の研究によれば)、うつ全体の1/3炎症に起因し、炎症性サイトカインをブロックすれば抗うつ剤の効果が高まるというようなデータもある、ということのようです。

ここで問題になるのが、先ほどの情報の「確信度」等々です。「ウイルスと炎症によるもの」というのも研究段階ですが、部分的にそれが正しいとなると、ウイルスや炎症だけが原因で、それを潰せば症状はなくなるという情報が成り立ち、しかもある情報空間ではそれが最有力として提示されることがある、という危険性がある、ということです。

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何より面白いのが、「脳は、生存と種の保存が仕事で、あなたの幸せのことは考えていない」という、原始仏教にも通じるようなことが普通に書いてあることです。

動悸がするのも、引きこもってしまうのも「逃げろ」という生存戦略的シグナルであり、「生存本能としては正しいが、それが幸せをもたらしてくれるわけではない」ということです。

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本来、細かく意識の向きなど変えようとしなくても大丈夫です。

基本的には、その場で一番スッキリすることをするというだけでよいです。

いろいろと気分を下げてくるようなものがあります。

それは他人だったり、他人や社会に対する自分の考えだったりです。それは錯覚で幻想です。

実際には、「空」と表現しておいたほうが良いかもしれません。

実在するわけでも、実在しないわけでもない、という感じです。

「意識の向き」をツールのように考えると、「うまく使えているだろうか?」、「間違っているのでは?」「間違っているから、今こうなのだ」という「思考」の餌食になります。

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意識の向きを歪ませるものは、「自己表現の抑制」だと思います。

方法は色々ありますが、どこかで制限なくどんどん表現した方が良いのではないかと思います。

過労対策といえば、まずは睡眠等々ですが、慢性的に睡眠を阻害しているものがあるとすれば、「対人関係」をはじめとした社会関係からくる自己表現の抑制です。効力感のなさ、などもそれに関係します。

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ちなみに一応ですが、僕はたまに金槌を握ることがあります。釘抜が反対側についているタイプのやつです。

仮の仮の仮にですが「アウトレイジに出てくるような人」がやってきても、平気で殴れるようにしてあります。

キ◯ガイっぷりを見せられても、

「キチ◯イっぷりなら負けてへんぞ」と殴れるようにしてあります。脅しに使うのではありません。いざという時は、本当に使うつもりです。

世の中の9割以上の人は平和で安全ですが、数%は狂人が混じっています。

変な薬物を使用していたりする場合もあるわけですし、話が通じるかどうかはわかりません。そう考えると、「戦力ではなく実力である」というような解釈で置いておくこと自体は良いのではないかと思います。

これは生存本能としては一応正しさがあります。

むしろ、その方が、生存本能が騒がずに済むというような解釈もできるわけです。

見方によっては、ナイフを隠し持つ中二病のようですが、そう思われても構いません。

いざというとき僕が安全なことが大切ですから。

こうした点を棚上げすることは、平和ボケ、でもありながら、意外と不安を作り、どこかで睡眠を阻害しているのかもしれません。

「金槌は、不安の象徴だ」と「解釈」することもできますが、「家族が増えた分、本能がブーストしているかもしれない」という点を加味して、「そう解釈されようが、構わない」と思っています。

Category:miscellaneous notes 雑記

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