カテゴリー別アーカイブ: 第四書

曙光(ニーチェ) 第四書 曙光(ニーチェ)全記事一覧

多分医者なしで生きる

病人は、医者にかかっているときには、自分で自分の健康に気をつけているときよりも軽率であるように私には思われる。前者の場合、一切の指令されたことに厳密に関係していれば十分である。後者の場合われわれは、あの指令が目指すものすなわちわれわれの健康を、医者から勧められてするよりも一層良心的に注目し、はるかに多くのものを注意し、はるかに多くのものを自分に命令し、禁止する。あらゆる規則は次のような効果を持つ。すなわち規則の背後の目的から注意を逸らさせ、一層軽率にさせることである。 曙光 322 前半 大きな会社にありがちですが

» 多分医者なしで生きるの続きを読む


無邪気の危険

無邪気な人間はあらゆる点において犠牲になる。彼らはその無知のために、過度と過度を区別したり、時期を外さずに自分自身に対して用心したりすることができないからである。そこで無邪気な、すなわち無知な若い夫人は、愛情を頻繁に享楽することに慣れ、その夫が病気になったり早く衰えてしまったりする後年には、享楽にひどく不自由するのである。 曙光 321 無邪気といっても、「こっそりくすねてやろう」というような、邪な感じが無いだけで欲に満ちている場合がよくあります。しかしあまりその欲は社会では問題視されません。無思慮、無分別、無知な

» 無邪気の危険の続きを読む


天気について

天気が非常に異常であって、当てにならないと、人々もお互いに信用し合わなくなる。彼らはその上改革好きになる。なぜなら自分たちの習慣を脱しないわけにはゆかないからである。そのために専制君主は、天気が道徳的であるすべての地方を好む。 曙光 320 雨の日は営業に出ずに資料の整理などをした方がいい、と言われることがあります。それ程に天候によって人の気分などコロコロ変わってしまいます。晴れ晴れとした日には気分も爽やかになり、雨が降るときには少し感傷的になったり、少なからず実感があるようなことです。 コロコロ変わる天気 「コロ

» 天気についての続きを読む


歓待

歓待の習慣の意味は、他人の敵意を麻痺させることである。もしわれわれが他人をもはやさしあたって敵とは感じない場合には、歓待は減る。歓待は、悪意をもったその前提が盛んである限り、盛んである。 曙光 319 歓待(かんたい)は、「手厚くもてなすこと」ということで、「歓迎!」と「接待!」だということですね。まさに「他人の敵意を麻痺させること」が主たる目的になっています。つまり歓待は誰かの敵意を麻痺させて、身を守ろうとするような意味があります。 他人の敵意を麻痺させる 知人の不動産屋なんかは、土地の買収の際に不動産オーナーを

» 歓待の続きを読む


体系家に注意!

体系家のお芝居というものがある。彼らは体系を仕上げようと思い、それの周りの地平線を完成するので、彼らは自分たちの弱い性質を強い性質の様式で登場させることを試みざるを得ない。― 彼らは完全な、一様に強い性格の人々の役を演じようとする。 曙光 318 一旦体系的に学んでしまうと、その体系からはなかなか抜け出せないものです。自分が教えられた時のように、自分が学んだ体系の軸をずらさないように、その範疇を超えるやり方は排除するという癖がついてしまいます。 体系とは、ある一定の原理をもとに全体的に統一され整理された知識の全体像

» 体系家に注意!の続きを読む


夕暮れの判断

終わって疲れているとき、その一日の仕事や、一生の仕事を反省すると、だれでも普通は憂鬱な観察をするに至る。これはしかしその一日や一生のせいではなく、疲れのせいである。 曙光 317 前半 朝は思考が働き、夕方は感情が働く、というようなことがよく言われます。確かに頭は午前中のほうが働きます。しかしパソコン作業は深夜のほうが捗ります。 「なぜなのか」ということを考えた時に、数日にわたってなぜなのか観察してみることにしました。 生理的なことは知りませんが、個人的には「物音がしない」ことと、誰かがやって来て邪魔をされる確率が

» 夕暮れの判断の続きを読む


弱い宗派

相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者にやられてしまう、ということがたまにあるでしょう。 「優秀な人材を仲間に入れようと思ったらすぐに去られた」とか 「味方にしようと思ったらその強者にボコボコにされ、組織の結束力がボロボロ

» 弱い宗派の続きを読む


放棄する

その所有の一部分を放棄し、その権利を断念することは、―もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。 曙光 315 何でもかんでもですが、「所有すれば喜びがある」という点にだけ着目している場合があります。しかし、所有すれば憂いがあります。 喜びはその場は文字通り喜びですが、維持継続したい、失いたくない、またもう一度味わいたい、などなど、たくさんの「気になること」が増えていきます。 「喜びがあるんだからいいじゃないか」といいますが、そんな喜びはいずれどこかに消えてしまう喜びです。いや、喜んだと思

» 放棄するの続きを読む


思索家の社会から

生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半 思索家とは、もちろん思索する人を意味し、つまりはずっと何かを考えているような人です。思いを馳せ、考えて答えを探索する人というような感じです。その奥には、やはり知的探究心があり、知性への欲

» 思索家の社会からの続きを読む


もはや望ましくない友人

その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う所には行かないことにしているからです。 特にそこに行って話すことができるのならば向かいますが、自分を楽しませようとするような遊びで、しかも楽しめないようなものは断っている、というような

» もはや望ましくない友人の続きを読む


忘れっぽい人々

情熱が爆発するとき、夢や狂気で空想するとき、人間は自らと人類との前史を、すなわち、野蛮な歪んだ顔をもった動物性を再発見する。 曙光 312 序文 先日、自分より少し若い方とお話した時に、「メモをとることを忘れて商談がご破綻になった」というようなことを聞きました。それは体育会系同士のやりとりなので些か厳しすぎるだろう、ということも思いますが、「忘れるわりに対処もしない」という点をつかれたのかもしれません。 忘れること自体は良いことでも悪いことでもありませんが、意識の中で優先度が下がってくる、ということは実際にあること

» 忘れっぽい人々の続きを読む


いわゆる心

一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。 そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。 ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ(記号、意味されるもの)などを語り出しますが、いずれにしてもそれが一致しようが、持っている観念が違うので、全く同じというわけには行きません。 同じ話を違う人にしても、各々が持つ印象は異

» いわゆる心の続きを読む


善良な人々

人付き合いはしてもいいですが、せめて善良な人とだけ付き合ったほうがいいでしょう。 世の中には、悪人だけでなく、首を傾げたくなるような「勘違い野郎」がたくさんいますから、人と付き合うとしてもそのような人と絡んではいけません。絡むとしてもその人で遊ぶ程度で十分です。 胡散臭いコンサルが偉いに人になりたくて、やたらとうんちくをたれてきても、その人で遊ぶくらいの感じにならなくてはなりません。 胡散臭いコンサルによるウンチク →「はい、コンサル料」 聞いた話ですが、新しく起業したての若手の方に、胡散臭いコンサルがウンチクをた

» 善良な人々の続きを読む


恐怖と愛

恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いている。その際思い違いすることがあっても、それは愛にとってはひとつの喜びであり、ひとつの利益である。― そこで愛はそうするのである。 曙光 309 人は時に動物よりも人間が尊いとし、特定

» 恐怖と愛の続きを読む


商売に精通していないのが高貴である

教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営は株式会社であり、どちらかというと福祉っぽくない方でした。 どういうことかというと、その方のお客さんは福祉関係者であり、その方は株式会社としてサービスを提供する側なのですが、意見の食い

» 商売に精通していないのが高貴であるの続きを読む


事実!そうだ虚構の事実!

歴史家は、実際に起ったことに関わり合わず、推定された数々の出来事とだけ関わり合う。なぜなら、後者だけが影響を及ぼしたのであるから。(中略) ― 底の知れない現実という深い霧の上の幻影の、絶え間ない産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、想像の中以外には決して存在しなかった事物について物語るのである。 曙光 307 抜粋 「事実だ事実だ」と言いながら、世間での事実は全然事実ではありません。事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではありません。だから蓋然性というものでひとまず決定し

» 事実!そうだ虚構の事実!の続きを読む


ギリシア人の理想

ギリシア人は、オデュッセウスのどこを賛嘆したのか?何よりもまず、嘘をつく能力や、狡猾(こうかつ)でおそろしい仕返しの能力、局面を収拾しうること、必要であるなら最も高貴な者よりも高貴に見えること、望むものになることができること、英雄的な頑張り、すべての手段を意のままにすること、才気を持つこと。― 彼の才気は、神々の賛嘆するところであった。神々はそのことを思うと笑う。 曙光 306 前半 ギリシア人、ギリシア人とギリシア人ばかり出てきますが、現代のギリシア人ではなく、古代アテナイを指して、といったところでしょうか。ギリ

» ギリシア人の理想の続きを読む


けち

買い物のとき品物が安いとわれわれのけち振りは増して来る。― なぜか?小さな値段の差が、たった今けちの小さな眼をこしらえたからであろうか? 曙光 305 「けち」は、吝嗇(りんしょく)を意味しますが、節制とは異なり、細かな点についてでも物惜しみをするような様を意味します。 ニーチェの「曙光」には、今回のように「けち」や「浪費」という言葉がちらほら出てきますが、やはりそういう言葉が出てきた時はたいていお金にまつわるテーマになります。といいつつ「見え坊で、けちで、賢くない」の時は、パンチングマシーンの話になりました。 特

» けちの続きを読む


世界の破壊者

この人は或ることがうまくゆかない。とうとう彼は怒って叫ぶ。「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」この嫌悪すべき感情は次のように推論する嫉妬心の絶頂である。私は或るものを所有し得ない。だから全世界には何も持たせたくない!全世界を無にしたい! 曙光 304 「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」とは完全にゲームかアニメの世界のようです。しかしよく起こる心理状況です。 ちなみに芸人さんの世界において、ネタがスベった時は「この世界よ、滅びてしまえ」と思うそうです。 確かにそのような心境になるでしょう。ネタがスベった

» 世界の破壊者の続きを読む


人間通の気晴らし

彼は私を知っていると信じこみ、私とこれこれの交際をするから上品でえらいのだと自負している。私は彼を失望させないように気をつける。なぜなら、私は彼に意識的な優越感をあてがったのであるから。彼は私に好意を持っているのに、私はその償いをしなければならないことになるであろうから。 曙光 303 前半 人間通の気晴らしならぬ「ラーメン通の気晴らし」は、誰かをラーメン屋に連れて行って「バリカタ」などと注文し、「ここのはバリカタが一番うまいんだ」と言った具合に「通」であることを誰かに伝えることです。 消費者なのに専門家、専門家な

» 人間通の気晴らしの続きを読む


一度、二度、三度正しい!

人間というものは、口では言えないほどしばしば嘘をつく。しかしそのことをあとから考えない。そんなことがあるとは一般に信じない。 曙光 302 現在最多PVでお馴染みの「すぐにお金を借りる人」は、何かでお金が入用だとしても、その焦り、その問題がお金を借りることによって解決した場合は、お金を借りたことを忘れます。お金を借りてしまう人の特徴は、参照先をご覧ください。 そして、油断していると金銭感覚というものは周りの人から少しずつ影響されてしまいます。家族や友人の中にギャンブルなどをする人がおらず、自分はギャンブルをしないと

» 一度、二度、三度正しい!の続きを読む


「性格が強い。」

「私は、一度言ったことはする。」― この考え方は性格の強さと見なされている。どんなに多くの行為が、最も理性的な行為として選ばれたという理由からではなく、心に浮かんだときに何らかの仕方でわれわれの名誉心と虚栄心とを刺戟したので、われわれはそれらに固執して盲目的にやりとげるのだ、という理由からなされることであろう!(中略) できるかぎり理性的なものを選択すれば、自分に対する懐疑が、そしてその程度に弱さの感情が、われわれの内面に維持されることになるのに。 曙光 301 抜粋 「強い性格」として評価されるようなことは、ほと

» 「性格が強い。」の続きを読む


お世辞屋に寛大

飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気付かれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることである― 全く寛大でいることが出来る神のように。 曙光 300 「お世辞屋の風土 曙光 158」、「犬にお世辞 曙光 258」と、お世辞屋、お世辞というのもよく出てきますね。ただ今回は、お世辞屋がメインというより野心家が主体となっています。 寛大かのように自分を偽り「お世辞」を言ってくる人にも「ありがとうございます」と言ってその野心を隠すという野心家

» お世辞屋に寛大の続きを読む


英雄主義の見かけ

敵の真中に身を投じることは、卑怯のしるしかもしれない。 曙光 299 英雄崇拝とその狂信者において、何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり「殉教」に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れであり、自慰行為であるのに、その狂信者の間においては「カッコいいこと」とされるため、卑怯のしるしかもしれませんね。 最近かどうかはわかりませんが、その崇拝対象は、何か人物に限定されているわけではありません。わかりやすい例としては、ヒーローやアイドルなど誰か一人のモデルや、「社会はこうあるべきだ!」などのあ

» 英雄主義の見かけの続きを読む


英雄崇拝とその狂信者

彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナポレオンこそ、「天才」と「英雄」に対する浪漫主義的な―啓蒙主義の精神から疎遠な―屈従を、われわれの世紀の魂に与えた人であったろう。 曙光 298 後半一部抜粋 「英雄崇拝とその狂信者」

» 英雄崇拝とその狂信者の続きを読む