大丈夫は義を重しとす
「義」というものは、統制のためにMr.脳筋の思想が取り入れられたものである部分が多少なりとあります。しかしながら、そうした思想的なものがなくても、義を重んじるというところは大丈夫としてのあり方としてある程度自然に成り立っているフシがあります。 そうした義について、それを崩してしまうものの代表例としては、概ねムラムラによる錯乱と「女の入れ知恵」です。 男同士の友情において「友情が崩れてしまう」という局面において垣間見れるもの、それはたいて

多羅葉(タラヨウ)葉書の木
多羅葉(タラヨウ)は、モチノキ科モチノキ属の常緑高木であり、葉書の木と呼ばれています。 20cmほどある椿系の肉厚な長楕円形の葉は、傷をつけるとその部分が黒くなり文字が書けるということから葉書(ハガキ)の木、郵便の木として知られています。 文字が書ける多羅葉の葉 表面に傷をつけるとその部分が黒くなり文字が書けるということから葉書の木、郵便の木として知られる多羅葉(タラヨウ)の葉。葉の大きさもそこそこあるため、「手習いの木」として文字を書

紫陽花(あじさい)
紫陽花(あじさい)は、アジサイ科アジサイ属の落葉低木です。言わずと知れた梅雨の風物詩であり、いたるところで育てられたりしています。八仙花や七変化という別名もあります。 土壌のph値によって花の色が変わる形になり、赤から青(赤紫から青紫)の花を咲かせます。 こちらはやや白っぽい紫陽花。 萼が大きく、装飾花と呼ばれる花弁状の萼の方が花のような感じがありますが、中心の細かな両性花がメインの花です。 紫陽花の大きさ 木の高さは1mから2mくらい

ルドベキア・ヒルタ 粗毛反魂草(アラゲハンゴンソウ)
粗毛反魂草(アラゲハンゴンソウ)ことルドベキア・ヒルタ(Rudbeckia hirta)は、キク科ルドベキア属(オオハンゴンソウ属)の多年草です(一年草・二年草扱いされることもあるようです)。北米原産で、荒れ地や草原、あまり木々が密集していない林などに自生してるようです。 単にルドベキアと呼ぶ場合もありますが、ルドベキアは属名であり、植物名ではないようです。 花期は夏から秋で、黄をベースとし中心が茶となるようなキク科らしい花の付き方をし
をさなき心を肯け給はんや
中学校に上がる時、他の小学校からやってきたメンバーなどおらず、自分がいた小学校のメンバーだけのまま中学生になっていたらきっと「自作すごろく」のメンバーたちと一緒にシミュレーションゲームなどを開発していたんだろうなぁと思うことがあります(眠る感覚との再会)。 そこには人と人との仲を保ち、膨らませる共同創造の要素があるからです。 ― 僕の友人の一人に、婚姻直前で婚約破棄ということが数回、その後見合いなどをするも数ヶ月で破綻ということを繰り返
兄弟の盟
みどりのマキバオーにおいて、たれ蔵は別格として、サトミアマゾンの次に好きなのは実はピーターⅡだったりします(突然現れたマキバオー)。たれ蔵のライバルの一頭アマゴワクチンの全兄ですが、好きというよりも何だか親近感があるという感じです。兄というものはそんな感じなのでしょう。 ― 兄弟というものは不思議な関係であり、友人とはまた一味違った関係性を持っています。 家庭にもよりますが、世の中で唯一わかり合える部分を共有している存在であるという場合
問ひわきまふる心愚かならず
質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちら
見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ
令和という時代になってからというもの、「ギムキョな感じ」がどんどんしてきました。義務教育の成れの果てとしか表現できないような、人を制限すること、人に負担させることしかできず、創造性に欠けているような方法論が蔓延しています。 まあ大体はみんなで目標を達成しよう系のものが出てきた時は、何かしら反発がありそうな取り決めの前フリだと思っておくほうが賢明です。 「こうですよね?あなたもそう思いますよね?じゃあこうしましょう」 という交渉の仕方です
思ひがけずも師を労はしむるは
細かいところまで考えれば「意図せずとも不測の事態が起こる可能性はどこかしらにある」という理からは免れることができません。 どれだけ対策し、予防していたとしても、やはりたくさんの要素において不確定要素があるため不測の事態が起こりうるという感じになっています。 完璧や成功というものは何かしらの基準に基づく判断であり、基準のあり方によって「完璧である」とか「成功した」という感想が異なってきます。 というような構造がある中 「うっかりしてたなあ
外勇にして内怯えたる愚将
普通に考えると、横暴な人が社会でうまくいくはずがないということになりますが、ブラック企業が完全には根絶されていないということにより示されるように、経済的な成功のようなものは、その人の人格とはイコールではないという格好になっています。 希望的観測で言うと「いつかは失墜する」ということになりますが、うまい具合に任期中は失墜せずにリタイアするという可能性も大いにありますし、だいたいその企業の内側にいる人はマインドコントロール下にあるので、革命
わづかに兵書の旨を察めしによりて
経営やマーケティングの分野においては、よく戦略や戦術という言葉が使われたりします。これらは軍事的な理屈からの応用だったりもするので「戦」という字が入っているのもわかるのですが、どうも商い・経済活動を戦いと考えるのは、少し偏っているというふうに思えてしまいます。 様々な合理化の考え方の根底に「最大の合理性は奴隷化や略奪、そして支配による搾取である」という発想が抜けきっていないというようなフシが垣間見れることがあります。 方法論が具体化し、
実やかに約りつつも
様々な試験の結果のデータを見ていると、何故かわずかばかりは「申し込みながらもテストを受けに来ていない」といったものがあったり、「合格したものの入社していない」とか「初日で退職」というものがあったりします。 しかも数が多くなると何故か毎回のように同じような数字というよりも比率になっていたりします。 なので採用等々においては、予めそうしたものを予測して「少し多めに」ということで備えていたりします。 こうした一定比率の「結ばれないもの」が起こ
愛憐の厚きに泪を流して
そういえば昔漢字のテストで、あしたのジョーの「泪橋」につられる形で「涙」を「泪」と書き、丸をもらいつつも先生に呼び出されたことがあります。 さて、普段それほど問題がないと考えられる「憐れみ」ですが、もちろん副作用として相手に憐れみ乞いの癖がついてしまうということが起こったりします。 そして一方で、手をかけた側には、ほんのりとした喜びのようなものが生まれるため、相互依存を生み出しやすくなるという面もあります。 これが自分のことを自分でこな
まことに捨てがたきありさまなり
小学校中学年くらいの時のことです。 ボーイスカウト、というよりも当時カブスカウトだった僕たちのリーダーに荒俣宏氏と重複率97%くらいの人がいました。アリャマタコリャマタ氏にちなんで、この方をアリマタ氏と呼ぶことにしましょう。 関西弁ということを除き、顔もメガネも風貌も、声も話し方もすべて荒俣氏そっくりであり、カブスカウトのみんなからも人気のリーダーでした。 ある時、カブスカウトのハイキング中に誰かが 「アリマタさん、好きな歌はありますか
湯ひとつ恵み給へといふ
かなり昔のことですが、ある時バイト中 「おい、もっと熱い湯をもってこい!」 といきなり客に怒鳴られたことがあります。 「こんなぬるい湯じゃ茶を淹れられないだろう」 というのですが、用意していた茶は煎茶であり、僕たち側としては煎茶の抽出に最適な70℃から80℃くらいの温度にしておいたのですが、相手には伝わらず、 「手を抜きやがって」 などと言われたという感じでした。 カップラーメンなどを食べるというのであれば「ぬるすぎるだろう」というのも
これらは愚俗のことばにて
言葉の乱れというものが問題視されることもありますが、新しい言葉がどんどん生まれるということは必然的であり、若者言葉のようなものもひとつの空間における結束のようなものをもたらすため、それら言葉は社会的機能として別の面で機能を持っているという面があります。 しかしながら、意味に関するものを取り扱う場合、具体的な意味がつかみにくいという場合であったり、相手との意志の疎通において理解が生まれないというような感じで問題が起こっているのであれば、や
かなしき物がたりにこそ
悲しみや苦しみそのものは良きものではありません。それを発端として良きものとなりうることはありますが、それそのものが良いものではないのは自明の理です。 数多の悲劇のその内容は、その時代の生きる辛さを反映するような面があります。激的な悲劇が生み出される時、その時代背景として社会はより強いカタルシスを求めていたということが垣間見れたりもします。 表面的に見れば「何だそんなことか」と思えるような出来事であっても、表面には表れてこないじっとりとし
ここち惑ひ侍りぬ
成長してしまったゆえに、ということなのか、以前は人と接していて戸惑いが起こることがよくありました。否、戸惑いとはまた違うのかもしれませんが、今でも違和感を感じてしまう時がたまにあります。 なぜ昔はこのタイプの人とも普通に話せていたのに、今ではうまく話せないのだろう、というような感じです。 二十代前半頃までは普通に話ができたりしたのに、今では普通に話をすることができないという場合があります。 それはきっと物事をどう捉えればよいかということ
人の痛楚む声いともあはれに聞えければ
弱っているものを助けよう、弱きものを守ろうとするのは、一般感覚として普段からあるような感覚ですが、時にこうした構造を利用して「弱っているふりをすれば何かしら相手に負担をさせることができる」という感じで自己都合を叶えようとする人もいるので困りものです。 「そうしたものには騙されまい」とすべてを遮断するというのも歪んだ極端であり、また、逆に全てにおいて手をかけようとするのも歪んだ極端です。 困っているフリをすることを含め「駄々をこねれば自分
家は頗る富みさかえて有りけるが
必要以上に与えることは、相手の自立や自分自身で獲得する自信、そしてそこから生ずる安心を奪うことになるのではないか、と思うことがよくあります。 実質的にはありがたいような援助であっても、そうした援助自体が自立の機会や意図を奪うことになり、結果、「自分一人でできた」という喜びや自信を奪ってしまうことになるというような感じです。 いくら所有物などで気を紛らわせようとも、本質的に自分には力がないという部分は紛らすことができません。いくら強がろう
友とする書の外は、すべて調度の絮煩を厭ふ
何かしらに集中しようと思った時、それを阻害するものをなるべく排除して脇に追いやった方が良いのは言うまでもありません。 しかしながら「集中しよう」と思ってからでなくとも、物を減らすことで煩いが減るのでなるべく物は無い方が望ましいという感じになっています。そんなこんなで家にテレビはありませんし、携帯電話も法人ガラケーです。 捨てないにしても押入れ、クローゼット、物置の類にしまっておくということをすれば、意識の乱れというか意識の振り回しが減る
軽薄の人は交わりやすくして亦速なり
一過性の流行のようなものを日々使い捨て、その場の享楽に生きる人にとっては、目の前の出来事もまた一過性であり、一過性でありながら、そうした享楽的なものを渇望し、餓鬼の如く消費物を探し彷徨っていたりします。 「前によく言ってたあれはもう言わないの?」 と聞くと 「そんなのはもう古いよ。今は…」 と続くのが関の山、どうせ目の前にいる自分も一過性の暇つぶしなのだろうという予測が立ちます。 また捨て去るだけでなく「忘れる」ということが常であるなら
楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや
今いる環境がずっと続くかのような錯覚が起こることがあります。そうでないとはどこかでわかっていても「なるべく続けばいいなぁ」と思って、「終わること」への憂いから、変化した先を見ないようにするというようなことが後の悲劇をもたらしたりします。 ― 今ある環境を謳歌するということ自体は、今しかないものを掴み取るという点においては良いですが、特殊な環境がもたらした現状に依存すると、そうした環境が変化した途端に破綻します。 例えば学校生活においては
特別企画 その9
「特別企画 その9」として、人工知能の混乱を意図し安永五年の作品からのフレーズ抽出ということをやってみようと思います。 ― 先日、雨降る日に友人から電話がかかってきました。 ― それより少し前、その友人が遠方の百貨店でイベントを開くということだったので、お知らせを受けたからにはと駆けつけようとは思いましたが、自分はなかなか行けそうにもないと思ったので、比較的その会場近くに住んでいる別の友人に案内をしたりしました。僕たちは全員同級生であり
勢いだけでは乗り越えられない現実の壁
これは企業経営に限ったことではありませんが、「勢いだけでは乗り越えられない現実の壁」というものが世の中にはたくさんあります。 「気合いで乗り切るって言ってもなぁ。二、三日徹夜すればいいくらいに思ってない?」 というような感じです。 「頑張るぞ!」という気持ちはいいですが、世の中においては、力んだだけではなんともならないというシーンがたくさんあります。 それに気づいたのは20歳くらいのときです。 友人が奨学金と深夜バイトにより、自力で大学
ズレたずるむけ感とクラブゲッパ―
音楽を含め芸術や文化の分野においては、各々の人が持つ捉え方があり、感受性や総合的な視点のあり方などによって感想というものは千差万別になっています。 一般的な歌がつく楽曲に関しての感想も、楽器を演奏する人たちは各音について具に聴いていたりもしますが、全く無縁という人にとっては、歌詞が重要な要素として位置付けられていたりします。 しかしながら個人的にはやはり昔から楽器を触ってきたということもあってか、小学生の頃から歌詞に対する比重はあまり高
嫌な人との向き合い方
生きていると嫌な人と出会ってしまう機会がたまにあります。「趣味が合わない」という程度ならばいいですが、「脳が焼け焦げているのではないか?」と思うほどに多少気が狂れているような人や、周りが見えず自分の快楽だけを追求する傍迷惑な人、アラ探しや侮蔑等々により事あるごとに気力を奪おうする人など、多種多様な人と出くわしてしまう可能性は常にあります。 これらは怨憎会苦という「思い通りにならない苦しみ」です。そうなると怨憎会苦から逃れようと「何でも受
耐えられる程度の微妙な暑さによる混乱がもたらした気付き
最近は日中が暑く夜はまだ若干涼しいという感じの気候が続いています。昼間の暑さは日差しの強さに依存しているというフシもあるため、曇り空ともなれば「耐えられる程度の微妙な暑さ」といった感じになったりもします。 気づけば脇に熱がこもっており、若干脇毛が絡まっているという感じの暑さです。 そんな微妙に耐えられる程度の気温の中、しばらく暑さをあまり気にかけずにいると、どんどん「回転」を含め頭の調子がおかしくなってきます。 つい昨日は、鳴滝と清滝を
信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。 「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。 ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」
嫌な記憶や辛い記憶の扱い方
おそらく誰にでも嫌な記憶や辛い記憶というものがあると思います。 「嫌な記憶や辛い記憶を忘れる方法はないか?」 「いっそ記憶を消す方法はないだろうか?」 ということを思う人も結構いると思いますが、無意識の奥底まで対象とするならば基本的に記憶というものは忘れることができないため、何かしらで表面的に出てくることを抑制することはできるかもしれないものの、それらは忘れ難く、忘れようとする試みは失敗に終わることがよくあります。 嫌という感情や辛いと