すでにパウロは、罪に対する神の深い不機嫌が取り消されるためには犠牲が必要である、という考えであった。それ以来キリスト教徒たちは、自分自身に対するその不快を、ある犠牲にむけて洩らすことをやめなかった。― それが「世界」であろうと「歴史」であろうと、「理性」であろうと、喜びであろうと、他の人々の安穏な平和であろうと― 何らかのよいものが彼らの罪のために死ななければならない(姿においてだけであっても)! 曙光 94
不機嫌な人々を見ると、その不機嫌をなんとかしてあげようと思ったりして、その不機嫌さに同調してしまうということが起こります。そうすると、その結果自分まで不機嫌になってしまいます。
そんな時の治療法は非常に単純で、快い方に押し倒すという感じで接することです。
意識状態が同調してしまうということならば、自分が相手に同調するのではなく、相手をこちらに同調させてしまえばいいのです。
「相手を根負けさせる」という感じです。
しかしそうした気分というものは非言語的です。
だから言語で押し倒すというわけではありません。
といっても、不機嫌な人にただ元気の押し売りのようなことをしても逆に抵抗されてしまう時があります。
不機嫌な人々の心理
不機嫌な人々の心理としては、様々なケースを想定することができます。といっても大まかには欲か怒りが生じており、何かが不足していると感じているか、何かが期待にそぐわず目の前から追いやりたいということを思っているか、という感じです。
満たされていないと思うような感情の状態にあるか、怒り心頭というような状態にあるかという感じになるでしょう。
泣き言や愚痴を言っている人も結局は怒りが外向的に暴力として表れるではなく、内向的に自責として表れたりしているだけだったりして、結局は何かしらイライラしています。
そのイライラは欲が満たされないということなのか、怒りが解消されないということなのかというような分類が可能ですが、欲も怒りも結局は同じことであり、現状に不満があるということをどの方向から見るかという違いにしかすぎません。
さて、不機嫌な人々の不機嫌を治そうとする時、つまり機嫌を良くしてあげようと思う時、普通は相手の欲や怒りに沿った形で何かの行動を為してあげるというようなことが思い浮かんだりしますが、特にそうしたリアルな行動を起こさなくても、同調によって相手の機嫌を良くする事はできます。
相手の機嫌を治そうとして何かしらをしなければならないと思うとなると、まさに毎度毎度振り回されることになりますので、そうした行為の必要のない「不機嫌な人々の治療法」を採用するに越したことはありません。
不機嫌の対極
世間では、不機嫌の対極にあるのはハッピーな状態であると考えられており、そのハッピーな状態とはワイワイ楽しい感じであると思われています。
ただ一言にハッピーと言いながらも、その状態は「盛り上がって楽しい」というワンパターンではありません。
「嬉しい!楽しい!幸せ!」というような要素が複合的に入り混じっているという感じになり、常にその比重が一定であるという感じではありません。
しかし時に、むしろそうした盛り上がりの空気感自体がうざったく感じる場合もあります。
ということは、盛り上がって楽しいというものは、汎用性が低くまだまだレベルの低いハッピー状態であると考えることができます。
同調によって相手の機嫌を治すということにはなりますが、その時の状態というものは何も不機嫌の対極にあるような「機嫌が良い状態」とか「ハッピーな状態」というものでなくても構いません。むしろ、もっと静かな感じのほうが「元気の押し売り」的なリスクも少なくより一層効きます。
心静かな幸せ感
不機嫌な人への治療法として最適なのが、「心静かな幸せ感」です。
「快楽と幸せは違う」という感じで捉えてみましょう。
嬉しがっている人を見て、すべての人がその嬉しさに同調するということはありません。むしろ鬱陶しく感じることがあります。
喜び方が二流以下
例えば僕は、オリンピック選手などがメダルを獲って激しく喜んでいる姿を代表例として、体育会系が試合に勝ったりして喜んでいる姿が好きではありません。
まあ喜ぶことは構いませんが、「自分を褒めてあげたい」などと言われたときには寒気がします。
なぜならそれはいかに世界最高峰の試合で勝とうが、二流以下の発想だからです。
どのような分野でも超一流の人たちは、その分野とだけ対話しており、試合の勝ち負けなどプロセスにしか過ぎず、まして表彰などにはほとんど興味を持っていません。
例えば、ノーベル賞をもらって飛び跳ねながら喜んでいる人を想像してみてください。
程度が低く感じないでしょうか?
「ああ、この人は人からの評価が欲しかっただけなのか」
というふうに感じないでしょうか?
心静かに深く礼
逆に、武道などにおいて、優勝したとしても飛び跳ねて喜びなどせず、道場などに向かって心静かに深く礼をしている人を見た場合はどう感じるでしょうか?
「ああ、この人はこの道の極みだけを見ているのかもしれないな」
という風に感じるはずです。
しかしながら、そうした人も全く喜んでいないわけではないはずです。一つの通過点として、という感じかもしれませんが、何某かの喜びは感じているはずです。
そうした心静かな幸せ感こそが不機嫌な人々を押し倒すのに最高の意識状態です。
不機嫌な人々の治療法 曙光 94
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