限界を迎えるまで

この半年程度、すべての出来事ではないですが、全方向、全分野において「限界を迎えるまでカスな態度を取られる」ということが続きました。

むしろ限界を迎えさせてくれた、という方が正しいでしょう。

いくら方法や相手への心持ちを変えたとて根本解決にはなりません。

心の底から嫌だと思い、意識を内側に完全シフトさせるための強制措置のようなものだったと思っています。

本質的には安心の中にいます。

しかし、自我レベルではここ数年、安心を感じたことは一度もありません。つまり、思考の範疇では、安心とは程遠いところにいたということです。

その構造の根本にあるのは、この心より他のことを優先するような思考構造が生じ、それが強化されたからです。

「いい加減に涅槃に戻りなさい」という、この宇宙、この自然からの「はからい」によって、「限界を迎えるまでカスな態度を取られる」ということが続いたのだと思います。

環境に合わせることでも抵抗することでもない、フラットな立ち位置に戻るために、という感じです。

これは自我の引力に対して「諸法無我」を突きつけるような感じかもしれません。

実際は、誰かのカスな態度そのものより、「カスな態度に対する自分の態度」に「嫌な感じ」がしてしまうという構造になっています。

「カス相手に誠実に対応してしまう」という感じですね。そうなると、どこかの店でカスな態度を取られたり、何かの機械の仕様が段取り悪く作られていると余計に腹が立ってきます。

諸法無我と「私の安心」

それで諸法無我と「私の安心」についてです。

厳密には「この心の安心」なのですが、自我に突きつけるので、一応「私の安心」ということにしておきます。

自我としての「私」は、何もしていません。

何かをしているという実感があっても、それは「やっているようでやらされている」という自動演算、自動反応の範疇です。

そして、それは外界の現象、つまりどこかの誰かの行動についても同じです。

そうなると、悪者は不在ということになります。

「カスな態度を取る相手」も「カスな態度を取る相手への自分の態度」も「私」が生み出したものではありません。

「私」が「思うままにならない」と思い、感じることが苦(ドゥッカ)です。

何もする必要はない

そういうわけで何もする必要はなく、思考を思考で打ち消す必要もありません。

淡々としていればそれで良いという感じになりますが、行動として「全く何もしてはいけない」というわけではありません。

しかしながら、向けるべきは思考による反応的な現実的行動より、心の奥深くの本音を見るということです。

すべては「安心」に収束していきます。

「その安心獲得の方法はこのようなことではないか?」

ということが思考でパターン化されているだけです。

たいていは、「絶対に裏切らない、母性あふれる奥さんが欲しい」→「そのためにはモテる必要があり、また、金銭が必要になる」→「そのために合理的な方法は、モテテクを磨くことと、安定した収入を得るための職につくことである」→「そのためには、就職に有利な学校、学科を選択し…」…

という程度です。

最初の「思考」の前には、「安心が欲しい」という希望があります。

しかしながら思考の範疇においては、すべてに「確実」がありません。

「おそらく大丈夫だろう」という程度が限界です。

なのでその空間に安心はありません。

構造上100%ありません。

Category:miscellaneous notes 雑記

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