食べさせる相手がいなくなった料理人

食べさせる相手がいなくなった料理人、聞き手のいなくなった演奏者、…目的をなくした者、能力に意味を与えられない者…

想像するだけでも虚しくなります。

人々に振り回されたりして心身ともに疲労がたまり、嫌気が差してきた時は、仕事が嫌になったりしますが、全く仕事とが無いこともまた、苦痛をもたらしたりします。

一人もお客が来ない店のように、座っていても一本の問い合わせも来ない事務所のように、閑古鳥が鳴いている状態というものは、暇疲れを超えて自己の存在意義すら問われるというような苦痛がやってきます。

無くしてから気づくありがたみ

仕事がらみでもそのような形になりますが、多少の軋轢が生じたような家族や友人もまた、亡くしたり別れたりしてからその対象のありがたみを実感したりするという感じになります。

両極端は辛いという感じになっているだけで、あってもなくても苦痛というのがその本性であり、意識の身勝手さを感じたりもします。

ただ、それら対象に対しては、完全なものを求める方が異常であり、概ね良い面と悪い面がセットになっていて、それを意識がどう捉えるかだけの問題だということになります。

命あるものは、代替可能なものではないため、その相手が人間であれ動物であれ、唯一無二の対象であるはずです。

なので、意識の身勝手さを念頭に置いた上で、良い面に着目して大切なものをきちんと大切なものとして捉えなければなりません。

それはそれで、愛別離苦を生みますが、愛別離苦を恐れて何もできないとか、何も大切にしないというのもまた歪んでいます。

金銭で代替できない行動の部分

行動を約束したり買うことはできても、感情を約束したり買うことは出来ません。

それは異性に限らず友人などでも同様です。

1億円かけても親友はできません。

稀にお金をかけて友情のようなものを買おうとする人がいますが、結局は、同伴という行動を買っているだけで友情を買えているわけではないという感じになっています。

では、何が友情をもたらすかといえば、長い付き合いの中で形成された思い出であり、金銭で代替できない行動の部分になるはずです。

お金がある方がスムースになるというような事柄もありますが、結局はお金がなかった頃に、無いなりにいろいろな行動を共にして、苦楽を共にした人たちとの間にしか深い友情は生まれません。

世間的な発想で言えば、誕生日を祝われることも良いですが、祝う相手がいることもまた良いことです。

祝うということはどういうことなのか、とか、祝うことが良いことかどうか、ということは宙に浮いていますが、「食べさせる相手がいなくなった料理人」のような虚しさから考えれば、まあ相手がいるのならば、その対象の存在だけで虚しさは和らぐという感じになります。

家庭の中で、「家族のために料理を作るのが面倒だ」と思うことがあっても、食べさせる相手がいなくなった場合よりは随分とマシだと思えてくるはずです。

もしたった独りになってしまったとすれば、「お金を払ってでも、もう一度作りたい」とすら思ってしまうかもしれません。

「結局は、相手がいなくなれば自分はそんなことを思うのだ」

というような意識の身勝手さを思い返せば、

「面倒だが、まあいいか」

という若干の気力が戻ってきたりもします。

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