年寄りじみた笑い

加齢に伴い爆笑することが減っていき、年寄りじみた笑いへとシフトしていくような気がします。

それはかつて同様のことを経験したというような耐性的なものが出来上がっていくことが要因となっていたり、多様性を受け入れる感性が磨かれ、笑うという反応をしなくなるというようなことが要因となっているのでしょう。

年寄りじみた笑いとまではいきませんが、十代や二十代の時ほどの笑いはそれほどなく「人と話している時に爆笑」ということの数は減ってきているような感じがします。

笑うことが減った要因

「感性が鈍った」というわけではなく、冷静な傍観視などから抑圧が減ったり、多様性の検討から意外性を感じることが少なくなったりという感じで、ある意味では感性が磨かれすぎたからこそという構造になっているような気がします。

年寄りじみた笑いということであれば、かつてからある「年寄り向けの笑い」に反応し、若者向けの笑いに反応しないということになりますが、そうしたものへと意識がシフトしているというわけではありません。

笑いへの感受性が鈍って、年寄りじみた笑いになっていたり、笑う数が減ったというわけではなく、「感性が磨かれすぎて行き着いた」という方が表現としては近く、抑圧されるものも減り、経験や一種の教養から意外性による笑い要素が減少していっているという方が正しいでしょう。

やはり夢の中で爆笑

我が事として最近のことを振り返ってみても、爆笑すること自体はありますが、その大半は夢の中での出来事であり、「爆笑して起きてしまうということが最も多い」という感じになっています(爆笑して起きてしまうゆかいな夢)。振り返ってみるとそこまでの傑作というわけではないのですが、意識が朦朧としておりガードが緩いということで、抱腹絶倒という感じになります。

最近見た夢であれば、ある人がストーカー被害に遭っており、その犯人を捕まえて名前を尋ねると「ハラダです」というので、何故か僕は「コンパラスクか!」と怒号を飛ばし、養子のうさぎに「それはウエダですよ」とツッコまれて、「ガトーフェスタかぁ…」と落胆しながら、爆笑して起きてしまいました(おそらく京都の人しかわからないでしょう)。

起きがけでガードが緩い瞬間

あとリアルな方で言えば、先日ご紹介したマキバオー目覚まし(さよなら2019)を音量最大にしつつ実際に使用し、「ガッシャン!んのあ~今日もスタートしなきゃなのね!」の、あまりの爆音に心臓が止まりそうになった事自体に笑ったということなので、結局起きがけということになっています。ゲート音がまた強烈でした。

ただ、笑いには抑圧の解放の要素があるという部分を考えれば、個人的には、特段抑圧が無いことが年寄りじみた笑いへのシフトの要因となっているような気がしなくもありません(ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのか)。

特に我慢することがなく、抑圧されるものが無いことは安らぎとなりますが、その分爆笑のための布石も無くなるという感じになるのでしょう。

笑いを呼び起こすものは、抑圧の解放という要素だけではありませんが、そうした一つの大きな要素が欠けているというところも、笑いが年寄りじみていくことの要因となるはずです。

偶発的な不意打ち性

やはり偶発的な不意打ち性という要素がふんだんに含まれているような構造でないと、日常では爆笑までは届かないという感じになるのでしょうか。微かに笑うことの方が圧倒的に多いような気がします。

そしてその奥には「構造が見えてしまう」ということが潜んでいるような気がします。構造が見えてしまっているからこそ、「不意打ち性が凄まじく、瞬間的な論理的判断を介さないという構造」を必要としてしまうというような感じです。

特に笑うことを必要とはしていませんが、そんな感じで笑うことが減っているのではないかということを思ったりしました。

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Category:笑う月

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