年寄りじみた笑い

加齢に伴い爆笑することが減っていき年寄りじみた笑いへとシフトしていくような気がします。

それはかつて同様のことを経験したというような耐性的なものが出来上がっていくことが要因となっていたり、多様性を受け入れる感性が磨かれ、笑うという反応をしなくなるというようなことが要因となっているのでしょう。

我が事として最近のことを振り返ってみても、爆笑すること自体はありますが、その大半は夢の中での出来事であり、「爆笑して起きてしまうということが最も多い」という感じになっています。振り返ってみるとそこまでの傑作というわけではないのですが、意識が朦朧としておりガードが緩いということで、抱腹絶倒という感じになります。

最近見た夢であれば、ある人がストーカー被害に遭っており、その犯人を捕まえて名前を尋ねると「ハラダです」というので、何故か僕は「コンパラスクか!」と怒号を飛ばし、養子のうさぎに「それはウエダですよ」とツッコまれて、「ガトーフェスタかぁ…」と落胆しながら、爆笑して起きてしまいました(おそらく京都の人しかわからないでしょう)。

あとリアルな方で言えば、先日ご紹介したマキバオー目覚まし(さよなら2019)を音量最大にしつつ実際に使用し、あまりの爆音に心臓が止まりそうになった事自体に笑ったということなので、結局起きがけということになっています。

ただ、笑いには抑圧の解放の要素があるという部分を考えれば、個人的には、特段抑圧が無いことが年寄りじみた笑いへのシフトの要因となっているような気がしなくもありません(ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのか)。

やはり偶発的な不意打ち性という要素がふんだんに含まれているような構造でないと、日常では爆笑までは届かないという感じになるのでしょうか。

そしてその奥には「構造が見えてしまう」ということが潜んでいるような気がします。構造が見えてしまっているからこそ、「不意打ち性が凄まじく、瞬間的な論理的判断を介さないという構造」を必要としてしまうというような感じです。

特に笑うことを必要とはしていませんが、そんな感じで笑うことが減っているのではないかということを思ったりしました。

Category:笑う月

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