ここで新しい理想がつくられる

恋愛状態のとき、自己の人生の決断を下したり、激しい気まぐれのために自己の伴侶の性格を断然決定してしまったりすることは、許されるべきことではない。われわれは、愛人同志の誓いを公に無効であると宣言し、彼らに結婚を許さないようにするべきであろう。 曙光 151 前半抜粋

性格も傾向はある程度固定的なものであっても、表に現れる行動などは一様ではありません。そのかかる負荷度合いが弱かったり、単発なら怒ることがなくても、様々な種類の強いストレスが連続して起こると、優しい人でも怒り出すことは当然に考えられます。

特に恋愛に酔っているときは、意識の大半が麻痺しています。その半麻酔状態だからこそ許容できることでも、その麻痺がなくなった時には耐え切れなくなるかもしれません(墜落の夢はかならず覚醒につながっている)。

恋愛に酔いを利用する

ただ、この麻痺状態を大いに活用して、普段なら許容できない「食わず嫌い」をたくさん経験してみるというのも良いのではないでしょうか。つまりは独りならば絶対にしないことでも、酔った状態なら相手に合わせて「やってみよう」と思います。これを大いに活用してみるという手です。

ただ、それでも嫌いなものを好きになることはあまり無いでしょう。相手に合わせて「楽しんでいるフリ」などはやめておいたほうがいいと思います。

一応経験してみても、結局はそんなに楽しくはないのですが、そういう時には、「一人で行ってくれ」と言えるようにならねばなりません。それで嫌われるようならその人と関わらなくていいでしょう。

頼り頼られること

特に相手に頼れること、頼られることに酔うことは一番危険です。頼られていることに喜びを感じていても、それは錯覚であり、酔っ払っているだけですから、徐々に解除されていきます。

そうなった時はただのお荷物です。相手への酔が冷めた時、相手に対して排除の欲求、つまりは怒りでいっぱいになります。

病や急なトラブルならいいですが、常日頃から人を頼る人は、頼る必要がなくなった時、もしくはもっと頼れる人が現れれば、去っていきます。そういう気質を持っています。つまりは踏み台にされているだけなのだから、ただの厚かましい乞食だと思いましょう。

好きな人に出会ってもいないのに、結婚がしたいと思うことは、「誰でもいいから頼ろう、縋ろう」ということと同じことです。

誰かに仲介してもらわねばならないような人たちは、相手も「好きな人に出会ってもいないのに、結婚がしたいと思う人」であることは間違いありません。ということは、お互いに頼ろうとしているのだから共倒れになります。

シラフで決める

さて、酔っている時に決断を下してはいけない、ということはシラフで決めなければならないということです。特に酒に酔っているときは酔いがブーストされますからもっとダメですね。

恋愛状態にある時は、意識が変性しています。それはそれで耽美なものですが、それは酔いであることには変わりありません。

浪人生が酒を飲んで入試を受けに行くのは合格を諦めた時であり、後に「飲んで受けてやったぞ」と自伝を語るためくらいなもので、本気で合格したいときにはシラフで行くでしょう。それと同じように、シラフで決めなければなりません。

そこで目安になるのが、相手と一緒にいて、1時間でも2時間でも沈黙が気にならない状態で勃つのか、という点です。

もうほとんど「残」が残っていない状態でも、気持ちは前に向いているのか、という点です。男性ならば、一番理性的になれる瞬間です。それが体調によって多少の変動はありつつも、毎日そういう状態にならないのならば、公の宣言は無効です。

愛の浪費に反対

ここで新しい理想がつくられる 曙光 151

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

「ここで新しい理想がつくられる」への4件のフィードバック

  1. ぼっすーさん、おはようございます。

    ここで書いてもいいのかわかりませんが、下半身が反応することについてです。

    少し前まではちょっと想像しただけで反応してしまうようなオスでした。

    知人らと関連トークをしていた時、反応していたのは自分だけということがあります。

    なぜ他の人は、簡単には反応しないのか真剣に不思議に思っていました。

    当時はまだまだ、主従関係が逆転しておらず着ぐるみに包まれていたかんじです。

    とある恋がきっかけで、何故好きなのか自問自答をしてみたことがあります。そこで自分は自尊心や依存心を満たしてくれる人を好きになってしまうことに気がつきました。

    おまけ的な感じで反応するのはその人が好きだからではなく、想像した対象に対して排泄したいという息子のわがままによるものということが判明しました。

    モテないことに苦しんでいたのは自分の息子の排泄欲求が強いためということにも気付きました。

    そんなことで自分なりにモテないが正しいことを悟りました。(というより、モテなくても全然問題ないけど、こんなんでもいいっていう女の子がいたら大切にしたいなあという心持ちで、でもそんな女の子が現れなくても別にいいという感じです。)※この感覚は悟りになりますか??

    モテることに興味がなくなったはず!ということでまず坊主にしました。髪型という煩わしさから解放されました。

    家族からはどうせ禿げるんだから今のうちにおしゃれしときとか、伸ばしたら毎月100円あげるとか言われますが、一年間にかかる床屋代20000円が浮くのと、風や湿気を気にする必要がないので気に入っています。ただ、今の時期は寒いです。

    なぜモテないのか考えたり、愛とか性欲とか考えてきたりしました。

    初めは好感が良くても、お付き合いまでに発展してこなかったのは、初めは愛だったのに、好きだと意識しはじめた途端、自分の愛が性欲で自尊心で依存心、利己的なものに変わってしまったからです。

    いろんな失恋を繰り返して、だんだん正しい愛がわかってきた気がします。前よりかは純粋に人に対して好きと感じられるようになったり、純化された愛の実践ができるようになったりしたと思います。

    反応する話に着地しますが、そういうことがわかってくると、反応することが減ってきました。息子と向き合う時間も減りました。

    ぼっすーさんのここで書いている無言で隣で[…]は何故だか今の僕の定義づけの[それ]を超えているように感じます。

    恋愛のきっかけは本能とおっしゃっていた気がするのですが、性欲なのでしょうか。となると、やはり顔とかスタイルということなのでしょうか。しかし、我々男はスカートなどの記号に対して余裕で発情します。

    恋人ってなんだろうと思います。愛は地球上全員とは言わ無くても、与えられるものではないのでしょうか。いや、誰にでも与えられるのが慈悲で、自分が好きだという特定の人に与えられるのが愛でしょうか。そうであれば恋人とは性欲によって引きつけあった愛する人ということでしょうか。

    一体純化された好きってなんでしょうか。こんなことを考えているということはまだまだ不純な好きで人と接しているということなんでしょう。

    最後までご高覧ありがとうございました。この思考に対するフィードバックを頂けたら嬉しいです。よろしくお願いします。

    1. (一部の特定ワードの複数回の使用は検索結果に大きく影響を与える可能性があるため全体的に他の語に変換させていただきました。ご容赦ください)

      「モテないが正しい」に関してはある程度進まれていると思いますよ。

      さて、芥川龍之介氏の表現に倣えば「恋愛」=「性欲の詩的表現」となります。
      しかしながら、本文に即す形で表現すれば、そうしたものをきっかけとした一種の狂気の中で、それまでは見えなかったものを観て、より高次な精神へと高めるのであればそれはプロセスであるという感じになると思います。
      たとえ本能レベルの反応や利己心から始まったものであっても関係も常に変化し、意識も常に変化するため、その中で何にどう気づくかというところが大切です。
      なので、不純のように見えてもひとまずはそれで良いといったところになるでしょう。

      ただ、他の投稿で触れていたこともありますが、こうした愛という概念は定義が様々です。キリスト教の神学概念として無条件の愛を示すアガペーというようなものもありますし、恋愛を含む一般的で浮ついた愛というものもあります。
      なお、「誰にでも与えられる」という感覚は自己という概念を中心としているため「博愛」などには当たるような気がしますが、少なくとも僕が用いるときの「慈悲」はまた少し異なったものとなるのでご注意ください。
      (最も近い感覚は様々な生き物に対する友情の感覚です)

      そして、「自分が好き」というものには、本能的な都合や外界によって形成された情報の集合としての「自我」の解釈が含まれているという点に着目していただければと思います。

      既に感覚的に気づかれていることであると思いますが、本能による反応は本心といえば本心ではあるものの、本心でないといえば本心ではないというようなところが、愛と慈悲を分けるものとなるという感じになります。

      ちなみに昨今は対象の把握に関して視覚情報が中心となり、いいところ聴覚が加わる程度で、あとは意識的妄想が埋めるという感じのことが起こりやすいですが、本来は嗅覚や触覚なども本能レベルでは大きく関わっています。

      1. 芥川氏は頓珍漢をずっとされていたとありますが、自分もそうなりそうで怖いです。本来なら10代でするべきことを今更になって始めました。しかし、こういった思考も全て自我の範疇で行われているため、意味がありません。

        今まで自我を守るために行動をしてきました。自我は可愛いので、やっぱり守りたくなります。自我が好きなことをできるように社会に出て稼ごうと思います。でも、自我にはやってみたい職業があるそうです。実現は可能ですが、ヘタをすると間違っても一番したくないことをしてしまう可能性があり、それは映画やアニメ、本の中で楽しむべきことだと思っています。このわがままに付き合うべきか悩んでいます。
        こうして自我をモニタリングする者も結局は自我の範疇です。

        ぼっすーさんからのフィードバックをいただいて考えたことは恋人というものは自我にとって都合のいいパートナーということです。

        僕の自我は子どもだから面倒見の良い女性に惹かれるということです。性欲もたっぷりあるのでそういう人と付き合うのであれば付き合うべきなのでしょう。

        もちろん、その条件を満たしたからといって付き合う必要もありません。お互い影響を与え合い、自我を高める?ということができて、かかるコストと得られるものに納得がいくのであればしてもいいかなと思うちょっと大人な自我です。

        あと、ぼっすーさんが追伸で記載されていた匂いや触覚ですが、好きになる人の匂いはいつもいい匂いです笑
        触覚はあんまり経験したことがなかったです。手を握ることが足りなかったのかなとまたも[モテないがただしい]とか言っておきながら頓珍漢なことを考えてしまいました。

        フィードバックありがとうございました。

        1. 思考から導かれる理想や合理的判断はそのまま置いておいて、それが現実に訪れたときの非言語的体感を先取りすると良いと思いますよ。
          「不足という判断から充足のために条件を達成する」という構造をパスすることになります。
          「対象は私にとってどんな位置づけのものであるのか?」という属性を与える必要もなくなりますし、「現実は理想とズレている」という執著からの苦も起こらなくなります。

          それでは。

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