
気づかわしい
ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる。―このことはしかし不誠実であり、卑怯であり、不精であるということを意味する!それでは、不誠実、卑怯、不精が倫理の前提であるというのか? 曙光 101 「気づかわしい」とは、事の成り行きなどが気にかかることであったり、「心配だ」「気がかりだ」というようなことを指しますが、12月25日は世
夢からさめて
生きているということは、明晰夢のようなおぼろげなものです。何度か書きましたが、僕は夢という言葉が苦手です。 イニシャルDの最終話で「プロジェクトDのイニシャル、Dreamに込めた俺の夢だから」と、高橋涼介が言った時には彼の評価が2段階位落ちました。 「高橋涼介が一番だ」、ということで頭文字DのゲームでもFC(RX-7)を使っていました

クリスマス被害者の会
僕は12月生まれです。なぜか友人は11月から2月の間に生まれた人が多い傾向にあります。 生まれた日は大雪が降っていたそうです。いまでは好きな季節というものがありませんが、雪国でもないのに、もしからしたら雪が降り始める季節、小さい時は12月が一番好きな季節でした。 ― クリスマス被害者の会ということで、12月後半生まれの方が実感するよう
われわれのすべてが非理性的である点
われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99 理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。 感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響

第400回投稿記念
これで400記事目になります。ということで第400回投稿記念の回です。またまた特別企画中かつ、書庫の作成中ですが、これらもある程度成熟してきたのでそろそろペースをぼちぼちにしていこうと思います。 さて、常連さんいつもいつもご高覧ありがとうございます。 早いもので記事は400になりました。簡易的なページをたくさん作ったため、第300回か
道徳の変化
道徳にはたえず変形が施されて手が加えられている。― このことを引き起こすのは、上首尾の結末に終わる数々の犯罪である(たとえば、道徳的な考え方を新しくすることはすべてその一つに数えられる)。 曙光 98 いつでも決め事は解釈によっておかしくなっていきます。「道徳の変化」ということで、決め事など明文化されたもの、道徳など明文化されない不文
道徳的になるのは、道徳的であるからではない!
道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でも、ありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。 曙光 97 つまりは校則に書いてあるからとか、上司にそう聞いたからという理由で「道徳」を守っているかのようなギムキョな言動は、道徳
どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか
考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。 同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。 哲学や思想 その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄
観想的な生活の由来
ふっと思うことを「観る」というか観察することはいいですが、一歩間違えればそこに何かを結びつけようとします。 そういう癖は太古の昔であれば原始的宗教と言われるもののように、自分たちが把握できない対象についての畏怖から想起されたと思いますが、現代では、ありふれた情報によって「つじつまを合わせよう」とするアイツ働きによってそれは完成されます
観想的な生活の評価のために
―結局学問はやはり万人に対して非常に利益になるものになった。この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。 曙光 41 苦労というも
習慣の穿鑿
穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはい

「純粋な精神」の偏見
純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。 ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。 そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャン
道徳的な判断によって変形された衝動
ニーチェはとにかくキリスト教を筆頭に、宗教的な前提を否定することが大好きで、道徳という言葉を使う場合、そのほとんどは古代ギリシャやキリスト教的な前提をさしていて、ひたすらそれを目の敵にしています(対象はイエスではなくキリスト教会などです)。それほどまでに想像を絶するほどに西洋文化にはその影響が隅々にまで及んでいたのでしょう。 「道徳的
効用からの誤った推論
守護霊が見えたから、やっぱり守護霊はいるんだ、というような事を本気で信じている人がいますが、そういうことはやめておいたほうがいいでしょう。 やめろといってもどうせそのままは聞き入れないことくらいはわかっていますから、やめておいたほうがいい、というふうに言っておきますが、それは存在を肯定しているわけではない、ということは断言しておきます
底意ある馬鹿げた畏敬
上下関係についてはさんざん書いてきましたが、すこし違ったアプローチをということで、「だからどうした」について触れていきましょう。 昔々の営業先で、はたまた社内で、「自分の旦那はこんなにすごい」とか「うちの会社はこんなにすごい」というような事を話題にしたがる人がいました。 そんな時には、事実というより現在の状態について何か誇らしげに主張
感情とその判断からの由来
「君の感情を信頼せよ!」― しかし感情は最後のものでも最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。 曙光35 感情は今の状態の一つの指針で、「その場」に限って言えばそれが全てみたいなものですが、それはすぐに流れていきます。 たまたま訪れた感情にも、その原因があります
道徳的な感情と道徳的な概念
これだけ道徳、道徳、と繰り返していては、道徳が好きなのかと思われそうですが、繰り返したくないのに繰り返さざるを得ない、これが特別企画の醍醐味です。 道徳の厄介なところは、それを教え込まれてきたから信じ込んでいる、という側面を持ちつつも、その要素に気持ちがスッキリするというものが含まれている点です。また、社会的に見た時にはそれが妥当、と
原因や結果や現実の軽蔑
結局現実的なものは、それが象徴でありうるかぎりにおいてのみ、まだ価値があるのだと考える。こうして人間は風習の倫理に威圧されて、第一に原因、第二に結果、第三に現実を軽蔑し、すべての彼の高級な感覚(畏敬や、崇高や、誇りや、感謝や、愛の感覚)を、想像された世界、いわゆる高級な世界と紡ぎあわせる。そしてやはり今日でもわれわれは、人間の感情が昂
輪止め
道徳的に苦しみ、その上この種の苦しみの根底には誤謬があると聞くこと、これは癪にさわることである。 ― 道徳の新しい理解を阻止するものは、誇りであり、誇りを満足させる習慣的なやり方である。 曙光 32 省略しましたが、ニーチェは曙光のこの箇所(曙光32)で苦行ジャンキーについて触れています。 苦行を筆頭に、「苦しめばカルマが消える」「体
精神に対する誇り
「誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。 本来自分自身が持つ誇りは、自分自身で納得しておくようなものです。また、誰かを勇気づける時に用いたりするという場合もあるでしょう。しか
徳としての高尚な残酷さ
優越への衝動に全く依存している道徳がここにある。― それをあまり立派だと考えてはならない。 ― まさしく彼が自分の残酷さをぶちまげてやりたいと思うある人々がいる。そこに偉大な芸術家がいる。彼が偉大になるまでは、征服される競争者の嫉妬心を痛切に感じる快楽が、彼の力を眠らせなかったのだ。― 偉大になるために、彼は他の人々にどんなに多くつら
徳の俳優と罪の俳優
演劇などを見せられると、感動するどころか「寒気」がしてしまいます。特に売れない劇団が何か地域の催し物で無償で舞台などをしていると本当に鳥肌が立ちます。 全てのタイプの演劇というわけではないのですが、もう個人的にはあの演劇中の「しらこさ」には体感レベルで耐えきれない自分がいます。 そうした演劇、お芝居の寒さは、「見ているこちらが恥ずかし
ブラウザ系ウイルス(広告系)
親友から電話がかかってきて、なんのことかと思えばブラウザに変な広告がバンバン出てくるということでした。ゾゾを見ていて商品詳細に飛ぼうと思ったら変なサイトに飛ばされる、つまりは内部リンクですら外部扱いされるみたいなパターンでした。 三日間くらいあれこれ対策を練っていたそうですがイマイチ根治には至らず、「お金を払うから直してくれ」という感
論拠としての気分
昔までは、約束の時間に1分でも遅刻する人を嫌っていました。 完璧主義というわけではないのですが、そういう人がどういう神経をしているのかわかりませんでした。そして、盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。 すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というもの
超人的な情熱に対する信仰のもつ価値
―突然で一度だけの約束から永遠の義務を調達した、制度や風習のことを考えるがよい。そのたびごとに、そのような改造によって極めて多くの欺瞞と嘘が生まれた。また、そのたびごとに、しかもこのような犠牲をはらって、新しい超人的な、人間を高める概念が生まれた。 曙光 27 嘘をつかねばならなくなるなら、原則的に約束はしてはいけません。 ただ、約束
動物と道徳
拝金主義というのはどこまでも拝金主義に徹していきます。だからこそ一部の動物を「経済動物」という呼び方をしたりします。 経済動物という表現は、つまり「儲かればいい」であり、「儲けもできない上に、金がかかるなら殺す」です。 疚しさに対しての自己説得でしかなく、動物に対して経済動物や産業動物という呼称を用いる人間にロクな人間はいません。 経
風習と美
握手というものは、万国共通だということを聞きますが、ネパールで友人のお兄さんに初めて会った時に、右手で握手して、さらにいつもの癖で左手を添えると怪訝な顔をされました。 インドやネパール等々、一応あの文化圏では、左手は不浄の手とされていて、トイレに行った時でもトイレットペーパーなどを使わずに、原則左手で洗うようですから、確かに怪訝な顔を
命令の証明
一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からで
われわれのどこが最も精巧であるか
自律訓練法というものをやったことのある人は経験があると思いますが、思うだけで本当に手が温かくなったりします。そう感じるだけでなく本当に温かくなるのだから、錯覚でも何でもありません。 自律訓練法は、右手が重いと意識するだけで本当に重く感じてくる、右手が温かいと意識すれば、右手が本当に温かく感じられ、実際に体温も上がったりするというような
仕事と信仰
依然として新教徒の教師たちによって、一切はただ信仰次第であり、仕事は信仰から必然的に出てくるはずであるというあの根本的な誤謬が植え付けられている。 曙光 22 仕事と信仰ということで、信念として持っていることや信仰として持っていること、そして話していることなどと仕事内容に矛盾があるケースについて思うことがありますので、そんな感じで書い