カテゴリー別アーカイブ: 特別企画

特別企画

無邪気の危険

無邪気な人間はあらゆる点において犠牲になる。彼らはその無知のために、過度と過度を区別したり、時期を外さずに自分自身に対して用心したりすることができないからである。そこで無邪気な、すなわち無知な若い夫人は、愛情を頻繁に享楽することに慣れ、その夫が病気になったり早く衰えてしまったりする後年には、享楽にひどく不自由するのである。 曙光 321 無邪気といっても、「こっそりくすねてやろう」というような、邪な感じが無いだけで欲に満ちている場合がよくあります。しかしあまりその欲は社会では問題視されません。無思慮、無分別、無知な

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傍白(わきぜりふ)

この本のような本は、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。人は頭を突っ込んでは、いつでもまた引き出すことができ、月並みなもの何もあたりに見当たらないに違いない。 曙光 454 このブログのようなブログは、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。 ということで、傍白(ぼうはく)、わきぜりふと銘打って、いつもとは少し違う趣旨でいきましょう。 何か散文のような、普通ならツイートするかのようなことを、時

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天気について

天気が非常に異常であって、当てにならないと、人々もお互いに信用し合わなくなる。彼らはその上改革好きになる。なぜなら自分たちの習慣を脱しないわけにはゆかないからである。そのために専制君主は、天気が道徳的であるすべての地方を好む。 曙光 320 雨の日は営業に出ずに資料の整理などをした方がいい、と言われることがあります。それ程に天候によって人の気分などコロコロ変わってしまいます。晴れ晴れとした日には気分も爽やかになり、雨が降るときには少し感傷的になったり、少なからず実感があるようなことです。 コロコロ変わる天気 「コロ

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歓待

歓待の習慣の意味は、他人の敵意を麻痺させることである。もしわれわれが他人をもはやさしあたって敵とは感じない場合には、歓待は減る。歓待は、悪意をもったその前提が盛んである限り、盛んである。 曙光 319 歓待(かんたい)は、「手厚くもてなすこと」ということで、「歓迎!」と「接待!」だということですね。まさに「他人の敵意を麻痺させること」が主たる目的になっています。つまり歓待は誰かの敵意を麻痺させて、身を守ろうとするような意味があります。 他人の敵意を麻痺させる 知人の不動産屋なんかは、土地の買収の際に不動産オーナーを

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体系家に注意!

体系家のお芝居というものがある。彼らは体系を仕上げようと思い、それの周りの地平線を完成するので、彼らは自分たちの弱い性質を強い性質の様式で登場させることを試みざるを得ない。― 彼らは完全な、一様に強い性格の人々の役を演じようとする。 曙光 318 一旦体系的に学んでしまうと、その体系からはなかなか抜け出せないものです。自分が教えられた時のように、自分が学んだ体系の軸をずらさないように、その範疇を超えるやり方は排除するという癖がついてしまいます。 体系とは、ある一定の原理をもとに全体的に統一され整理された知識の全体像

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夕暮れの判断

終わって疲れているとき、その一日の仕事や、一生の仕事を反省すると、だれでも普通は憂鬱な観察をするに至る。これはしかしその一日や一生のせいではなく、疲れのせいである。 曙光 317 前半 朝は思考が働き、夕方は感情が働く、というようなことがよく言われます。確かに頭は午前中のほうが働きます。しかしパソコン作業は深夜のほうが捗ります。 「なぜなのか」ということを考えた時に、数日にわたってなぜなのか観察してみることにしました。 生理的なことは知りませんが、個人的には「物音がしない」ことと、誰かがやって来て邪魔をされる確率が

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弱い宗派

相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者にやられてしまう、ということがたまにあるでしょう。 「優秀な人材を仲間に入れようと思ったらすぐに去られた」とか 「味方にしようと思ったらその強者にボコボコにされ、組織の結束力がボロボロ

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放棄する

その所有の一部分を放棄し、その権利を断念することは、―もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。 曙光 315 何でもかんでもですが、「所有すれば喜びがある」という点にだけ着目している場合があります。しかし、所有すれば憂いがあります。 喜びはその場は文字通り喜びですが、維持継続したい、失いたくない、またもう一度味わいたい、などなど、たくさんの「気になること」が増えていきます。 「喜びがあるんだからいいじゃないか」といいますが、そんな喜びはいずれどこかに消えてしまう喜びです。いや、喜んだと思

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思索家の社会から

生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半 思索家とは、もちろん思索する人を意味し、つまりはずっと何かを考えているような人です。思いを馳せ、考えて答えを探索する人というような感じです。その奥には、やはり知的探究心があり、知性への欲

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もはや望ましくない友人

その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う所には行かないことにしているからです。 特にそこに行って話すことができるのならば向かいますが、自分を楽しませようとするような遊びで、しかも楽しめないようなものは断っている、というような

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忘れっぽい人々

情熱が爆発するとき、夢や狂気で空想するとき、人間は自らと人類との前史を、すなわち、野蛮な歪んだ顔をもった動物性を再発見する。 曙光 312 序文 先日、自分より少し若い方とお話した時に、「メモをとることを忘れて商談がご破綻になった」というようなことを聞きました。それは体育会系同士のやりとりなので些か厳しすぎるだろう、ということも思いますが、「忘れるわりに対処もしない」という点をつかれたのかもしれません。 忘れること自体は良いことでも悪いことでもありませんが、意識の中で優先度が下がってくる、ということは実際にあること

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いわゆる心

一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。 そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。 ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ(記号、意味されるもの)などを語り出しますが、いずれにしてもそれが一致しようが、持っている観念が違うので、全く同じというわけには行きません。 同じ話を違う人にしても、各々が持つ印象は異

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善良な人々

人付き合いはしてもいいですが、せめて善良な人とだけ付き合ったほうがいいでしょう。 世の中には、悪人だけでなく、首を傾げたくなるような「勘違い野郎」がたくさんいますから、人と付き合うとしてもそのような人と絡んではいけません。絡むとしてもその人で遊ぶ程度で十分です。 胡散臭いコンサルが偉いに人になりたくて、やたらとうんちくをたれてきても、その人で遊ぶくらいの感じにならなくてはなりません。 胡散臭いコンサルによるウンチク →「はい、コンサル料」 聞いた話ですが、新しく起業したての若手の方に、胡散臭いコンサルがウンチクをた

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恐怖と愛

恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いている。その際思い違いすることがあっても、それは愛にとってはひとつの喜びであり、ひとつの利益である。― そこで愛はそうするのである。 曙光 309 人は時に動物よりも人間が尊いとし、特定

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道徳の空位時代

いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半 理性で判断すると、たいてい行き詰まりになります。思考が行き詰まった時に、その理屈に「根拠なし」ということが、わかった時点で、自由や解放の方向に向かうきっかけになればいいのですが、どうもまた堂々巡りが始まるくら

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商売に精通していないのが高貴である

教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営は株式会社であり、どちらかというと福祉っぽくない方でした。 どういうことかというと、その方のお客さんは福祉関係者であり、その方は株式会社としてサービスを提供する側なのですが、意見の食い

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短気

短気は気が短いということ、というわけで短気な人というのは「我慢ができない人」ということになるのでしょうか。我慢などしてはいけません。やりたいことはどんどんやりましょう。 しかしながら、我慢の手前には欲とか怒りがあるはずです。でもそれを表に出してはいけない、行動に移してはいけないと思う時に我慢が出てくるはずです。 短気というのは気が短いと言うだけで、短気でなくとも我慢があればいつかは限界に来て行動を起こしてしまう、ということになるはずです。 我慢と怒りの観察 ところで、何かの衝動が起こった時、どうして我慢をしてしまう

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道化師が必要な人

道化という字を見ると、やはり太宰治氏が思い浮かびますね。「人間失格」「道化の華」(青空文庫)などなど、道化ということについて自分塾を開きすぎたがゆえに入水自殺してしまいました。人間失格については以前に「恐れられる眼」で、少し触れましたね。 さて、無理をすると、どれほど凄まじいことになるか、ということについて書いていきましょう。道化師が必要な場合です。 笑ってやり過ごさなければならない時 人生には笑ってやり過ごさなければならない時がやって来ます。 どういうリアクションを取ればわからないものの、ひとまず笑ってやり過ごさ

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認識の誘惑

学問の門戸をのぞきこむことは、情熱的な精神の持ち主たちにとって、魅力中の魅力のような働きを及ぼす。そしておそらく彼らはそのとき空想家に、うまくいったときには詩人になるであろう。認識する者たちの幸福に対して、彼らはそのように激しい熱望を抱く。 曙光 450 前半 ニーチェはここで、 「妄想を消失させよ!そのとき《ああ悲しい!》もまた消失してしまう、そして《ああ悲しい》とともに、悲しみもまた消失する」(マルクス・アウレリウス)と、マルクス・アウレリウス(ストア派の哲学者で、2世紀後半のローマ皇帝)を引用しています。 空

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事実!そうだ虚構の事実!

歴史家は、実際に起ったことに関わり合わず、推定された数々の出来事とだけ関わり合う。なぜなら、後者だけが影響を及ぼしたのであるから。(中略) ― 底の知れない現実という深い霧の上の幻影の、絶え間ない産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、想像の中以外には決して存在しなかった事物について物語るのである。 曙光 307 抜粋 「事実だ事実だ」と言いながら、世間での事実は全然事実ではありません。事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではありません。だから蓋然性というものでひとまず決定し

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精神を必要とする者たちはどこにいるか?

ああ!他人に自分自身の思想を押し付けることは、何と私を不快な気持ちにさせることだろう!他人の思想が自分自身の思想と引き替えにちょうどよいときにやって来るような、すべての気分や私の内面のひそかな改心は、どんなに私を喜ばせることだろう!しかし時折もっと高度の祝祭がある。片隅に座り、窮乏した者がやって来てその思想の困窮を物語り、、それによってもう一度その人の手と心を一杯にしてやり、不安な魂を気楽にするということを熱望している聴罪司祭のように、彼の精神的な家や財産を贈ることがいつか許されるそのときである。彼はそれによってい

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ギリシア人の理想

ギリシア人は、オデュッセウスのどこを賛嘆したのか?何よりもまず、嘘をつく能力や、狡猾(こうかつ)でおそろしい仕返しの能力、局面を収拾しうること、必要であるなら最も高貴な者よりも高貴に見えること、望むものになることができること、英雄的な頑張り、すべての手段を意のままにすること、才気を持つこと。― 彼の才気は、神々の賛嘆するところであった。神々はそのことを思うと笑う。 曙光 306 前半 ギリシア人、ギリシア人とギリシア人ばかり出てきますが、現代のギリシア人ではなく、古代アテナイを指して、といったところでしょうか。ギリ

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現実を尊敬する

われわれは自己を失わないために、自分の理性を失わないために、体験を避けなければならない!そこでプラトンは現実から逃げ、事物を単に色あせた抽象物においてのみ観ようと思った。彼は感覚のゆたかな人であり、感覚の波がどんなにたやすく自分の理性を打ち砕くかを知っていた。― したがってこの賢者は、次のようなひとりごとを言わなければならなかったのであろう。「私は現実を尊敬したい、しかし同時にそれに背を向けたい。私はそれを知っており、恐れているから」と? 曙光 448 中盤 「ありのまま」や「そのもの」を定義しようとすると、「うー

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けち

買い物のとき品物が安いとわれわれのけち振りは増して来る。― なぜか?小さな値段の差が、たった今けちの小さな眼をこしらえたからであろうか? 曙光 305 「けち」は、吝嗇(りんしょく)を意味しますが、節制とは異なり、細かな点についてでも物惜しみをするような様を意味します。 ニーチェの「曙光」には、今回のように「けち」や「浪費」という言葉がちらほら出てきますが、やはりそういう言葉が出てきた時はたいていお金にまつわるテーマになります。といいつつ「見え坊で、けちで、賢くない」の時は、パンチングマシーンの話になりました。 特

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感情の別な見通し

ギリシア人についてわれわれは何とたわいのない話をしていることだろう!彼らの芸術について、一体われわれは何が分かっているのだろう。その芸術の魂は― 男性の裸体美に対する情熱である!そこからはじめて彼らは女性の美を感じた。したがって彼らは女性美に対して、われわれとは全く別の見通しを持っていた。そして彼らの女性に対する愛も類似した関係にある。彼らは別様の尊敬をもち、別様の軽蔑を抱いていた。 曙光 170 女性に対しての感情はいくつかありますが、一種の軽蔑と怒りがありました。ひとつの軽蔑は醜さです。特に美魔女でしょう。なぜ

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