名とすべて

どうしても昔から「終わり」に対する嫌悪感がどこかにありました。それはアイツとして一つの死を意味するということでもあり、そして次に来る未知への恐怖でもありました。

雑記第100投稿目記念として、長文かつほとんどの人には理解できないかもしれないような感じで書いていきます。哲学テーマでもいいのですが、雑記にしておきます。

分離

ある時から分離が始まりました。

友だちになれると思っていたら、どうも友達にはなれなかった。

そんなことを経験したことは数知れずです。

友達だと思っていた人が、自分の知らないところで変わってしまい、どこか遠くに離れていくような虚しさがありました。

一方、動物はそうではありませんでした。

僕が変化しても態度を変えず、そのままでいてくれました。

「もう子供ではなくなってしまう」

そんなときでも態度は変わらず、いろいろなショックから人格が変容していった瞬間でも、僕との関係は変わることはありませんでした。

僕が観ている世界は、僕の五感を通し、僕の意識の内側のフィルターを通じて解釈した世界です。

そして僕の名前は、僕以外の存在のためにあります。

僕が自分の目を生では見ることができないように、かっこいい車に乗っていても、それに乗っている姿を自分の肉眼では確認することができないように、この名前は僕自身にとっては不要なものです。

誰かとの関連性、何かとの関連性の中で、この名前は意味を持ちます。

名前によって別け隔て、具体的に限定し、他の何者でもない「それ」であることを示すためにあります。

そしてこの名によって、すべてとの分離が始まりました。

名に縛られ、その内側の柵の中に閉じ込められることになりました。

過去を通じての今

僕が僕であり僕の名のもとで一貫性を持ちながら、連続性の結果として感じている今は、記憶の上で成り立っています。

名によって分離が始まり、いつからか個として存在していると考えるようになってしまいました。

そしてその記憶は、過去の情報から成り立っています。

さらにその情報はすべて五感を通じて外界から得てきたものです。

こうした記憶の内側にとどまると、分離し外界からやってきた具体的な情報のまとまりとしてしか成り立っていません。

見るもの選ぶものの方向性も外界によってセッティングされています。そしてすべてであったものから自分だけが欠落しているのです。

自分の顔を生身で見ることが無いように、何かを通じてしか自分の顔を確認することができません。

それと同じように自分が体験してきたことの中から自分だけが欠落しているのです。

分離以前の「全て」であるためには、最後のパーツである自分を取り戻さなければなりません。

僕が欠落した「分離後の外部」との関連性の中でしか、僕を把握することはできませんでした。

しかしそれはタダの虚像でした。

生物学上の「人」として「男」としての自分、同級生の中の自分、会社の中での自分、それらは自分ではなく、その他との区別の上での関連性によって、他に示された自分です。

そして関連性の中での自分は名をつけられ、関連性の中での属性を判断され、自分もまた自分を軸とした関連性で「名」のついた、他を見るようになりました。

記憶を超えて「見る」

今のこの瞬間に意識を集中させると、意識が静まり、記憶による自分は消えていきます。そして五感だけが体感され、そしてさらにそうした感覚すら消えていきます。

ただ、それはそれだけ。

その後に「どうありたいか」を意図しようと思っても、必ず過去の記憶をベースとしてそれを設定するしかありません。

情報の母体が無いことには、何を組み合わせるにしても過去の延長になるのです。

ある情報とある情動の情報を組み合わせて、強制的に新しい意図を作ることもできます。

ところが、すべての情報はこの場にありました。

この場という表現もおかしいですが、現在も過去も未来もなく、無辺無量にです。

すべての情報は常にあるのです。しかし目を開けないと見ることができないように、それを捉えることはできません。

目がなければ、光の差はわかりません。それと同じことです。

光の速さで

そして、物理的な距離に対する感覚も、今まで目で見てきた経験の記憶、時間の流れに対する記憶から、1キロなら1キロだと思っていただけでした。

ある情報を伝達する時、この五感と意識を使った体験からの逆算でいうと、実際会って話す、言語情報としてのメールを送信し、相手は閲覧するというプロセスがないと成立しないと考えているはずです。

しかし、多分それは本来光の速さくらいで到達させることができます。

光ファイバーのネットワークができるまでは、そんなことは机上の空論だったかもしれません。

しかし現実に光の速さで情報の伝達は行われているはずです。

それを具体的に、この物理的な空間での解釈として伝達するには、それ以上の時間がかかっているだけで、動画ファイルのような情報でも秒速で伝達することができるはずです。

ただ、そうした時に、物理的な納得がない限り、普通は納得ができないはずです。

「光で通信していたとしても、その光が何かで遮断されれば、情報は届かない」といったように。

しかしながら、別に光で情報を得ているわけではありません。

ただ、おそらく速度は「光」くらいという感じです。

そして、そうした情報のネットワークの中にただいて、自分が許容した分だけの情報を受け取っているにすぎないのです。

そうして自分がある意味で消え、ある意味で自分を取り戻した先には「すべて」の中に飛び込んでいるはずです。そこには分離がありません。

名によって縛られる前のすべての中の一つの表現としての具体性に戻っています。

すなわち、分離を前提とし、関連性の中で作り上げられた虚像は消え、分離は無くなり、ただそこにいて、ただ感じているだけになります。

自己中心的な煩悩

僕は物心ついた時から特に欲がありませんでした。とりわけ世間での物欲のようなものはありませんでした。

その分、怒りに満ち溢れていました。

その中でもとりわけ強かったもの、それは変わってしまう己の意識でした。と、同時に終わりへの嫌悪感でした。

せっかく最高の状態になったのに、それを続けることができないこと、ずっと好きでいたいのに好きでい続けられないこと、それどころか好きな気持ちが薄れるにつれて、やがて苦悩の元凶にすらなること、もし好きな気持ちが続いても愛別離苦から逃れられないこと、そうした中で、自分の気持ちとは裏腹に相手が変わってしまうこと、相手が死んでしまうこと、どうしてそういうものに意識が向いてしまったのかということ、そして何より、何のきっかけもなしに自分の意識が変化してしまうことです。

物事が終わる時、自分が把握していた世界が終わり、壊れ、自分の中の同一性が死んでしまうことを意味します。

そして物事が終わるたび、それは何かの始まりになります。

しかしその始まりの瞬間の直前は憂いや恐怖心で終わっています。そしてその始まりにもいつかは終わりがあり、また、同じように虚無感がやってくるような気がしました。

すべてがただ使い捨ての一過性の現象にしかすぎないということ、そしてそれなのに、なぜかそれを手放そうとはしない意識に対する嫌悪です。

気にしていないふりをしても、依然として重要であると無意識で判断し、「その場を楽しむ」ということができないほどにまでなりました。

美しい景色を見ても、頭のどこかでは帰りの時間のことを考えています。「少し急がないと、ガソリンスタンドが閉まる」ということも考えています。

到着するまでは考えていなかった「余計な心配」もたくさん頭に浮かんできます。せっかく到着して美しい景色を目の前にしているにも関わらずです。

意識の中の重要度に沿って重要な事柄の駒を進めると、重要度のバランスが崩れてきます。達成すると関心がなくなっていく、そんなことは常日頃よくあることです。

そして新しく台頭してきた重要な事柄に注力する、そして、また達成と同時に飽きるのです。

そういうわけで、頭で考えて想像した未来とは、いつもかけ離れた現実が展開します。そして概ね、そこに残るのは虚無感です。

他人に決められた「重要なこと」、経験の記憶から「考えた」最良の事柄などたかだか知れています。

自分の意識が変化していくとしても、重要な事柄が変化していくとしても、過去をベースとする「比較による感情の引力」から脱することしか道はありません。

「最高だと思っていた方法論」が通用しなくなっても憂うことはありません。

「最高だと思っていた方法論」によって「最高だった」という記憶に縛られることはないのです。

量子的なアクセスと干渉

わかる人はおそらくほとんどいないと思いますが、わかる人やわかる手前にいる人達もいるかもしれないので、量子的なアクセスと干渉について一応書いておきます。

「情報を得てその中から選ぶ」ということを常日頃しています。

「流行りの曲」のリストを見て、それっぽいものを選ぶというような感じです。

そしてそれは普通の人の方法論であり、普通の人の成功法則です。

ただ、本当は「今流行りの曲」以外にもたくさんの名曲があります。

しかし今流行りの曲に限定することによって、そうしたものと出会う機会を遮断しているとすら捉えることもできます。

ある具体的な事柄に集中すると、その具体性に縛られるというものです。

ただ、具体性をなくすとどんどん抽象的になっていきます。

そうして抽象的になればなるほど、包括する対象は広がっていきます。ただ、具体性がないので、五感としてのこの目で見たり、この耳で聞くことはできません。

で、普通は「何か新しい情報を」と思った時に、マスメディアかインターネットなんかで情報を収集しようとしているはずです。

しかしその「収集」の目線が過去の延長なのです。だから、特に著しい変化が起こることはありません。

ただ、すべてはすべてで、既にあります。

「全てはつながっている」というのとは違います。

「全てはつながっている」という場合は、分離を前提において、それぞれがリンクしているというような具体的な目線でそれっぽく語っているにすぎません。

そうではなく、すべての情報が常にあるのです。

そして、自分がアクセスする(という表現も変ですが)その情報が変化すると、情報の状態が変化します。

いわばバランスが変化するというような感じになりましょうか。

そうしてその変化を具体的に時間とともに意識が解釈すると、目の前の現象として体感することになるのです。

具体的な情報として表れている物事に干渉が起こります。

でも、それはただ受け取っているにすぎないのです。

世の中では物理的な情報のやり取りをしなくても、同じようなことが同時発生することがあります。直接面会しなくても、同調が起こることもあるのです。その情報の伝達は量子的です。

そうなると、自我目線で「世界を動かそう」なんてなことを考える人が出てきそうですが、自我目線で自我の領域にいる限り、そうした場に干渉を与えることはできません。

誰かによって雑草と分類されている何かの草は、その名を僕が知らなくても、目の前で花を咲かせています。

名によって縛られた、名によって覆い隠された「すべて」はそこにも溢れています。

そのすべては様々な表現をしながら、五感を通しても満ち溢れてくるでしょう。

作り上げられた虚像が無くなったその先に。


虚しさの先にある安穏 (雑記第200投稿目記念)

Category:miscellaneous notes 雑記

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