春というものは、嵐が来たり、低気圧と高気圧がすごい頻度で切り替わったり、これでもかというくらいに乾燥したり等々でいろいろと乱れます。
花粉や黄砂等々も飛んだりしていて、それで調子が狂う人も多いでしょう。
ちなみに今、微かに腹が響いています。
微かに腹が痛いのですが、さほど気にしていません。
とにかく少しばかりあえて乱れた形で、つまり乱文的に雑記を書いていこうと思います。
本来、雑記自体には様々な文の隙間の価値があるはずですが、現代においては、人工知能やそれを利用した各種サービスにおいて「雑記こそ無価値」と言わんばかりになっています。なのでそれに対するアンチテーゼ的な、ロック的反抗です。
「仮に雑記的であってもトピックを分割して短くまとめて、何を意味するかを記せば評価してやる」というものへの反骨心です。
毎度同じにこの季節には、「再生」が起こります。
涙が出て起きたり、もしくは、激しい怒りに駆られたりといろいろです。
今年は、発熱でした。
それで終わりかと思ったらそこからの回復において、やはり波があり、激しく怒りが噴射することもあります。どちらかというと、男性ホルモンの活性化を意図しているような気もします。
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娘がピアノを習うということになったのですが、そこで感じることは単に自分がピアノを習っていた時のことを思い出す程度です。
自分は、ヒステリーババアに六年間拘束されていたので、良い思い出は一つもありません。
もし同じようなことが起こったら音速で辞めてもらいます。
ピアノというのは狭い世界なので、コミュニケーションスキルが磨かれる要素が少ないような気もします。なので、ご本人の素の人格に相当依存すると思います。
今まで出会った人たちにおいては、ヒステリー傾向の強い、性が抑圧されたような人が多かったようなイメージがあります。
個人的にピアノというものに対する印象としては、「完璧を気取っているが、完璧っぽいゆえに微妙な楽器」というのが本音です。もちろん素晴らしい演奏家はたくさんいますが、それとこれとは話が別です。
そうした前提があるからか、かなりの腕の人の演奏でないと聴いていられません。
半分くらいは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」が入っています。
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現在の僕は、嵐の大野氏並にやる気がなく、同時に冷徹ですが、一方で、ペットボトルを100回踏みつけるほどの破壊衝動の中、日常のビジュアルバム的要素に一人で爆笑したりもしています。
昼まで寝ていたとしても、夕食後には気絶するというような感じでもあります。
Z会が活性化すれば、女性に関心が向きそうなものですが、女性というものに、男性性を否定する存在としての嫌悪感もあります。
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どのようなものであれ、人からの連絡はたいてい9割の確率で「要求」の要素が入っています。
「これ以上誰か他人のためにリソースを使いたくない」
という気持ちがあります。
それを温存したところで何をするのかと言えば、何もやることはないのですが、要求に応えるということは、基本的に回避しています。
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とんでもないカス客数名がカス具合をフルスロットルにしたので、僕は、完全に何かの段階を脱しました。どうこうしようという意図も生まれません。
色々と考えどころがあります。
利他的に生きるということ自体はある程度良いとしても、それは単に相手の自我を暴走させ、調子に乗らせて、「ゴネる・対応する」という共依存関係が生まれるという場合もあります。
では相手が誰でどのような人であれば、利他的に力を使っても良いのかというところが考えどころです。
基本的には話が通じる人、長い付き合いの人であれば大丈夫だとは思っています。
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冬に比べると、散歩をしていてのどかさを感じることもありますが、天候の変化によって、次の日にはそれが壊れるというのが春です。
体はある程度健康的に動いてくれています。
ただ、僕にはやる気がありません。
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苦(ドゥッカ)というものは、本来「思い通りにならない」ということです。
これを方程式的に考えると
「思い通りになる」という自我的意志がなければ、「苦」は生じません。
そういう意味で
「知らん!」
というものが、ひとつの答えではあります。
ただ、普通に「知らん!」となっている時は、どこかに気にしている要素があったり、場合によっては罪悪感などがあったりするものです。
しかし、その「気にしてしまう要素」自体が、「思考」や「元となる情報」によって生じているわけです。
なので、そうしたものを具に見て、「魔」だと捉えることもひとつの脱出法ですし、五蘊の観察によって現実を見破ることもひとつです。
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夢もやる気もないというのは、ある意味最高地点です。
夢を持ちたい、やる気を出したいということは一切思いません。
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エンターテイメントを提供する施設等々では、良かれと思っていろいろと気にかけてくれるようなサービスがあります。
しかし、個人的にはそれに耐えられない時があります。もちろんその扱いはその世界、その業界では正しく、むしろ評価されるようなことです。
ただ、そんな「耐えられない瞬間」を少し楽しんでいます。
そういうものがビジュアルバム的な要素のひとつです。
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美しい言葉を使いたいと思いつつも、美しい言葉を心がけること自体が、男性性の否定のような雰囲気もあります。
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AI時代こそ、ほぼ確実にAIでは生成できない空間を出すべきですが、その空間にどうやって来てもらうかということが課題の一つになるでしょう。
幸いこの場所には既に「常連さん」がいてくれるので、個人的にその部分は気にしていません。
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やはり毎年このシーズンには、冬の間に蓄積していたものが出ていきます。
芸人の芸を見てリアクションをしているだけの司会・審査員的な人を見て「誰?」となることがあり、それがまたヒゲを生やしていると、ひどく殴りたくなる瞬間もあります。
特に昨年は気の狂れた人に出会うことが多かったので、今回の春は発熱という選択肢が取られたのかもしれないとも思います。
キチガイはたいてい目を細めた爬虫類のような顔をしていました。
やはりある程度男性ホルモンが活性化して暴力性を帯びていないと、変な人が寄ってきますし、相手が調子に乗ってくることもあります。なのである程度の暴力性を帯びることは、防衛本能のようなものなのかもしれません。
変な人は「罪悪感」を刺激しようとしてきますが、暴力性が一定値以上あると、それが通じないことを察知します。
暴力性や殺気というものは、罪悪感をバイパスするということを経験則上知っているからなのでしょう。
なので、一種のバリアのようなものです。
