タグ別アーカイブ: 心理

心理・意識・精神について

一種の誤解

誤解というものは厄介ですが、いつでもどこでも付きまとってくるものです。 「スプリンクラー」と「スクリンプラー」、どちらが正しいかはっきりわかったのは20代後半のことです。コントなどで、「道場六三郎氏」役を「六場道三郎」という名でやられてしまっては頭の中は混乱の一途を辿ります。 洞爺湖につられて「トーベ・ヤンソン」か「トーヤ・ベンソン」

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浪費

興奮しやすく突飛な性格の人々にあっては、最初の言葉や行為はほとんどいつも彼ら本来の性格を特徴つけるものではない(それらは環境によって示唆されたのであり、いわば環境の精神の模倣である)。しかしそれらはたしかに語られ、なされたのであるから、その後に続く性格に基づいた本来の言葉や行為は、しばしば調停や、回復や、再忘却などに費やされざるを得な

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美徳に反対のことを言うことが禁じられる場合

臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす。そして無分別な人間は、同情に反対のことが言われると憤激を示す。 曙光 289 先月、「いろんなことに挑戦していきたい!」「どうしてでしょうか?」という問答について少し触れました。「挑戦したいからです」への挑戦状ですね。 「臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言う

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二人の友人

友人同士がいた。しかし彼らは友人ではなくなり、どちらの側からも同時にその親交を解いた。一方は、自分が誤解されすぎたと思ったからであり、他方は自分が知られすぎたと思ったからである。―しかし両方共その際間違っていた!― 彼らのうちどちらも、自分自身を十分には知っていなかったからである。 曙光 287 ニーチェは時折、古典落語のような事を言

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自我はどこでおしまいか?

大ていの人々は、自分たちが知っている事柄を引き立てるものである。まるで、知っていればそれがすでに自分の所有物になるかのようである。自我感情の所有欲には切りがない。 曙光 285 前半 自我は関連性と言うもので成り立っていますから、というような話を先日、「自我は一切を持とうとする」というところで触れたどころか何度も何度も言っているような

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新しいものを古いと申し立てる

多くの人々は、新しい出来事の話を聞くと興奮するように見える。彼らは、新しい出来事がそれを先に知った人に与える優越を感じるのである。 曙光 284 新しいギャグほど寒気を催すものはありません。歌モノやリズムネタ、一発芸など、小学生が真似をするようなものは絶望的なはずですが、大の大人になってもそのようなことを面白いことだと思っている人がい

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実践的対処法 意識を傍観し感情をその場に置き去る

いきなり「自分というものは錯覚ですよ」といっても意味がわからないどころか、おそらく理解に向かおうとすらせず、すぐに匙を投げてしまいます。うつに対する実践的対処法としては、手始めに「意識を傍観し、感情をその場に置いていく」という手法はいかがでしょうか。 いかがでしょうか、ということはどういうことでしょうか。いわば半分仮止めのような状態で

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意識の分野の解消法その2 なるべく関係を謝絶する

拒絶と謝絶というと少しのニュアンスの違いから大差があります。どちらも相手からの要求を拒むことですが、抵抗感のニュアンスが少し異なります。対象が物であれば、相手、つまり物から何か要求されているわけではありません。では誰に要求されているのか。 それはアイツこと自我です。相手は相手として独立して存在していようがいまいが、認識結果から意識の中

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意識の分野の解消法その1 抵抗感の破壊

ある内容をその属性の外部から見てみるという状況が訪れない限り分からない、ということがあります。いつまでたってもわからない、という場合は、俗にいう井の中の蛙のようなもので、ある小さな世界の中にいるからこそ客観視ができないというものです。 それは、「外の世界に飛び出すのがいいぞ!」というようなものだけでなく、事実真偽は傍からでないと判断で

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親切な記憶

高位の人は、親切な記憶を仕入れるのがよい。すなわち、ひとりひとりについて、一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにすることである。それによって彼らを快く依存させることになる。人間は、自分自身に対しても同じような取り扱いができる。 曙光 278 前半 「一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにする」 この手法はいたるところで

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暖かい徳と冷たい徳

 冷静な大胆さ、毅然とした態度としての勇気と、熱烈な、半ば盲目的な勇気― 双方がひとつの名前で呼ばれている!しかし、冷たい徳は暖かい徳とどんなに異なっているだろう! 曙光 277 前半 おそらく昔から、誰よりも冷徹だと自負しています。今では怒りもしませんが、切り捨てという意味では、切り替えが早いと思います。特にビジネスシーンではこの要

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種族の純化

ニーチェは、ナチス的だという偏見がありますが、ナチスがニーチェを利用しただけで、彼は全然ナチス的ではないどころか、それを批判していました。ニーチェの妹がナチスにハマって、ナチスのイデオロギーに利用されただけです。 いまでもナチスと同じようなタイプの人がいますが、「自分が嫌いだと思っている人の状況によって、自分の気分が変動するなら、自分

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無条件の忠誠の誓い

車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。 「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。 だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。

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優美さがない

彼には優美さが欠けており、それが分かっている。おお、何と彼はこれに仮面をかぶせる術を心得ていることだろう! 曙光 266 「イメージ作り」という事を商売にしているような人がいます。ビジネスの場において、好印象を得れるようにその人をプロデュースするといったことのようです。 声のイメージなどもプロデュースすると謳っていましたが、当の本人が

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「主観」の未知の世界

太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭 人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません

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力の魔物

必要でもない、欲望でもない―否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。― それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福に

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従属的な人々のお守り

支配者に従属することの避けられぬ者は、恐怖感を起こさせて支配者を抑制するような何ものかを、例えば正義とか、率直とか、毒舌とかを所持するべきである。 曙光 260 図体だけ見れば、勝てそうにないようなものでも、その対象が意識を持っているようなもの、つまり生命体であれば、意識に働きかけることによって物理的な限界を超えることができます。 社

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先取りする人々

詩人的な性格の人々を特徴づけるもの、しかし危険であるものは、彼らが余すところのない想像力である。起こるであろうこと、起こるかもしれないころを先取りし、先取りして享楽し、先取りしてまねき、そして待ちかねた出来事と行為の瞬間になると、もう疲れているような想像力である。 曙光 254 だいたいの事に予想がつくようになると、だんだん何事も楽し

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考慮せよ

罰をうける者は、行為をしたものともはや同じではない。彼はいつも罪を贖(あがな)う山羊なのである。 曙光 252 「本を読めば、本を読む前とは別の人間になる」、よく言われるキャッチコピーのようですが、確かにある経験をする前とした後では、当然に別の意識を持っているので別の人間になります。 本を読む前と読んだ後では、意識の中に入っている情報

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身近なものがますます遠くなるわけ

家族がいる人には、「家族」というものは嫌でも身近にいてしまいます。離れて欲しくても近くに寄ってきます。 「家族には寄りつかれる」という属性を持っていますが、家族だからといって気が合うかどうかは別問題です。ほとんどの場合は気が合わないでしょう。気が合いすぎるというのも、自分よりも子どもや両親などを優先してしまう要因になるので、適度な距離

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いわゆる「自我」

いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性で

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現実的なものを喜ぶ

評価は評価として「現実的なもの」として扱われますが、その評価からの喜びは、頭の中で「作り出しているもの」です。喜びも作り出しているのだから、苦しみも頭の中で作り出しているものです。 温泉につかるように直接心地良いというわけではありません。温泉での心地よさも、結局は体からの信号を感じているだけですから、さほど変わりありません。 しかし、

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二つの方向

もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものをも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。― これが、認識の最も一般的な歴史である。 曙光 243 一般的な「物の把握」ならばそのような形になりそうですが、視覚情報は光の情報です。慣れれば立体感

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恐怖と知性

恐怖心を抱く度合は、知性のひとつの分度器であるから。そして、しばしば盲目的な怒りに身を委ねることは、動物界がまだ全く近くにあり、それが再び確かな地歩を占めたいと思っていることのしるしであるから。曙光 241 抜粋 ある対象について、それがうまくいくか、どのようなものなのか把握できていれば、大半の恐怖心は和らぎます。「それがうまくいくか

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道徳学者への忠告

われわれの音楽家たちは大きな発見をした!興味を引く醜さは、彼らの芸術でもやはり可能なのである! 曙光 239 冒頭 「フックとしての醜さ」という手法が取られるようになりました。違和感を覚えさせることによって、興味関心を惹くという手法です。怒りやがっかりすら使われるようになりました。アイドルにボクシンググローブを付けさせるような手法です

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名声を憚る

甲。人がその名声を避けるということ、彼に讃辞を述べる者を故意に侮辱するということ、讃辞を憚って、自分に関する判断を聞くのを憚ること。― これは見当たることだし、よくあることだ。― 信じようと信じまいと! ― 乙。それは明らかだし、当然のことだ!一寸だけ我慢したまえ、高慢な貴公子殿! 曙光 224 「憚る(はばかる)」は、差し障りをおぼ

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「良心的」な人々

最も厳しく良心的であることに最も多くの価値を認めるのはどういう人間であるか、諸君は注意したことがあるか?多くの悲惨な感覚を意識し、自分のことを自分で心配し、他人を恐れる人々、その内心を出来る限り隠そうとする人々、― 彼らは、あの良心的であることの厳しさと義務の苛酷さによって、他人が(ことに部下が)それによって受け取るに違いない厳しくて

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讃辞の中の復讐心

讃辞、つまり褒めの言葉には、皮肉に代表されるように同一コミュニティに属しているかというような確認の属性から、お世辞のように煽てて物買わせようというもの、ただの羨望からの賞賛といった具合に、ただ単には測れず、一律には論じ得ないという属性があります。 皮肉の中には、相手の反応で相手の教養高さを測るというものもありますが、タダ単なる攻撃の場

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急速に軽蔑される手段

早口に沢山のことを口にする人間は、ほんの短期間交際しただけで、たとえ彼がもっともなことを口にするとしても、われわれの尊敬を異常なほど大きく低下させる。 曙光 225 前半 早く多くしゃべることは、マイナスだとよく言いますが、早く多くしゃべることには、その奥に様々なタイプの動機があります。マイナスになるのは印象ですが、間を埋めて、相手が

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病人の認識について

病人に気を使いすぎると、かえってその人の治りが悪くなるという場合があります。病中のままの方がその人にとって都合のいいケースがあるからです。 そういう考え方の原因は、人にもよると思いますが、特に幼少期の記憶があります。学校はサボれる、テレビは見放題、ジュースとまではいかないがスポーツドリンクは買ってもらえる、周りが優しくなる、というよう

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