内容の解説は無用
内容の解説がありがたい場合もあれば、「内容の解説は無用」という場合もあります。 そんな内容の解説は無用であるという場合の最たるものは、ユーモアや笑いの類ではないでしょうか。 そうしたものは、解説された瞬間に芸術性、侘び寂び、奥ゆかしさが消えるというのは少し前にも触れていましたが、地域文化的な差ということなのか、地元京都
廃物、もしくは廃人のイメージ
廃物、もしくは廃人のイメージに一種のかっこよさを感じ、退廃的な雰囲気に酔っているような感じの人もいます。 別に完全燃焼したというわけでもないにもかかわらず、その廃人感に一種の美徳さえ感じ、そこに僅かばかり含まれるような芸術性と同化することで、自己陶酔しているような感じです。 まあそんな人を観察してみると単に何かの資格試
人間を咀嚼する大地の口
人間を咀嚼する大地の口 ― それは現代においては、インターネット空間、そしてその入口として用いられている、かなり広範囲の層にまで広がったスマートフォンの画面かもしれません。 混乱、意識の散らかり、気力の不足、それらの要因を静かに観ると、気力を奪い取られているという構造があるように見えます。 実際に役立つ部分と比較すれば
べつに禁止されていたわけではないが、めったに近付かなかった
「べつに禁止されていたわけではないが、めったに近付かなかった、という対象は意外にも多かった」というようなことを思うときがあります。 わかりやすいもので言えば、僕は歓楽街にも行きませんし、街で知らない異性に声をかけたこともありません。 その理由は、2つの方向から示すことができます。ひとつは、「行かなかったり、しなかったり
何か呼びかけてくる声を聞く
ふっと何かが呼びかけてくる声を聞くことがありますが、そんな声もまた自分の意識の奥底から起こる声であるため、とりわけ何かすごいものというわけでもありません。 しかしながら、リラックス度合いに応じてそうした声の質は高く、逆に混乱していたり、ぼーっと軽い催眠状態に入っているような時に聞く声はあまりロクでもないものであったりも
ゴミを捨ててある場所にひきつけられる
今ではすっかりきれいになりましたが、地元においても無法地帯的にゴミ捨て場となっているような場所がちらほらありました。 高校生くらいのときから京都でもホームレスの方がどこかに追いやられたり、そうした無法地帯的なゴミ捨て場も無くなっていったりしました。 小中学生の頃となるとそうしたゴミ捨て場は、ある種ワクワクスポットであり
多少はプロの心境に近づきはじめたしるし
プロというものを定義するにも様々な尺度から考えることが出来ます。一般的にプロと言うと「それ一本で食えるか否か」というような点で語られる事が多いですが、プロの心境ということになると、それそのものに何かしらの楽しみや価値や喜びを見出しているかどうかという点で捉えることもできそうです。 根本的に小学生から脳筋体育会系とは合い
不可能にかけた、一瞬の緊張
日常少なからず「き、緊張するなぁ」という瞬間があると思いますが、そんな時は「自転車で走っていて目の前に段差があり、もうどうにもかわせないという時に、段差の衝撃を受け入れるような感じ」でやり過ごすことができるはずです。 そのような感じで、「次に起こりうること」を受け入れていた方が変な体制も取らずに済みますし、変な体制で突
カメラ好きの一つの特徴
「笑う月」の中で安部公房氏はカメラ好きの一つの特徴を次のように述べています。 「マニヤがカメラに求めているのは、単なる実用主義的な現実ではなく、むしろ空想なのである。シャッターを押すことで、世界の部分を手に入れる手形にサインをしたつもりになれる。その瞬間の自己欺瞞がたのしいのだ。当然のことだが、どこか意識の片隅には、そ
期待を失わずにいられる空想家
期待ということはある意味での確信がないということであり、空想というと絵空事という感じなので「期待を失わずにいられる空想家」という表現はあまり適していませんが、概ねそのような感じで過ごすと毎日が爽快になります。 今お金がないとして、にっちもさっちもいかないという状態だったとしましょう。しかし、一応可能性としては、明日には
現代の精神状態の反映として
現代の精神状態の反映としてわかりやすいのが、音楽や映画などなど、文化面において「何が流行っているか?」というような点になりますが、最も如実に表すもののひとつが「笑うポイント」であると昔から思っています。 先日たまたま知人の教え子である大学生たちとお話をしましたが、一番感じてしまったジェネレーションギャップは、強烈さへの
操作が面倒な高級機
基本的には機能がどんどん追加されていくというのが機械の進化のあり方であり、そのうち限界を超えて「操作が面倒」ということになっていって、次には「簡単操作な方が流行る」ということがよく起こっています。 Wordが基本になれば、パソコンとプリンタという組み合わせが主流になるだろうと思いつつも、結構しばらくの間、「ワープロ」が
フィルムの使用量は信じがたく低い
安部公房氏の笑う月が刊行された昭和五十年の時代においても、「フィルムの使用量は信じがたく低い」と表現されるほどに、日本においては、カメラの所有数に比べてフィルムの消費量は著しく低いということのようでした。 現代においてフィルムカメラを使用するということは、もはやマニアの域に達していると言わざるを得ません。 デジタルカメ
仕事の上で欠かすことの出来ない道具
職種によって仕事の上で欠かすことの出来ない道具はバラバラだと思いますが、いわゆる七つ道具的なものはどの業界にでもあるのではないでしょうか。 勤め人時代から今に至るまで、僕にとっての七つ道具のうちの2つ乃至3つは、青ペンもしくは緑ペンとコピー用紙、そしてクリップボードです。なお、青ペン・緑ペンはボールペンのように細いもの
めったに体験を語らない
情報量の多さに関して、それが量としてばかり計算され、要約されていれば浅く、多ければ深いというような推測から、その実際の深度は問われていないということなのか、体験もしていないもの羅列すれば良いという感じになっていたりします。 すなわち実際の体験などどうでもよく、「情報量」さえ多ければそれが評価されるというような感じです。
滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さ
滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さこそが青春たるものであるということのようで、狼狽えること無く突き進むことができるその衝動こそが成長の原動力であるという感じになるのでしょう。 まあそうした滑稽を自覚できない一途さや、自分を客観化できない視野の狭さ自体は別にいいのですが、その場限りならばそれほど大し
生理的に嫌だったせいだ
少なからず生理的に嫌なものはあると思いますが、ある程度の慣れによってそれら生理的に受け付けないようなものが多少平気になったりもします。 自身の慣れから慣れていない人が感じるであろう生理的な不快感というものを見落とすということもありますし、客商売において「自分は大丈夫だから」ということで放置していたり気付いていなかったり
絆という大きな束縛
絆という大きな束縛を解き放つこと、それが苦しみから脱することのポイントとなります。 サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節、第五節の「わな」をヒントに、大きな束縛について触れていきましょう。 本日で、養子のうさぎが亡くなって二年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。昨年は、「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ
砂糖などの貴重品
砂糖はかつて貴重品であり薬用の位置づけにすらあったものですが、人工甘味料の利権の関係からか、やたらめったらに非難される対象となっているような風潮があります。 「砂糖を断ってみた」というような研究を見ても、結局代わりに果物を摂っていたりして「何じゃそりゃ」ということを思うこともありますが、砂糖のみならず炭水化物そのものを
ぼくは狼狽した
「狼狽した」という経験がここ数年ほとんどありません。 「解決しておいたほうがいいだろう」と思うような問題はちらほら起こりますが、瞬間的な感情は生じても、感情に振り回されるということがないので、淡々と物事を進めて終わらせてしまうという感じになっています。 もちろん以前からそうだったというわけではなく、アランが「考えている
ずぶの素人よりはましだろうと
ずぶの素人よりはましだろうということなのか、自称コンサルタントの方の中には、名刺の裏の業務案内に「節税のご相談」ということを平気で書いていたりします。もちろん税理士資格を持たれているわけではありません。 無償でも税理士法違反になるということを知らないということになりますが、そのあたりを確認もせずに平気で名刺に書くのだか
蓄音機という牢屋
製品の開発において「とりあえずベータ版で出してみて、不具合報告があれば修正する」とか「後々機能を追加する」というような方針の方が、投資回収期間の関係で収益が上がるという感じの風潮が蔓延しています。 そうした収益性から起こったようなベータ版の風潮と、近年のアプリケーションのアップデートのあり方などでユーザー側にもその感覚
ただ心配なのは音色である
聞こえる音の範囲というものは人によって異なっているようで、本当に周波数レベルで高音域が聞こえていないということもありつつ、「目には映るが見えていない」のと同様に、注意が向いていないためにその音が鳴っている事自体に気付いていないという場合もあります。 年齢とともに高音域が聞こえにくくなるということはよく聞きますが、高音域
咎められた記憶
多少表現は異なれ、「言われるうちが花」「叱られているうちはまだいい」などと言われることがあります。 「褒められて伸びるタイプなんで」などと言いつつ、自己評価が下がるからと説教されることを予め防ごうとするような人がいる中ではありますが、やはり言われているうちはまだ潜在的な可能性に期待を持ってもらえているということになるの
祖父が吠えた
中学生の時、ひとつ上の学年の人たちに悉く嫌われ尽くした僕は、かばんに鉄板を入れて武装し、程よい緊張感の中、登下校をしていました。 「日本は治安が良いというのは、嘘である」 と思っていました。 まあ鉄板についても「恐い」というより「面倒くさい」というのが本音であり、「いざというときのために」というのは正しいですが「一気に
レコードを置き、針をのせた
僕が自発的にレコードを置き、針をのせたのは、高校生くらいの時だったでしょうか。 基本的にはCDで、微妙にカセットテープ世代でもあり、思春期にMD、デジタルオーディオプレーヤーといったものに変化していった世代ではありますが、「ベースをくれた英会話の先生のお兄さん」が使っていたパワーアンプを自宅に持って帰ってきた際、家にあ
催眠的な支配力
「催眠によって支配力を得たい」というのは、誰しもが一度は考えるようなことなのかもしれません。そのような感じで、心理学や催眠研究などはどちらかというと邪念を持つ人に好まれる傾向にあると思っています。しかしながら、そうした目的を持つこと自体が結局外の世界をコントロールしないと自分は安心できないのだという自己催眠をかけていく
なるべく意識しないように努めて
デジタルデバイスの使用を控えるよう「なるべく意識しないように」努めてみたところ、意識はまとまり、また、顎の筋肉がほぐれてきました。 普段はガラケーしか使っていませんが、自宅には一応iPadやiPhone、デスクトップPC、ノートPCなどがあり、もちろんインターネットに常時接続可能な状態になっています。一度それらをフルで
自身の方法
思えば「多数決を信用しない」ということの原点は、幼稚園児のときの思い出に遡ります。 右と左の区別において、僕以外の全員が間違った方向に進み、僕だけが正しい方向に進みました。その理由は簡単で、かなり早い時期から自分の手のほくろを目印に左右を区別していたからこそ、正しい方を選ぶことができたということになります。 たったひと
論理では辿り得ないその迷路
哲学というものは日常の当たり前に「んあ?」と疑問を投げかけるものというのが基本となります。なので「人を幸せにしない」というふうに捉える人が多いということになります。 日常の当たり前のうち、社会的な「当たり前」に疑問を投げかけると倫理学等々になりますが、もっと誰にでも適用されるような自然で密接な部分となると哲学となります