カテゴリー別アーカイブ: 曙光(ニーチェ)

快活さをそしる者

人生に深傷を負った人間たちは、一切の快活さに疑念を抱いた。快活さとは、いつも子供らしい、子供っぽいものであって、死に瀕している子供がそのベッドでなお玩具をかわいがるときのように、それを眺めると、あわれみと同情しか感じえないような愚かなものを漏らしているかのように。 曙光 329 前半 快活さをそしる者ということで、少し路線は外れますが「快活さが削がれる瞬間」についてでも触れていきます。最近、怒りが生じるわけではないのですが、一気に快活さが失われるケースがあります。 何かをやっている最中に横槍が入ったりした時、快活さ

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理想主義的な理論は何を推測させるか

理想主義的な理論に最も確実に出会うのは、ためらわない実行者たちにおいてである。なぜなら、彼らはその理論の光彩を自分の評判のために必要とするからである。彼らは、その本能によってそれを摑み、その際全く偽善感を持たない。 曙光 328 前半 自己啓発洗脳組も、ブラック企業営業マンも、胡散臭いコンサルタントも、新興宗教と同じくわざわざ人を騙している自覚がない場合があります。 自分自身ですら自分自身の意識が作り上げた虚像に騙されています。 それが「なんでもできる自分」なのか、「成功者(笑)」なのか崇高そうに見える企業理念なの

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最後の寡黙

少数の人々は宝物を掘り探す人のような目に遭う。彼らは他人の魂に隠されているものをたまたま発見し、それについて知識を持つ。これはしばしば耐えがたい!われわれは事情によっては、生きている人々や死んだ人々をある程度までよく知り、その内心を突き止めることができるが、彼らのことを他人に語るのは苦痛となる。われわれは言葉ごとに無分別になりはしないかと懸念する。― 最も賢明な歴史家でさえ突然無言になることが、私には想像できる。 曙光 457 事実傍から他人を観察すると、その人のことがよく見えるものです。 自分と同じ特性を持ってい

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ひとつの寓話

今年に入ってからですが、久しぶりに手塚治虫氏の漫画を読みました。 もう10年以上も前に一度読んだ作品ですが、改めて読んでみるとやはり今の「後々のキャラ化のグッズ化」を意図していない純化された作品だけに、作者の意志がよくよく染みこんでいると感じました。 手塚治虫氏の「ブッダ」 そんなことで読んだのは手塚治虫氏の「ブッダ」です。 もちろん手塚氏ならではのブッダですが、仏教に関する下手な本よりもよくよく伝わるのではないでしょうか。 核心に迫るポイントはぼかしてありますが、わからなくてもせめて感じる必要があるポイントだけは

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自分の環境を知る

われわれは自分のいろいろな力を評価することはできるが、われわれの力そのものは評価できない。環境はこの力をわれわれに対して隠したり、示したりするばかりではない。― それどころか!環境はこの力を大きくしたり、小さくしたりする。われわれは自分を変化しうる量とみなすべきである。この量の能力は、恵まれた環境の場合、おそらく最高度の能力に匹敵する事が出来るであろう。それ故にわれわれは環境を熟慮し、その観察に当って、いかなる勤勉もいとわないようにしなければならない。 曙光 326 向いていないことを仕事にすると、その能率は著しく

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成長しつつある徳

「徳が高い」「功徳がある」というようなことを言語情報として見聞きしても、何の説得力もありません。「あの人は徳が高いことで有名だ」というような情報ですね。それを第三者から聞かされた場合などです。 功徳といったようなものは、そういう一種のプロモーションをしても、実際に会ったりしてしまえば、その人からぷんぷん情報が出ていますから、取り繕うことはできません。 簡単にいえば、いくらライターが新曲の事をあれこれ感想や過去の楽曲との対比のような記事を書いても、その曲を実際に聞いた時にそのような言語情報など何の意味も成さなくなるの

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離れて生き、そして信じる

その時代の預言者や奇蹟を行なう者などになるための手段は、今日においてもやはり昔と同様である。すなわち、僅かばかりの知識と若干の思想と極めて多くの自惚れとを抱いて、離れて生きるという事である。 曙光 325 前半 「離れて生き、そして信じる」ということで苦行や神格化についてでも触れていきましょう。 少し距離を起き、実態を悟られないままに、「すごい人」を演じていたほうが、相手は自分を神格化してくれる傾向にある、というのは太古の昔から変わりないようです。 ということで、苦行と神格化です。 苦行がモテる 社会ではなぜか苦行

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俳優の心理学

自分たちが演じる歴史的人物は演技をしているときの自分たちの気分と実際に同じであったと錯覚して、偉大な俳優たちは幸福になる。― しかし彼らはその点でひどくまちがっている。彼らが千里眼的な能力と詐称したがるその模倣力と推測力は、まさしく、態度や、声音や、眼つきや、一般に外面的なものを説明するのに十分な深さにしか到達しない。すなわち彼らから素早く摑み取られるのは、偉大な英雄や、政治家や、軍人や、野心家や、嫉妬する人間や、絶望する人間などの魂の影なのである。彼らはこの魂の近くにまでは突き進むが、その対象の精神の中までは突入

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第一の天性

現在われわれの教育されている通りでは、われわれは最初に第二の天性を手に入れる。世間の人々がわれわれを成熟した、青年に達した、役に立つと呼ぶとき、われわれはそれを所持しているのである。若干の少数者たちは、それの被いの下でその第一の天性が成熟したまさにそのとき、いつかこの皮を投げ捨てるのに十分な蛇である。大ていの者にあっては第一の天性の芽は枯死する。 曙光 455 今回はタイトルが「第一の天性」にも関わらず、第二の天性についての内容になります。「天性の才能」と言われる時の天性ですが、これには「第一の天性」と「第二の天性

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空が暗くなる

晴れやかなところにいると気分も晴れやかになるように、どんより曇り空だとなんだか感傷的になったりする時があります。 陽の光はそれほどに気分にまで影響したりしますが、どんより空が暗くても、それはそれで味わい深かったりします。小糠雨などは絵になります。 といっても、空が暗くなり気圧が下がってくると、心境は少し変わってきます。思うままに情緒だけを味わえればいいのですが、どうもそうはいかないようです。実際に体が反応してくるので致し方ありません。 低気圧で起こる痛み 18歳くらいの時に左肩を痛めてから、低気圧がやってきた日には

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多分医者なしで生きる

病人は、医者にかかっているときには、自分で自分の健康に気をつけているときよりも軽率であるように私には思われる。前者の場合、一切の指令されたことに厳密に関係していれば十分である。後者の場合われわれは、あの指令が目指すものすなわちわれわれの健康を、医者から勧められてするよりも一層良心的に注目し、はるかに多くのものを注意し、はるかに多くのものを自分に命令し、禁止する。あらゆる規則は次のような効果を持つ。すなわち規則の背後の目的から注意を逸らさせ、一層軽率にさせることである。 曙光 322 前半 大きな会社にありがちですが

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無邪気の危険

無邪気な人間はあらゆる点において犠牲になる。彼らはその無知のために、過度と過度を区別したり、時期を外さずに自分自身に対して用心したりすることができないからである。そこで無邪気な、すなわち無知な若い夫人は、愛情を頻繁に享楽することに慣れ、その夫が病気になったり早く衰えてしまったりする後年には、享楽にひどく不自由するのである。 曙光 321 無邪気といっても、「こっそりくすねてやろう」というような、邪な感じが無いだけで欲に満ちている場合がよくあります。しかしあまりその欲は社会では問題視されません。無思慮、無分別、無知な

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傍白(わきぜりふ)

この本のような本は、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。人は頭を突っ込んでは、いつでもまた引き出すことができ、月並みなもの何もあたりに見当たらないに違いない。 曙光 454 このブログのようなブログは、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。 ということで、傍白(ぼうはく)、わきぜりふと銘打って、いつもとは少し違う趣旨でいきましょう。 何か散文のような、普通ならツイートするかのようなことを、時

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天気について

天気が非常に異常であって、当てにならないと、人々もお互いに信用し合わなくなる。彼らはその上改革好きになる。なぜなら自分たちの習慣を脱しないわけにはゆかないからである。そのために専制君主は、天気が道徳的であるすべての地方を好む。 曙光 320 雨の日は営業に出ずに資料の整理などをした方がいい、と言われることがあります。それ程に天候によって人の気分などコロコロ変わってしまいます。晴れ晴れとした日には気分も爽やかになり、雨が降るときには少し感傷的になったり、少なからず実感があるようなことです。 コロコロ変わる天気 「コロ

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歓待

歓待の習慣の意味は、他人の敵意を麻痺させることである。もしわれわれが他人をもはやさしあたって敵とは感じない場合には、歓待は減る。歓待は、悪意をもったその前提が盛んである限り、盛んである。 曙光 319 歓待(かんたい)は、「手厚くもてなすこと」ということで、「歓迎!」と「接待!」だということですね。まさに「他人の敵意を麻痺させること」が主たる目的になっています。つまり歓待は誰かの敵意を麻痺させて、身を守ろうとするような意味があります。 他人の敵意を麻痺させる 知人の不動産屋なんかは、土地の買収の際に不動産オーナーを

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体系家に注意!

体系家のお芝居というものがある。彼らは体系を仕上げようと思い、それの周りの地平線を完成するので、彼らは自分たちの弱い性質を強い性質の様式で登場させることを試みざるを得ない。― 彼らは完全な、一様に強い性格の人々の役を演じようとする。 曙光 318 一旦体系的に学んでしまうと、その体系からはなかなか抜け出せないものです。自分が教えられた時のように、自分が学んだ体系の軸をずらさないように、その範疇を超えるやり方は排除するという癖がついてしまいます。 体系とは、ある一定の原理をもとに全体的に統一され整理された知識の全体像

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夕暮れの判断

終わって疲れているとき、その一日の仕事や、一生の仕事を反省すると、だれでも普通は憂鬱な観察をするに至る。これはしかしその一日や一生のせいではなく、疲れのせいである。 曙光 317 前半 朝は思考が働き、夕方は感情が働く、というようなことがよく言われます。確かに頭は午前中のほうが働きます。しかしパソコン作業は深夜のほうが捗ります。 「なぜなのか」ということを考えた時に、数日にわたってなぜなのか観察してみることにしました。 生理的なことは知りませんが、個人的には「物音がしない」ことと、誰かがやって来て邪魔をされる確率が

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弱い宗派

相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者にやられてしまう、ということがたまにあるでしょう。 「優秀な人材を仲間に入れようと思ったらすぐに去られた」とか 「味方にしようと思ったらその強者にボコボコにされ、組織の結束力がボロボロ

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放棄する

その所有の一部分を放棄し、その権利を断念することは、―もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。 曙光 315 何でもかんでもですが、「所有すれば喜びがある」という点にだけ着目している場合があります。しかし、所有すれば憂いがあります。 喜びはその場は文字通り喜びですが、維持継続したい、失いたくない、またもう一度味わいたい、などなど、たくさんの「気になること」が増えていきます。 「喜びがあるんだからいいじゃないか」といいますが、そんな喜びはいずれどこかに消えてしまう喜びです。いや、喜んだと思

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思索家の社会から

生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半 思索家とは、もちろん思索する人を意味し、つまりはずっと何かを考えているような人です。思いを馳せ、考えて答えを探索する人というような感じです。その奥には、やはり知的探究心があり、知性への欲

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もはや望ましくない友人

その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う所には行かないことにしているからです。 特にそこに行って話すことができるのならば向かいますが、自分を楽しませようとするような遊びで、しかも楽しめないようなものは断っている、というような

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忘れっぽい人々

情熱が爆発するとき、夢や狂気で空想するとき、人間は自らと人類との前史を、すなわち、野蛮な歪んだ顔をもった動物性を再発見する。 曙光 312 序文 先日、自分より少し若い方とお話した時に、「メモをとることを忘れて商談がご破綻になった」というようなことを聞きました。それは体育会系同士のやりとりなので些か厳しすぎるだろう、ということも思いますが、「忘れるわりに対処もしない」という点をつかれたのかもしれません。 忘れること自体は良いことでも悪いことでもありませんが、意識の中で優先度が下がってくる、ということは実際にあること

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いわゆる心

一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。 そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。 ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ(記号、意味されるもの)などを語り出しますが、いずれにしてもそれが一致しようが、持っている観念が違うので、全く同じというわけには行きません。 同じ話を違う人にしても、各々が持つ印象は異

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善良な人々

人付き合いはしてもいいですが、せめて善良な人とだけ付き合ったほうがいいでしょう。 世の中には、悪人だけでなく、首を傾げたくなるような「勘違い野郎」がたくさんいますから、人と付き合うとしてもそのような人と絡んではいけません。絡むとしてもその人で遊ぶ程度で十分です。 胡散臭いコンサルが偉いに人になりたくて、やたらとうんちくをたれてきても、その人で遊ぶくらいの感じにならなくてはなりません。 胡散臭いコンサルによるウンチク →「はい、コンサル料」 聞いた話ですが、新しく起業したての若手の方に、胡散臭いコンサルがウンチクをた

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恐怖と愛

恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いている。その際思い違いすることがあっても、それは愛にとってはひとつの喜びであり、ひとつの利益である。― そこで愛はそうするのである。 曙光 309 人は時に動物よりも人間が尊いとし、特定

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