日本語の音素の誤解

日本語は発音の数に関わる音素が少なく、英語は多いので聞き取りや発音のために早いうちから聞き分けられるようにしたほうがいいということが語られることがあります。

まあたいていは英語教育を事業にしているようなところが強調していたりするのですが、「日本語は音素が少ない」というのは誤解であり、「もっと日本語をしっかり見つめてください」と言いたくなってしまったりします。

日本語の音素、つまり母音や子音などは概ね23程度で、音の数は、50音の基礎の清音に、濁音や半濁音、拗音をつけたもの程度しかないと考えられたりしています。外来語の影響を受けたものを除くと107か108程度、外来語由来のものを合わせても130ちょっとであると考えられています。

しかし、それは対象を「標準語」にしているからというだけであり、「それだけでも通じるが本来はもっと多い」というのが本当のところです。

例えば身近なところで言えば、変なおじさんの「なんだチミはってか?」には、th系の音素があります。

さらに、関西には「ぜ」が「で」に近い発音の地域もあります。

その地方出身の上司が発音する「全然」は「then then」でした。

また、「こら!」と叫ぶ時の「ら」は、地方的特性や場面の雰囲気によって「L」っぽい時もあれば「R」っぽい時もあるのです。

さらにこれは中国語の先生が言っていましたが、香港の表記である「Hong Kong」の「ng」のこもり方を捉えるには、関西弁の関大(かんだい)と関学(かんがく)の「ん」の違いを捉えるとわかりやすいということのようです(関学のときにはちょっと鼻がつまります)。

さて、関係あるような無いような話ですが、標準語はあまり混同を避けようとせず、関西弁は可能な限り区別をつけるというような特性があると思っています。

例えば全く使わないこともないですが、「ゆうべ」という言葉は京都ではあまり使いません。

「ゆうべは眠れなかった」と言われると、コンマ5秒程度「夕方」が想起され「ああ違う。昨夜のことか」となってしまいます。それが不快であるため、関西、少なくとも京都では「昨日の晩」といった言い方を好む傾向にあると思っています。

もちろん朝方に対する夕方であり夕の始まりが夕方で、夕が夜ということはわかりますが、夜なら夜と深夜で印象を変える事ができますが、「ゆうべは眠れなかった」という言葉で夕が想起されると早いうちの夜を思い浮かべ「眠れないの対象は深夜ではないのか」という気持ちが一瞬起こってしまい、適切ではないというような印象を持ってしまいます。

なぜ関西は可能な限り区別をつける傾向にあり、ゆうべという言葉を避けようと思うのか、というところについては、マクドナルドをマックではなくマクドと言い、ファイナルファンタジーをエフエフではなくファイファンというところからも垣間見れるはずです。

それぞれ公式にはマックやエフエフということになっており、マックシェイクという商品まであるのに、マクドと言います。理由は別の投稿でも触れましたが、前者はマッキントッシュ、後者はフロントエンジンフロントドライブとの区別がつかないからです。

ということで、音素の解析のようなものにしても対象を「標準語」にしてしまうと、それくらいに「区別の少ない言語」を対象としているということになるため、「英語が得意」と言っている人たちが日本語は発音の数か少ないという判断をする際に誤解が生じるということにつながると思っています。

端的には、「あなた達に見えている日本語は、汎用性のために簡略化された日本語であり、本来はもっと深い」ということになります。

そうなると日本語の定義の問題になります。何をもって日本語の範囲とするのかというようなところです。

全ての方言を知っているわけではないため、正確な音素の数はわかりませんが、国内の方言を合わせればたくさんの発音があることはすぐにピンときそうなものです。

こうしたところからも「英語だけが得意な人」は「その他の学力が高校生レベル」であるような印象を受けてしまいます。「通じれば良い」ということで、標準語を習う外国人に合わせて易しく書かれたテキストに書かれているようなことを知った程度で全体を知ったように思ったり、「それは確定的である」などとは思わないほうが賢明です。

音素の数にしても、それは書かれてはいなくても日本で過ごしていれば自然と理解できるようなことであると思います。

せめて「日本語の」ではなく、「日本の標準語の」というような表現をすべきでしょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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