稀にですが何を勘違いしたのか「コンペに参加しませんか?」とか「コンペ形式を予定しています」といった感じの連絡が会社に来ることがあります。
「コンペ参加への依頼に含まれる傲り」ということで、こうしたコンペティション(競技設計という概念)に含まれる上から目線的な傲りについて触れていきましょう。
なお、ここでいうコンペとは、コンペという言葉を使って助平心的に自己都合ばかり考えている発注主が利用するコンペという概念です。性質上コンペティションがふさわしいような分野に関するものすべてに対してではないのでご注意ください。
まず最初に僕はコンペという言葉が相当嫌いです。
なぜならそこには、次のような意図があるからです。
「お前たちは仕事に困っているだろう。
ここにお金と仕事があるぞ。
さあ頭を下げ、走り回り、この仕事を獲得するためにタダで頭を使い、媚びろ。
お前たちは仕事を獲得するために日々奔走し、喉から手が出るほど仕事に困っているんだろう?
ここに仕事の依頼主がいるぞ。
さあ、私に媚びるように知恵を出し、提案しろ」
競わせて提案をタダで手に入れようとする人たち
コンペというものは、基本的に「競わせて提案をタダで手に入れよう」ということに他なりません。
つまり、企画や設計の概要といったものを提案するということには価値がないということを思っているわけです。
「もしかしたら仕事が手に入るかもしれない」という「たられば」を利用して相手にタダで働かせようと思っているということになります。
もちろんコンペ形式のほうが向いていることもあります。
公共性のある事業において「一社に肩入れしているのではないか?」という疑念を払拭するという機能もありますからね。
しかしながら作品の募集と応募という形式が向いているものとは別に、単に「自分たちで頭を捻ったり情報を収集したりすることが面倒」ということで、「競わせて案を出させよう」というコンペ形式を利用しようとする人たちもいます。
たくさんの事業者からタダか、コンペフィーなどという耳障りの良い安価なタダ同然報酬等々で発想というものを含めた情報をかき集めようとしているだけだったりします。
「案」自体に一番の価値がある
この時忘れてはならないのは、「案」自体に一番の価値があるという場合がほとんどであるという部分です。
小売の店舗における購買のように「自分は選ぶだけ」という「お客様は神様」的なことを思いたいのかどうかはわかりませんが、既製品の購入等々とオリジナルのものを依頼するのとでは属性が全く異なったものになります。
「決まればあとは渡すだけ」というものであれば、提案は楽ですが、選択の対象すらまだ確定していないようなものなのであれば提案には相当の労力が必要になります。
課題の発見から解決策の提案まで
世の中には課題の発見から解決策の提案を含めたコンサルティングサービスというものすらあります。
例えば、車が何かしらの故障で動かなかったとしましょう。
その時に「どこが壊れているのか?」ということに対し、「あの場所かな、この場所かな」と推測を立て、調べていける事自体にも価値があるはずです。
提案には価値が無いと思うことは、「タダでどの部品が壊れているのか教えろ、あとは自分でやる」という感じに近いという印象があります。
何をどうすればよいのかすらわかっていない状態のわりに、タダで道標を得ようとするのがコンペ参加の依頼という感じです。
様々な参加者に知恵を絞らせて、かき集めた案から最適なものを選び、採用しなかったものが出した案も使えそうなら使う、といういかにも自分に都合の良すぎる形式です。
結局採用しなくても案を使うわりに、お金は出さないという感じです。
そのコンペにアメリカンドリーム的な要素はありますか?
コンペという言葉を安易に使い、結局非常に自分に都合が良すぎる感じで話を進めようとする人たちもいます。
そこで考えてみたいのが「そのコンペにアメリカンドリーム的な要素はありますか?」という点です。
「採用されるかされないかはわからないが、採用されたとすれば相当の大きな報酬が入ってくる」とか「ここで採用されればかなりネームバリューが上がり、今後の経営が楽になる」とかそうしたような要素があるのかという点です。
単純に「募集と応募」という感じであれば、それが漫画だとすれば大手の漫画週刊誌に連載が決まるとか、対象が建築物で相当の収益が出る、かつ、箔がつくとかそうした夢のようなものはあるのかという点です。
たかだか一回きりで、かつ、数十万円、数百万円程度の規模のもののために「提案しろ」などというのは都合が良すぎます。
それどころか「デザインコンペ」などという名目で数万円程度の発注にコンペ形式を用いるというケースすらあるようです。
「ふざけてはいけません」と思ってしまいます。
素人に判断されるコンペ
そして、この手のコンペ形式は、いわば判断する人たちが素人です。
例えば、何かの賞の作品募集であれば、その受賞の恩恵もさることながら、審査員は概ねその分野で相当の実績を残したプロの方々であり、不採用となった場合の批評にも価値があります。
しかしながら、「タダでうまく使ってやろう」という程度でコンペという言葉を使いながらコンペ参加の依頼をしてくる発注主は、十中八九素人です。
人にタダで提案させようという程度の情報力しかない素人が、自分たちの素人感性だけで採用不採用を決めたりするわけです。
個人的な印象ですが、そんな素人のコンペ参加の依頼に応じるような形で集まった人たちは、本当に仕事に困っている人たちなのではないかと思ったりします。
ということは、仕事の上でどこかしらに不足があるような気がするので、結局「案をたくさん出させて競わせれば、安くで良いものができるだろう」ということを思っていても、集まる案は二流三流のものならまだしも、それ以下なのではないか、ということになります。
そう考えるとお似合いです。
商売下手のクリエイター
そうした「コンペ形式のものへの参加」といえば、たいていはクリエイターと呼ばれる人たちの分野が対象となります。
しかしながら、数が多すぎることと、学生時代を含めそれまでの方法論として「募集に対する応募」ということに慣れすぎていて、それ以外の商いの方法を身につけていないというケースがよくあります。
少しでもチャンスを掴むというのはいいですが、「たらればによる釣り」によって「タダで使ってやろう」ということを思っている人たちの餌食になるだけという場合もよくあります。
「どうやったら仕事を獲得できるのか?」というところについて無頓着なケースが多いような印象があります。言葉は悪いですが商売下手という感じです。
ただ、僕はそうしたクリエイターというような職業的立ち位置ではありませんが、個人的には、そんなコンペという言葉を使って「タダで使ってやろう」という人たちに付き合っていると、自己評価も下がり、空振りで仕事が成り立たないという感じになってしまうのが遣る瀬無く感じてしまいます。
芸大で教鞭をとっている友人の周りの人や教え子の方々にはそうした分野の人がたくさんいますが、商いのプロになれというのは畑違いなのでそこまでは必要ないとしても、ある程度の基礎を知り、自己評価を下げられず、どんどんと正当な報酬を得るような感じで事業を継続していってもらえたらなぁと思っています。
己の職能に誇りを持て
ということなので、端的には「己の職能に誇りを持て」ということになるのですが、そうした気持ちの面は最低限持っておいた上で実質的にどうにかしていかねばなりません。
それは、助平心を持った業者が依頼してくる「コンペに参加する」ということから脱却するため、相手が頭を下げてくるくらいの「指名」になるようにネームバリューを獲得したりするということもひとつですし、掃いて捨てるほどの見込み客を獲得するためのマーケティングを組み立てるという方法もあります。
もちろんそれは傲りからではなく誇りからという感じでなければなりません。
というより、基本的には、きちんとしたことを普通にきちんとしていれば、ある程度の数の顧客はつきますし、紹介などもどんどん起こるようになると思います。
マクロ的なことを考えた場合、コンペ形式の発注、コンペ参加への依頼を全クリエイターが拒否するようになると、そうした方法論は廃れていきます。
僕は常に「コンペ」という言葉を安易に使う業者から会社にコンタクトがあったと聞くと、「ふざけるな!」と鼻息を荒くしてしばらく怒ってしまう癖があります。と、癖であることを知っているので、もちろん感情的に苛まれることはありません。
そして「なめるな」ということを思い、「こんな勘違い野郎を排除するにはどうすればいいだろう?」ということを常に考えます。といっても事業をしているとこうした勘違い野郎が一定確率でやってくるので、排除する必要もあまりないのですが、まあこの手の怒りはエネルギーに変換されるため単に「やる気になってしまう」という感じです。
もちろん、そんなコンペ参加を依頼してくるような発注主など全て無視しても余りあるほどの仕事と収益があるので何も困っていないのですが、やはり父との約束である「タダでうまく使ってやろうという輩を容赦するな」という信念のようなものが作用しているのでしょう。
あともうひとつは、かなり前に国立の某機関からコンペ参加の依頼のようなものがあった時に「金額の提示くらいしかしませんし、通常の見積もりと同じように取り扱います」と答えたら、相手の担当者がキレてきたことがあったという経験からだと思います。
「なんでキレられなければならないのか?」と思ってしまいます。「素人が何様のつもりか」ということです。
まあ「襟を正すとすぐに吉報がやってくる」で触れていたとおり、「カスは切るに限る」ということを思っているので、一日程度「フンガー!」と強烈な鼻息とやる気が生じたものの、それ移行稀に来るコンペ参加のお誘いに対しては、スコンと「お断り」で終わらせています。
ただ、一言で終わらせてはいますが、それでも未だにコンペと聞くと一応「ふざけるな!」と鼻息を荒くしてしばらく怒ってしまう癖は続いています。
答える内容が短いものであっても、その現象の些細さとは比較にならないほどの価値がある場合があるということが結構無視されていたりします。ということを考えたりすると、コンペや入札という類のものは、極めて厚かましい構造を持っており、とどのつまり「価値を否定する詐欺や盗犯のようなやり方」であると考えることができます。
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