気づく力と自己観察

気づく力と自己観察について触れていきます。

「自己観察」においては、どのレベルで自己観察するかということが重要になってきます。

対象の抽象性のレベルと観察のあり方、そして観察における気づく力が重要な要素となってきます。

例えば、「自分」というものに関して、どのような目線でそれを捉えているかということによって、観察のあり方が変化してきます。また、それを観るにしても観るということに対する集中力によって、観え方が変わってきます。

「知識の習得や理解では安穏にたどり着けないのならばどうすればいいのか?」

きっと思考先行型の人にとってはそうした矛盾について違和感を感じているはずです。

「理解してから適用する」という通常のセオリーに慣れ親しんでいると矛盾のように感じてしまいますが、仮止めの梯子としてその構造について少し触れていきます。

思考的理解の先にあるというものというよりも、気づきから理解を超えた理解になるという感じです。

日常における「気づく力」

時代とともに低下していくもののひとつが気づく力です。

その理由は非常に単純で、「便利さ」が気づく力を養う機会を奪っていくからという感じになります。

動物でも飼育下にある動物が野生動物に対して劣っているもの、それは気づく能力であり、察知したり分別する能力です。それが、「飼育下にあるものが野生で生きていけない理由」の最たるものです。

以前、京都市内で野犬を見かけたのですが、常に左右を観察しながら歩道の内側を歩いていました。白線の内側を歩きましょうと習っていなくても白線の内側を歩く野犬は、経験から白線の内側ならば車に轢かれるリスクが減るということに気づいているという感じになるでしょう。

また、近年では、緊急車両が近づいてきても「イヤホンの音と画面に夢中」という形で、それにすら気づかないというケースもあるようです。それだけ物理的な現象に対する重要度が落ちているということでもありますが、根本的には単に注意力が低下しているというだけだったりもします。

さらに、地頭と偏差値の乖離について囁かれることがあります。それも非常に単純で、テクニックでポイントだけを習得すれば良いという一種の合理化、便利さが原因になっています。

ある試験に合格するということだけを目的とした場合は合理的ではありますが、本質的な能力自体は部分的にしか養われないという感じになってしまいます。

知識が増える分多少はプラスになる部分もあるものの「構造を見抜いたり違いを発見する力」が養われにくく、現状の形式では本質的な能力を判定することがままならなくなっているというだけだったりします。

便利さといえば、スピードと簡略といったものが中心ですが、代替手段の多さというものも含まれています。

処理速度の向上や簡略化は、人が労力をかけなくて良い分省エネルギーとなり、生命保存のためにはプラスになるという部分もあります。しかしながら、同時に人が手をかけない分注意をする必要がなくなったりして、気づく能力が養われないという弊害も起こってきます。

また、便利さとしての「代替手段の多さ」も影響しているでしょう。その場に留まる必要がないということは、その場を切り抜けるために何かしら頭をひねる機会も無くなっていくからです。

これらの便利さは急ぐ人にとってはありがたく、時代の流れとしてそういった方向に行ってしまうものなので、止めることのできないようなものであり、良し悪しで考えても一長一短である種無属性です。

しかしながら、弊害部分が強くなってくると、それに応じてありえないような事故やトラブルを招く感じになっていきます。

と、ここまでは普通のお話でしたが、気づく力と自己観察について触れていきます。

前提自体の不完全性に気づく力

シッダルタ、サーリプッタタイプの人には馴染みがあるようなことになると思いますが、例えば、ある学者の意見を聞いて「前提が手前すぎる」と思ったことは無いでしょうか?

そして前提が手前すぎる中で、「もっと手前は見えていない」といっような感じのこともよく起こったりします。

例えば哲学、主に西洋哲学の分野では、「私とは何か?」とか、「何が私たらしめるのか?」というようなことをよく考えたりします。

そんな時に登場するのが自己同一性みたいな概念だったりします。

「どうして私は私であると言えるのか?」というところについて、よくよく観察すると、客観的な世界、客観的な社会の中の一個人としての自分の定義のようになっていたりします。

「同一の記憶を持つものがいたとすれば」というような問いなどが起こったりもします。

ということで、手塚治虫氏の「火の鳥 異形編」の左近介(さこんのすけ)についてでも触れていきましょう。

火の鳥異形編の左近介

あまり内容について触れるのは野暮なので、火の鳥異形編の全容については触れませんが、キーポイントとなるのは殺される年老いた尼僧と殺しに来る若い女性が年齢を別とした同じ左近介という世界になっているという点です。

尼僧を手にかけた若い女性が、後に尼僧になり、また若い時の自分に殺されるというような無限ループの世界です。

その時「誰が左近介なのか」というようなことを思ってしまいますが、それは読者たる第三者の目線であるからそのように思ってしまうだけという感じになっています。

こうした感じで誰が左近介なのかという問題に対して、我が事のように当てはめてしまった場合、「どちらが私なのか?」ということになってしまいます。

しかし次のように考えてみるとそうした問題はすぐに解けます。

  1. 認識する働きである心は単一である。
  2. 記憶等々で構成される自我は、外界の情報を解釈する一種の関数であり、それを通して状態を心で受け取る。

という感じから左近介を考えてみると、もし自分が尼僧として、尼僧の経験を心で受け取っているという時、外界として感知している「若い時の左近介」は、五感によるデータ、それによって形成されたイメージです。まあ普通の感覚で言えば、記憶等々はどうであれ他人のようなものという感じでしょうか。

そして、死によって心が尼僧の自我を通して認識するものを認識し得なくなった時、若い時の左近介の方に、受け取る機能、認識する働きである「心」がシフトする、という感じです。

若い時の左近介にシフトするので、その時点での記憶を含めて若い時の左近介となり、年老いた尼僧の記憶を含めた自我は引き継がれません。

という感じのちょっとした輪廻的な感じを含めて「異形編」という感じになるのでしょう。

この時、私の定義に関して、記憶というものを持ってきて、その記憶等々の一貫性など、自己同一性のようなものを根拠に「私」を見るというのが「手前から考えている」という感じになります。

そして、その内側にある「受け取る機能」の方を見落としているという感じです。

いくら思考実験をしようが、自分と全く同じ遺伝子や記憶を持つものがいたとしても「この心」で内々の感じで五感と意識を受け取ることが無いのであれば、ただの情報です。

実感として単一である「この心」以外で何かを受け取ったことはないはずです。

そんな簡単なところに答えは落ちているのに、それが見えないと「同じ遺伝子を持ち、同じ記憶を持つならば…」などと言った感じで、妄想を繰り返してしまうことになります。

この受け取る機能、認識する働きである「心」は、内にある一種の体感領域のようなものなので、外に向かって証明することができません。

そして他の「心」の実在を知ることもできません。よって、空観という発想も出てくるのですが、空観ゆえに心がかき乱される思考を自我がしてしまう恐れがあり、結局安穏からは遠のくという構造も潜んでいます。

自己観察のあり方

自己観察と言うと、自分で自分を観察するという感じですが、広い意味での偏見、偏見による言語的判断等々、自分の自我を通して観るのではなく、現象をそのまま観るというのが基本になります。

手を挙げるという動作一つとっても意図の発生から意識の働き、実際の挙動まで、全てが「自動発生して自動的に落ち着く」という感じになっています。

それを観るという感じになりますが、瞬間的な動きになるので、動作であればなるべくゆっくりと行い、その一連のありのままを観察するという感じになります。

自己観察と言うと、自分を観察して評価するという感じになってしまいがちですが、もっともっとシンプルで意識の集合体たる自我という機能が、どのように動き、落ち着いていくかということを我が為すという主体から離れて観るという感じになるでしょうか。

足を上げれば「下げたい」という意図が発生します。その意図の原因は「上げたから」となりそうですが、時系列的でちょっとマクロな因果で言えばそうなるものの、瞬間的な切り取った場合は少し異なってきます。

下げたいという意図の原因は「下げなければ苦痛という衝動が今起こっているから」という感じになります。

そして足の苦痛に従ってどんどん下げたいという意図は強まります。

そして実際に足が下がり切るとその意図は消えます。

ずーっと立ちっぱなしだと、座りたいとか、横になりたいとか、ちょっと歩きたい、ちょっと足を上げたいというような気持ちが起こってきます。

何かを待っていて、立ちっぱなしの時、無意識的動作として足をちょっと上げたりもしているはずです。

そうした無意識から起こるものを他人を観るように観察すること、それが自己観察の基本です。

意識と無意識とはいいますが、普段の思考にしても、「考え出そうと思って考え出したことではない」ということがよくあります。

そうした意識の動きを観察していると、何かの情報に反応して思考が働き出したり、ボーッとしていて急に、というような感じだったりします。

それらは結局、「外界に反応して勝手に動き出した」か、「なぜだかはわからないが、急に動き出した」という感じのいずれかになっています。

ということは、それらもとどのつまりは、立ちっぱなしの時の足の無意識的な動き、と変わりなく、自動発生しているようなものです。

というような、現象のありさまを傍観するように観察していると、「で、私って何よ?」という感じになってきます。

そんな時に、今現在に意識を集中していると「ふっ」となる瞬間が訪れるかもしれません。

「今」に集中することと今をスタートとすること

Category:philosophy 哲学

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