一種の消去法

消去法というものは、基本的に「期限が迫っていてどうしようもなく」という場合に用いられるようなものなので、「仕方無しに」という感じがどうしてもつきまとう物事の選択方法です。

消去法が利用され、もしくは、その利用が迫っているような時、何かしらの制限や惰性があり、視野が狭まっているということが裏側で起こっていたりします。

そういえば先日友人から「久しぶりに舞台上で演奏しないか」というような誘いを受けました。それはそれでありがたい話ですが、何をやるのかということを聞いた時に、あれやこれやと案が出てくるものの、全てが微妙だったので、「そんな消去法的な発想なら、どれもやらん」と言っておきました。そして同時に「消去法的ではないようなモノが出てくるのを待て」と言っておきました。

消去法的に選んでいこうというような発想は、既に選択肢が限定されており、その中から妥当なものを選ぶということになるので、「本質的にはやりたいという気持ちがない」という感じになってしまいます。

つまりは、選択に義務感が入っており、楽しみではなく仕事的で、「処理しなければならない業務」になってしまうという構造を持っているということになります。

それが仕事ならば、収益や事業の継続等の関係もあるのでまさに「仕方がない」という感じになりますし、もっと先にある大掛かりな目標に対する通過点的な義務めいたものであるのならば、それはそれで仕方がないですが、「久々にライブを行う」といったように目的のほとんどが楽しみくらいであるようなものに対して消去法で義務感を出されては意味がありません。

もちろんそこに来る人に対する一種の責任感のようなものとして、処理しなければならない業務を怠らないとかそうしたものであるならばいいですが、出だしから消去法というのは、どうもいただけません。

「道中で自転車がパンクしたまま無謀にも近江八幡まで一緒に冒険に行った友人」(キープ・オン・バカさ 改)だったので、「暇なやつが群れて最大公約数的にバーベキュー、とちゃうやろ?家族みんなの最大公約数でショッピングモールか?パンクしたまま近江八幡まで行くのが基本やろ!」と言っておきました。

「おおおおう」と、友人。

と、まあ先日のやり取りはその程度ですが、考えてみると彼は彼なりに社会に適応し、いたるところで協調と利他性を考えた結果、消去法に慣れてしまったのかもしれません。

しかしそんな「利他性ゆえの消去法」は時に相手をがっかりさせてしまうかもしません。

無謀とも取れる強烈な動機に引っ張られることよって新しい視野が広がることを求めている、というのが本音の場合もあるからです。

Category:笑う月

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