タグ別アーカイブ: 仏教

哲学的な仏教について
(宗教化されているものは除く)

かなしき物がたりにこそ

悲しみや苦しみそのものは良きものではありません。それを発端として良きものとなりうることはありますが、それそのものが良いものではないのは自明の理です。 数多の悲劇のその内容は、その時代の生きる辛さを反映するような面があります。激的な悲劇が生み出される時、その時代背景として社会はより強いカタルシスを求めていたということが垣間見れたりもします。 表面的に見れば「何だそんなことか」と思えるような出来事であっても、表面には表れてこないじっとりとした不快な要素がたくさんあったりもします。なので本来は「わかりやすい悲惨さ」だけが

» かなしき物がたりにこその続きを読む


信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。 「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。 ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」と解釈可能性のある「信仰」や「主義」の違いのようなもので、絶対性を持たないような

» 信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造の続きを読む


「空」でありながら実在するかのように働く機能

それが実在するものでなくとも、実在するかのように働くことが迷妄の要因の一つとなっています。 本来は「有るような、でも、無いようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらしたりします。 あくまで五蘊により捉えたものとしての対象であり、本質的には有と無を統合した概念である「空」としての性質を持つものであっても、観念の領域では有としての前提が生じるために機能が生まれ、機能に応じた結果が生じることになります。 それは実在するものであるのかはわからない

» 「空」でありながら実在するかのように働く機能の続きを読む


感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁

うつなどの精神症状が語られる場合、感情的なリラックス、身体的な楽さが軸に置かれ、それらをもたらすものであるようなコミュニティや「人と話すこと」などが大切であるというようなことが囁かれたりします。 しかしながら、ここであえて触れておきますが、そうした感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁というものがあります。 すなわち、世間で提示される「解決策」は、イライラしたり不安だったりうつ状態になっている人に対して、何かしらの物理的処置、社会的関係性の調整等々によって「ほっ」としてもらえばそれで良くなるだろうとか、「人

» 感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁の続きを読む


撫でられることや撫でることの効果

撫でたり撫でられたりするだけで「ふわぁ~」っとします。 撫でられることの効果や撫でることの効果は論理で考える以上のものとなっています。 「撫でられることや撫でることでオキシトシンが出る」とか「精神症状にオキシトシンが効く」という物理的な観測もいいですが、それは、なぜ撫でられたり撫でたりすると抗不安作用や抗ストレス作用のあるオキシトシンが出るのかを説明はしていません。 そうしたことは雑談程度にしておいて、実質的に撫でたり撫でられたりするだけで「ふわぁ~」っとなるだからそれでいいのではないでしょうか。 そして、たったそ

» 撫でられることや撫でることの効果の続きを読む


祝六周年

本ブログも六周年を迎えることになりました。ちなみにこれで1775記事目になります。今回も祝五周年の時と同様に、単純に祝六周年というタイトルです。 祝五周年の時は1480記事だったのでこの一年で300弱の投稿をしたことになります。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、ありがとうございます。 アクセス状況 この一年でこのブログにやってきた人の数は、279,159名ということのようでした。その前の期間は

» 祝六周年の続きを読む


緊張時や不眠時の精神統一

緊張時や不眠時の精神統一について軽く触れていきましょう。 緊張しているときや眠れない時は、落ち着こうと思ってもなかなか落ち着くことができません。 また無駄な思考や妄想がループしたりして無駄に疲れてしまうという時もあります。 そうした時に「思考によって思考を制する」ということはなかなかできません。 なので、手綱を取るように暴れる思考を制する実践的方法を軽めに少しだけご紹介します。 意識の散らかり 落ち着きの対極にあるものは、混乱や妄想といったものになります。そうした物を含め思考の活動は、刺激に対して反応するということ

» 緊張時や不眠時の精神統一の続きを読む


気づく力と自己観察

気づく力と自己観察について触れていきます。 「自己観察」においては、どのレベルで自己観察するかということが重要になってきます。 対象の抽象性のレベルと観察のあり方、そして観察における気づく力が重要な要素となってきます。 例えば、「自分」というものに関して、どのような目線でそれを捉えているかということによって、観察のあり方が変化してきます。また、それを観るにしても観るということに対する集中力によって、観え方が変わってきます。 ― 「知識の習得や理解では安穏にたどり着けないのならばどうすればいいのか?」 きっと思考先行

» 気づく力と自己観察の続きを読む


白と黒の先にある透明へ

白と黒の先にある透明へ、ということで苦楽の両極端についてでも触れていきましょう。 まあイメージとしては「有と無を抽象化した空の如く」という感じです。白と黒の間は灰色ですが、白と黒の先にあるものは透明的であるというような感じです。 と、そうなるとイメージがつかみにくいので、まずは少し日常的な感じで進めていきましょう。 太宰治に対する評価 いつも仲良くしている士業の方と、文学についてお話したりしたことがあります。まあ単純には小説等々をはじめ、おすすめ本的なことを含めた雑談です。 まあそのお話の中で太宰治氏のかの有名な「

» 白と黒の先にある透明への続きを読む


気のせいのようでもあるし、事実のようでもある

それが本当の真実であるということを証明できないようなタイプの主観的な感想については、それが妄想であれ「何かの象徴」として表現されているものなので、よほどの暴論でない限りそれほど問題にはしていません。 「気のせいのようでもあるし、事実のようでもある」という感想を持つしか無いような、巷で言う心霊系のお話については、「見えたのだから見えたのでしょう」という同語反復的なレベルのお話として捉えるに越したことはありません。 自我領域の主観的事実が、完全にありのままを包括した世界とイコールであると考えることはできません。 見えた

» 気のせいのようでもあるし、事実のようでもあるの続きを読む


念力のようなもの

念力というと、いわゆる超能力のようなものを想起してしまうと思いますが、本来「念」とは「今心」なので、今に心を合わせるとか、今に集中するとか、自己観察というような意味を持っています。なので、念力といえば、本来は今への集中力とか、自己観察力というようなものになります。 まあどうして自己観察なのかということになりますが、これは普段慣れ親しんだ自分というものを社会的な客観性をもって見るというものではなく、端的にはヴィパッサナーということになります。「ありのまま観て気づく」という感じです。 今、私は何をやっているんだ? ヴィ

» 念力のようなものの続きを読む


自己検閲の機構

どうしても自我というものは悪者扱いされるフシがありますが、「それはそれ」というだけのものであり、退治する対象のものというわけではありません。 凝り固まった自我意識というものは、制限を生み、偏見を生み、悪どくなってしまうものとして扱われたりもしますが、こうした自我は時に自己検閲の機構として、逆に洗脳・マインドコントロールをブロックするものとして働いたりもするわけです。 万が一の誤解があるといけないので、改めてこうした「自己検閲の機構としての自我」について触れておこうと思います。 定義が曖昧な自我 というのも、「じろり

» 自己検閲の機構の続きを読む


期待を失わずにいられる空想家

期待ということはある意味での確信がないということであり、空想というと絵空事という感じなので「期待を失わずにいられる空想家」という表現はあまり適していませんが、概ねそのような感じで過ごすと毎日が爽快になります。 今お金がないとして、にっちもさっちもいかないという状態だったとしましょう。しかし、一応可能性としては、明日にはそれが解決しているという可能性もあります。それがどのような解決のプロセスかはわからなくても、可能性としてはゼロではありません。 もしそうであれば、今の状態に対して何かしらの判断をして思い煩うということ

» 期待を失わずにいられる空想家の続きを読む


絆という大きな束縛

絆という大きな束縛を解き放つこと、それが苦しみから脱することのポイントとなります。 サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節、第五節の「わな」をヒントに、大きな束縛について触れていきましょう。 本日で、養子のうさぎが亡くなって二年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。昨年は、「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみを書いてみましたが、今年は愛別離苦の元となる絆という大きな束縛について触れていきます。 「あなたは悪魔のきずな(わな)で縛られています。―天界のきずなと人間のきずなとがありますが…。あなたは悪魔の縛め

» 絆という大きな束縛の続きを読む


寓話の現実化

いつか読んだ寓話が現実となるようなことがたまにあります。 それらはあくまで例えが現実的になるという感じですが、寓話も誰かが創作したものでありながら、その創作においては現実の体験のシーンたちが少なからず反映されているので、別におかしなことでもありません。 そうした印象やシーンにイメージを向けたからこそそれがよく見えるということもありますが、そうした認知的な話だけでなく、「見えやすくなっただけ」という説明だけでは説明しきれない形で物事が実際に起こることがよくあります。 それは概要のみがそろっていて具体的なところは想定外

» 寓話の現実化の続きを読む


際限のない「何をどこまで」を防ぐ表現

良いことと悪いことを考える時、通常の加点方式で考えてしまうと限界がなく「これでよし」という定義ができません。 「この心が苦しみを受け取る」という視点から考えた場合、いわゆる幸せ的なものは加点方式ではなく「本来の完全で理想的な状態を阻害しているものを削ぎ落としていく」という構造になるはずです。 「対人恐怖と人間不信への対処」や「この世界のささやかな全て」などで善行為的なことについて「表面的な作為のみならず不作為すらも、不善ではないという事自体が、絶対値的に差分だけ与えられたということになる」という感じのことを書いたこ

» 際限のない「何をどこまで」を防ぐ表現の続きを読む


爆笑して起きてしまうゆかいな夢

僕は今なお夢に爆笑して起きてしまうことがあります。 月に一度以上はそんな感じで起きてしまうのですが、ゆかいな夢で爆笑し、愉快な気分で目が覚めます。 つい先日は、養子のうさぎやインコのピーコちゃん、ガチョウの雪雄や鹿の王などを筆頭とした仲の良い動物や鳥、以前に保護したアシナガバチや逃した米びつ虫をはじめ、ひっくり返っているところを起こした虫たち、宝ヶ池の鯉たちなどの魚類、家に現れたヤモリなどの爬虫類、それに家にいる植物たちなど、ありとあらゆる生き物たちに全身を覆われ、愛情表現的に舐められたり体を這われたりしながらくす

» 爆笑して起きてしまうゆかいな夢の続きを読む


趣味や職業と生き物の命と不殺生

「趣味や職業と生き物の命と不殺生」ということで、生き物の命と人が生きていく上での殺生について触れていきます。 たくさんの数のご連絡の中から「趣味の釣り」や職業として殺生を避けられない職業についてのご質問を受けました。 趣味としての釣りにおいては、海の生き物に対する殺生が関連し、ガーデニングにおいてもいわゆる雑草取りや害虫駆除という殺生が関連してきます。 職業としては、畜産や漁業・狩猟をはじめ、農業や造園であっても先のガーデニングと同様の殺生が関連してきますし、清掃や建築関連であっても多少は関連してきます。 究極的に

» 趣味や職業と生き物の命と不殺生の続きを読む


対人恐怖と人間不信への対処

対人恐怖と人間不信への対処について触れていきます。 人間不信や疑心暗鬼が加速すると、人によっては他人と接するのが恐いという感じになりますし、人によっては攻撃的になってしまったりします。 自分の「自我」を含めて人の意識は不安定です。なので、人を心底信用することはできませんし、それはそれで大いに理解できることですが、恐怖を感じたり攻撃的にならざるを得ないというのは「この心」にとっても苦しいことなので、「それとこれとは別次元のこと」として捉え、苦しみを時空の彼方に追いやってしまいましょう。 対人恐怖と人間不信への対処とし

» 対人恐怖と人間不信への対処の続きを読む


有身見とヴィパッサナーと諸法無我

有身見とヴィパッサナーと諸法無我といった感じで、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。 「有身見を錯覚であると見破るヴィパッサナー」、「自己観察中の自分は一体何者なのか?」、「ふたつの心が同時に生まれていることになるのか?」、「諸法無我に関する哲学的・科学的な構造の理解」、「五感で得た情報をありのままに捉えられず、自我によって演算してしまって、悲しいという意識が生まれたのか?」、「自我がない状態では、五感で得た情報から悲しいという意識が生まれず、心があるがままの情報を認識する

» 有身見とヴィパッサナーと諸法無我の続きを読む


真我の否定、心と意識の違いと諸法無我

真我の否定、心と意識の違いと諸法無我といった感じで、ここでは、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。 「真我という概念の否定」、「色即是空の空」、「心身二元論・霊肉二元論と心」、「心と意識の違い」、「一つのチャネルである意識」、「認識する働きである心」についての質疑応答について記載しています。 諸法無我は、極めて理解しがたい理になります。 諸行無常や一切行苦に関しては、概念の抽象度を落としてでも示す事ができるため、その解説が比較的たくさんあると思いますが、諸法無我は、レベルを

» 真我の否定、心と意識の違いと諸法無我の続きを読む


虚しさの先にある安穏

経験の始まりと終わりを明確に捉えて区切ることはできませんが、終わりに生じる結果を観察していると、たいへん虚しい気持ちになってきたりします。 それはいわゆる諦めのようなものとは違っています。 一見虚しいような感覚にもなりますが、それでも憂いはありません。 なぜなら単なる虚しさには奥に期待があり、期待なき一種の虚しさには安らぎしかないからです。 でもその期待のなさは、諦めとはまた様子が異なっています。 ― 「名とすべて」の時と同様に雑記第200投稿目記念として、あまり理解できないかもしれないような感じふわふわと書いてい

» 虚しさの先にある安穏の続きを読む


涅槃寂静

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)について触れていきます。涅槃寂静はもちろん仏教用語ですが、仏教の根幹でありながら最も意味がわからないものであると思います。なぜならいくらわかりやすく書こうと思っても、涅槃寂静は「理解するもの」ではないからです。 涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。 諸行無常や諸法無我、一切行苦ついては、哲学テーマとして書いてみましたが、涅槃寂静について触れていなかったのは、言語で書いて頭で理解できるようなものではないから

» 涅槃寂静の続きを読む


孤独や孤独感と「独立して自由であること」

孤独や孤独感と「独立して自由であること」という感じで、孤独や孤独感を中心にまたまとめておきます。そして孤独という概念から「他との関連性から独立して自由であること」についても書いておきます。孤独感に苛まれた時に「軽い脱却」を叶えた「孤独感についての独り問答」についても触れてみます。 まず、孤独であることや孤独感は、「分離」が前提になっており、分離の感覚がなければ孤独感は全てなくなります。 世の中では、寂しいとかひとりぼっちだとか、そうした感じで孤独はネガティブなことであり、孤独はいけないことだとか、群れることは正しい

» 孤独や孤独感と「独立して自由であること」の続きを読む


同情と共感

同情と共感についてまとめておきます。同情と共感は似ていますが、己の心にどう影響するかが全く違うので、似て非なるものとしてその違いについても触れていきます。 英語的な話をすると「同情」は「sympathy」であり、「共感」は「empathy」と言う感じになりますが、もちろんそれが心理学者なのか哲学者なのかといったことを筆頭に、その言葉を扱う人達によって若干の定義は違ってくるでしょう。 しかしながら、概ね同情は、相手の感情に同化し一緒に感情を味わうこと、共感は、相手の感情を理解することといった感じです。 同情とは、主に

» 同情と共感の続きを読む