自我は一切を持とうとする
人間は一般に、所有するためにのみ行為するようにみえる。少なくとも、一切の過去の行為をあたかもわれわれがそれによって何かを所有しているかのように見なす言語は、この考えを暗示している(「私は語った、戦った、勝った」ということは、私は今、私の言葉、戦い、勝利を所有している、ということである)。これとともに人間は何と貪欲に見えることだろう!過去さえわが身からもぎ離そうとせず、まさにそれをやはり相変わらず持とうとするのだ! 曙光 281 外国人か
順位
第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛すべき地下のものである。 曙光 446 頭が泥沼にはまりこんでいる思想家というものは意外と結構いるものです
ひとつの模範
私はトゥキュディデスのどこを愛するのか?私が彼をプラトンよりも深く尊敬する原因は何か?― 彼は人間と出来事のあらゆる典型的なものに、最も広範囲で最も偏見のない喜びを感じ、そしてどの典型にも、ある量のよい理性が属していることを見出す。これを、彼は発見しようと努める。彼はプラトンよりも大きな実際的な公正さを持っている。 曙光 168 前半 トゥキュディデスは「戦史(ペロポネソス戦争史)」の人ですね。「アテナイ」オタク以外は知らなくてもいい人
刑務所の中で
私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める、触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこ
子供らしい
子供のように生きる― したがって自分のパンのために戦わず、自分の行為に決定的な意義が属していると信じない― 者は、いつまでも子供らしい。 曙光 280 温泉やスーパ銭湯などに浸かっていると、他の客の中に騒がしい子どもがたまにいますが、動きまわるだけでなく「奇声を発する」という場合があります。それが集団となると狂騒と表現するのがふさわしいほどの奇声ラッシュとなります。この手の奇声は金切り声と呼ばれるような高音、高周波の奇声です。 この奇声
われわれが芸術家になる点
だれでも或る人を自分の偶像にすると、その人を理想に高めることによって自分自身に対する弁明を行おうとする。彼は疚しくない良心を持とうとするため、それによって芸術家になる。彼が苦しむとしても、無知に苦しむのではなく、無知であるかのような自己欺瞞に苦しむのである。曙光 279 前半 アイドルに陶酔している人をよく観察してください。 さて、「われわれが芸術家になる点」ということで、芸術と「プロ」について触れていきましょう。 内部表現の外部表出
親切な記憶
高位の人は、親切な記憶を仕入れるのがよい。すなわち、ひとりひとりについて、一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにすることである。それによって彼らを快く依存させることになる。人間は、自分自身に対しても同じような取り扱いができる。 曙光 278 前半 「一切の考えうるよい点を認め、その背後は棒引きにする」 この手法はいたるところで使われ、近年では胡散臭い本でよく説かれています。しかし胡散臭いといえども、苦しさが紛れるのなら自分を騙し
暖かい徳と冷たい徳
冷静な大胆さ、毅然とした態度としての勇気と、熱烈な、半ば盲目的な勇気― 双方がひとつの名前で呼ばれている!しかし、冷たい徳は暖かい徳とどんなに異なっているだろう! 曙光 277 前半 おそらく昔から、誰よりも冷徹だと自負しています。今では怒りもしませんが、切り捨てという意味では、切り替えが早いと思います。特にビジネスシーンではこの要素がかなり重要なポイントになります。 とりわけ株式のトレードなどでは損切りの素早さが勝敗の要になります。
何としばしば!何と思いがけない!
世の中には「思いがけないこと」がたくさん起こります。 今年に入って同窓会がありました。そこで、当時あまり同級生には視聴者のいなかった「タートルズ」を共に観ていた同じ町内の同級生に成人式以来に会いました。彼は途中で他府県の学校に行ったので、それからほとんど知りませんでしたが、何と今は近くに住んで家業を継いでいるというのです。 それも最近ではなく、かなり前から近くに住んでいるというのですが、一度も会ったことはありませんでした。 しかし、同窓
変装した人
目下彼は品行方正になっているが、ただ他人にそれで苦痛を与えるにすぎない。そんなに何度も彼に目を留めるな! 曙光 275 「変装した人」ということで、最近ではあまり見かけませんが、十年以上前にはよく「女装したおじさん」なども街を歩いていました。梅田にも、ほどよく禿げつつ、ピンクのミニスカートという出で立ちのNさんがよく出没していました。 最近では「コスプレイヤー」という形で変装した人が肯定されている傾向にありますが、元祖コスプレイヤーとい
人間の権利と特権
われわれ人間は、うまく出来ないときには、出来そこないの文章を抹殺するように自分自身を抹殺できるただひとつの生物である。― われわれがこうするのは、人間の名誉のためであろうと、人類に対する同情からであろうと、われわれ自身に対する反感からであろうと。 曙光 274 何故か曙光のこの箇所を見た時に、一番最初に浮かんだのが戸田誠二氏でした。イエスでもキルケゴールでも太宰治でもなく、戸田さんでした。 コンプレックスプールというサイトに訪れたのは確
一番高貴なものが当て外れをするところ
われわれは結局だれかに自分の最上のものを、自分の宝石を与える。― そのとき愛はもはや与えるべきものを何も持たない。しかしそれを受け取る者は、それをたしかに自分の最上のものとは思わない。したがって、与える者が当てにしているあの完全で最高の感謝の心が、彼には欠けている。 曙光 445 感謝を当てにしている時点で少し違うような気がしますね。愛情のようなものを与えれば感謝が返ってくると思っても、期待通り返ってくるかはわかりません。感謝に限らず、
賞讃
賞讃や讃辞という言葉も頻繁に出てくるようになりました。曙光はどうしてもタイトルの似通ったものが多いですね。以前も「改」シリーズを作ったくらいなので構わないのですが、すぐに出てくるところが難題です。まあそんなに頭をひねる必要のあることではありません。 世の中では自己都合のためにということなのか「賞讃」によって他人をより良く働かせようとか気に入られようということをやる人がいます。そうした賞讃や讃辞というのものが相手の承認欲求を満たすとでも言
種族の純化
ニーチェは、ナチス的だという偏見がありますが、ナチスがニーチェを利用しただけで、彼は全然ナチス的ではないどころか、それを批判していました。ニーチェの妹がナチスにハマって、ナチスのイデオロギーに利用されただけです。 いまでもナチスと同じようなタイプの人がいますが、「自分が嫌いだと思っている人の状況によって、自分の気分が変動するなら、自分の気分は相手のコントロール下にある。外界の状況の変更という条件が、心の安穏の条件になる」ということを、一
お祭り気分
物思いに耽るようになりました。 ※(写真の方は僕ではありません) 最も熱烈に力を得ようと努力するほかならぬあの人間たちにとって、言葉で表し得ないほど快適であるのは、自分が圧倒されていると感じることである!渦巻きに沈むように、突然、深く、ある感情の中に沈み込むことである! ― まあ何という全くの無力さ!根源的な力に翻弄されて! ― もしわれわれが、一切のものを呑みこんで圧しつぶす印象にいつか一時的に身を捧げるとすれば、― それが近代的なお
無条件の忠誠の誓い
車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。 「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。 だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。 「教えてもらいに来てるんやろ?」と彼は言いました。 すいませんが、あなたは僕からお金をもらっています。
外見上の寛容
高校生くらいの時に何度か引越のバイトをしたことがあります。 その内の一回は、若い女性の引っ越しだったのですが、引っ越しが完了すると、ロングヘアの40代位の男性がやって来ました。 その男性は、その当時、京都ファミリーでやっていた催し物のジャグリングショーの人に似ているので、「ジャグリングショー」という名前で記憶しています。 引っ越し完了時に、おもむろにソファーに座り、女性の腰に手を回し始めました。そして当時高校生だった僕に語り始めました。
病人と芸術
あらゆる種類の悲観や魂の悲惨に対しては、まず食事の変更と肉体的な荒仕事を実験すべきである。しかし人間はこの場合、麻酔剤に手を伸ばしがちである、― たとえば芸術に。それは彼らにも芸術にも禍いとなる!諸君が病人として芸術を熱望するなら、諸君は芸術家を病気にしてしまうことに気がつかないのか? 曙光 269 うつ気味になった時は、食事の変更と、体を動かすということをまずした方がいいでしょう。高血圧気味でも、薬をのむ前にそういった事をまず行って
演説家のスキラとカリブディス
アテナイでは、聴衆を形式によって反撥させたり、形式で本題から逸したりすることなしに、本題のために聴衆を獲得すということは何と困難であったことだろう!そのように書くことは、やはりフランスでも何と困難なことだろう! 曙光 268 曙光内の注釈によると、スキラはカリブディスに面する洞穴に住む海の怪物の女、カリブディスは、スキラと相対した海の渦巻きの擬人化された怪物の女、だそうです。 もう少し詳しく注釈がほしいところですね。東洋文化圏には馴染み

なぜこのように誇り高いのだろう!
高貴な性格が野卑な性格と相違するのは、後者が前者と同じく若干の数の習慣や視点を持ち合わせていないことによる。すなわちそれらの習慣や視点は、後者にとっては偶然にも相続されておらず、また仕付けられてもいないのである。 曙光 267 つい先日、「なぜこのように崇高なのだろう!」という見出しがあったにも関わらず、すぐにこういった事を言い出す癖がニーチェにはあります。 ニーチェはその文体にも表れるように、気分的なものが多いですが、それがやたらと的
優美さがない
彼には優美さが欠けており、それが分かっている。おお、何と彼はこれに仮面をかぶせる術を心得ていることだろう! 曙光 266 「イメージ作り」という事を商売にしているような人がいます。ビジネスの場において、好印象を得れるようにその人をプロデュースするといったことのようです。 声のイメージなどもプロデュースすると謳っていましたが、当の本人が野暮ったく、京都で言えば「もっさい」の部類に入るような人です。 その人は、事あるごとにSNSで、高級車を
「主観」の未知の世界
太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭 人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません。そしてそれは社会的なカテゴリであり、誰かの都合で分類されたようなものです。 そういった人に触発されて自
演劇はその時をもつ
ある民族の想像力が衰えると、その伝説が舞台で上演されるという傾向が生じる。今や民族は想像力の粗雑な補充品を我慢するのである。 曙光 265 前半 昔の曲のカバー曲などを聴くと時に寒気がすることがあります。 オリジナルと同等以上の味があるのならばいいのですが、「なか卯」などで流れるようなカバー集のような曲は寒気がしました。その理由がよくわからなかったのですが、最近ではよくわかるようになりました。 それは、オリジナル楽曲を音符に変換して、音
思い違いをしたがる
自称アーティストの方々は、よく思い違いをしたがります。アーティストの特性を分析し、その分析結果を元に自分を当てはめようとし、他人からはそう勘違いされるように仕向けていきます。 「何かつかみ所のない不思議な存在」 自称アーティスト、自称芸術家の方々は、特にこのような属性を自分に帯びさせようと努力します。 努力している時点ですでに違うのですが、あまりに平凡な考え方を持っているとアーティスティックには見えないので、ひとまず人と違うことをしよう
具体的で生き生きとした矛盾
世の中には雰囲気だけで話していたり、人から聞いたことを吟味すること無くさらに人に説き、矛盾したことを話していることに本人が気づいていないという場合がよくあります。 「一見矛盾に見えてしまうが、隙間のニュアンスで読み取って欲しい、そうすれば解釈によっては矛盾しない」というような場合ならばよいのですが、そのようなレベルの話ではありません。 矛盾というと、一種の情報が多すぎる状態であり、ある定義に相反する複数の情報が組み込まれていたりするもの
力の魔物
必要でもない、欲望でもない―否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。― それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福になる。― まさしく人間や魔物たちがなり得る限りの幸福になる。 曙光 262 前半 「力への愛こそ人間のも
なぜこのように崇高なのだろう!
おお、私はこの動物を知っている!もちろんそれは二本脚で「神のように」闊歩する方がそれ自身には好まれる。― しかしそれが再び四本脚に逆もどりするなら、私にはその方が好ましい。その方が、全く比べようもないほどそれにとっては自然のままなのだ! 曙光 261 「二本脚」ということで、まずは小学校の時の絶望的な先生からご紹介していきましょう。僕が一番最初に「どうしてこの人から教わっているのだろう」と感じたエピソードです。 絶望的な先生 「二本脚だ
従属的な人々のお守り
支配者に従属することの避けられぬ者は、恐怖感を起こさせて支配者を抑制するような何ものかを、例えば正義とか、率直とか、毒舌とかを所持するべきである。 曙光 260 図体だけ見れば、勝てそうにないようなものでも、その対象が意識を持っているようなもの、つまり生命体であれば、意識に働きかけることによって物理的な限界を超えることができます。 社会構造上、支配者に従属することが避けられない場合や組織の大きさに怯んでしまうという場合でも、見方を変えれ
かつて讃辞を述べた者
10年位前、ライブドアという会社が話題になったことがあります。その時の様はよく覚えています。政治家や芸能人までもが堀江氏を持ち上げ、潰された途端に、意見をくるっと180度変えた様子をです。 彼を支持すると具合が悪いということになるのでしょうか、急に態度を変え始めました。 では、彼のどんなところをまず支持していたのでしょうか。かつて讃辞を述べた者たちは、何を支持し、その後何をもって支持しなくなったのかというようなところに疑問を持ったりしま
犬にお世辞
犬は特に好きでも嫌いでもないのですが、犬を飼う人は、犬に対しての態度よって嫌いです。どういう点が嫌かというと、人間側の都合なのに犬側の都合かのようにすり替えて正当化して居直る点です。 本当に犬のことを考えているのか疑問です。人間の思考の産物である主義やマナーなどで勝手に去勢したり、「もっとかわいく」と人間の感情のために、毛にハート型のブリーチをしたりします。理解できません。 馬を経済動物と呼んだり、犬を愛玩動物と勝手に定義するのは人間で