高慢ちきな様式
大きくふくらんだ感情を作品の中に注いで安心するのではなく、むしろふくらんだ感情を遠慮なく伝えようとする芸術家は大げさであり、その様式は、高慢ちきな様式である。 曙光 332 何度か触れていますが、人生で式典的なものを行うつもりはありません。そして、そうしたものはすべてどこかしらに高慢ちきな様式という感がしてしまいます。 「おめでとう」
正しさと限界
禁欲の教えは、感性的な衝動が狂暴な猛獣であるためにこれを根絶しなければならないような人々にとって、うってつけの考え方である。しかし実際またそういう人々にとってだけである。 曙光 332 これはZ会について触れろということでしょう。今回はZ会、つまり「絶倫すぎる男たち」について触れていきます。 世の中には絶倫になりたい人、食べ物などで何
まだ十分ではない!
ある事柄を証明するのは、まだ十分なことではない。人はまたさらに人間を誘惑してそれをさせたり、人間をそこに高めたりしなければならない。それゆえ知識のある者は、その知恵を語ることを― しかもしばしばそれが愚かなもののように聞こえるほど― 学ぶべきである! 曙光 330 学んでも学んでも、まだまだいくらでも学べるものはあります。 しかしなが
快活さをそしる者
人生に深傷を負った人間たちは、一切の快活さに疑念を抱いた。快活さとは、いつも子供らしい、子供っぽいものであって、死に瀕している子供がそのベッドでなお玩具をかわいがるときのように、それを眺めると、あわれみと同情しか感じえないような愚かなものを漏らしているかのように。 曙光 329 前半 快活さをそしる者ということで、少し路線は外れますが
理想主義的な理論は何を推測させるか
理想主義的な理論に最も確実に出会うのは、ためらわない実行者たちにおいてである。なぜなら、彼らはその理論の光彩を自分の評判のために必要とするからである。彼らは、その本能によってそれを摑み、その際全く偽善感を持たない。 曙光 328 前半 自己啓発洗脳組も、ブラック企業営業マンも、胡散臭いコンサルタントも、新興宗教と同じくわざわざ人を騙し
ひとつの寓話
今年に入ってからですが、久しぶりに手塚治虫氏の漫画を読みました。 もう10年以上も前に一度読んだ作品ですが、改めて読んでみるとやはり今の「後々のキャラ化のグッズ化」を意図していない純化された作品だけに、作者の意志がよくよく染みこんでいると感じました。 手塚治虫氏の「ブッダ」 そんなことで読んだのは手塚治虫氏の「ブッダ」です。 もちろん
自分の環境を知る
われわれは自分のいろいろな力を評価することはできるが、われわれの力そのものは評価できない。環境はこの力をわれわれに対して隠したり、示したりするばかりではない。― それどころか!環境はこの力を大きくしたり、小さくしたりする。われわれは自分を変化しうる量とみなすべきである。この量の能力は、恵まれた環境の場合、おそらく最高度の能力に匹敵する
離れて生き、そして信じる
その時代の預言者や奇蹟を行なう者などになるための手段は、今日においてもやはり昔と同様である。すなわち、僅かばかりの知識と若干の思想と極めて多くの自惚れとを抱いて、離れて生きるという事である。 曙光 325 前半 「離れて生き、そして信じる」ということで苦行や神格化についてでも触れていきましょう。 少し距離を起き、実態を悟られないままに
俳優の心理学
自分たちが演じる歴史的人物は演技をしているときの自分たちの気分と実際に同じであったと錯覚して、偉大な俳優たちは幸福になる。― しかし彼らはその点でひどくまちがっている。彼らが千里眼的な能力と詐称したがるその模倣力と推測力は、まさしく、態度や、声音や、眼つきや、一般に外面的なものを説明するのに十分な深さにしか到達しない。すなわち彼らから
空が暗くなる
晴れやかなところにいると気分も晴れやかになるように、どんより曇り空だとなんだか感傷的になったりする時があります。 陽の光はそれほどに気分にまで影響したりしますが、どんより空が暗くても、それはそれで味わい深かったりします。小糠雨などは絵になります。 といっても、空が暗くなり気圧が下がってくると、心境は少し変わってきます。思うままに情緒だ
多分医者なしで生きる
病人は、医者にかかっているときには、自分で自分の健康に気をつけているときよりも軽率であるように私には思われる。前者の場合、一切の指令されたことに厳密に関係していれば十分である。後者の場合われわれは、あの指令が目指すものすなわちわれわれの健康を、医者から勧められてするよりも一層良心的に注目し、はるかに多くのものを注意し、はるかに多くのも
無邪気の危険
無邪気な人間はあらゆる点において犠牲になる。彼らはその無知のために、過度と過度を区別したり、時期を外さずに自分自身に対して用心したりすることができないからである。そこで無邪気な、すなわち無知な若い夫人は、愛情を頻繁に享楽することに慣れ、その夫が病気になったり早く衰えてしまったりする後年には、享楽にひどく不自由するのである。 曙光 32
天気について
天気が非常に異常であって、当てにならないと、人々もお互いに信用し合わなくなる。彼らはその上改革好きになる。なぜなら自分たちの習慣を脱しないわけにはゆかないからである。そのために専制君主は、天気が道徳的であるすべての地方を好む。 曙光 320 雨の日は営業に出ずに資料の整理などをした方がいい、と言われることがあります。それ程に天候によっ
歓待
歓待の習慣の意味は、他人の敵意を麻痺させることである。もしわれわれが他人をもはやさしあたって敵とは感じない場合には、歓待は減る。歓待は、悪意をもったその前提が盛んである限り、盛んである。 曙光 319 歓待(かんたい)は、「手厚くもてなすこと」ということで、「歓迎!」と「接待!」だということですね。まさに「他人の敵意を麻痺させること」
体系家に注意!
体系家のお芝居というものがある。彼らは体系を仕上げようと思い、それの周りの地平線を完成するので、彼らは自分たちの弱い性質を強い性質の様式で登場させることを試みざるを得ない。― 彼らは完全な、一様に強い性格の人々の役を演じようとする。 曙光 318 一旦体系的に学んでしまうと、その体系からはなかなか抜け出せないものです。自分が教えられた
夕暮れの判断
終わって疲れているとき、その一日の仕事や、一生の仕事を反省すると、だれでも普通は憂鬱な観察をするに至る。これはしかしその一日や一生のせいではなく、疲れのせいである。 曙光 317 前半 朝は思考が働き、夕方は感情が働く、というようなことがよく言われます。確かに頭は午前中のほうが働きます。しかしパソコン作業は深夜のほうが捗ります。 「な
弱い宗派
相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者
放棄する
その所有の一部分を放棄し、その権利を断念することは、―もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。 曙光 315 何でもかんでもですが、「所有すれば喜びがある」という点にだけ着目している場合があります。しかし、所有すれば憂いがあります。 喜びはその場は文字通り喜びですが、維持継続したい、失いたくない、またもう一
思索家の社会から
生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半 思
もはや望ましくない友人
その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う
忘れっぽい人々
情熱が爆発するとき、夢や狂気で空想するとき、人間は自らと人類との前史を、すなわち、野蛮な歪んだ顔をもった動物性を再発見する。 曙光 312 序文 先日、自分より少し若い方とお話した時に、「メモをとることを忘れて商談がご破綻になった」というようなことを聞きました。それは体育会系同士のやりとりなので些か厳しすぎるだろう、ということも思いま
いわゆる心
一つの言葉でもたくさんの使われ方をします。どんな言葉でも、見る角度によって使われ方が違い、その定義の違いで誤解が生まれます。 そういうわけで、誤解なく伝えるということはある意味で不可能に近いはずです。言語伝えようとするとやはりどこかでズレが生じます。 ウンチクが好きな人は、ソシュールのシニフィアン(記号表現、意味するもの)とシニフィエ
善良な人々
人付き合いはしてもいいですが、せめて善良な人とだけ付き合ったほうがいいでしょう。 世の中には、悪人だけでなく、首を傾げたくなるような「勘違い野郎」がたくさんいますから、人と付き合うとしてもそのような人と絡んではいけません。絡むとしてもその人で遊ぶ程度で十分です。 胡散臭いコンサルが偉いに人になりたくて、やたらとうんちくをたれてきても、
恐怖と愛
恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いて
商売に精通していないのが高貴である
教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営
事実!そうだ虚構の事実!
歴史家は、実際に起ったことに関わり合わず、推定された数々の出来事とだけ関わり合う。なぜなら、後者だけが影響を及ぼしたのであるから。(中略) ― 底の知れない現実という深い霧の上の幻影の、絶え間ない産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、想像の中以外には決して存在しなかった事物について物語るのである。 曙光 307 抜粋 「事実だ事実だ」と
ギリシア人の理想
ギリシア人は、オデュッセウスのどこを賛嘆したのか?何よりもまず、嘘をつく能力や、狡猾(こうかつ)でおそろしい仕返しの能力、局面を収拾しうること、必要であるなら最も高貴な者よりも高貴に見えること、望むものになることができること、英雄的な頑張り、すべての手段を意のままにすること、才気を持つこと。― 彼の才気は、神々の賛嘆するところであった
けち
買い物のとき品物が安いとわれわれのけち振りは増して来る。― なぜか?小さな値段の差が、たった今けちの小さな眼をこしらえたからであろうか? 曙光 305 「けち」は、吝嗇(りんしょく)を意味しますが、節制とは異なり、細かな点についてでも物惜しみをするような様を意味します。 ニーチェの「曙光」には、今回のように「けち」や「浪費」という言葉
世界の破壊者
この人は或ることがうまくゆかない。とうとう彼は怒って叫ぶ。「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」この嫌悪すべき感情は次のように推論する嫉妬心の絶頂である。私は或るものを所有し得ない。だから全世界には何も持たせたくない!全世界を無にしたい! 曙光 304 「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」とは完全にゲームかアニメの世界のよう
人間通の気晴らし
彼は私を知っていると信じこみ、私とこれこれの交際をするから上品でえらいのだと自負している。私は彼を失望させないように気をつける。なぜなら、私は彼に意識的な優越感をあてがったのであるから。彼は私に好意を持っているのに、私はその償いをしなければならないことになるであろうから。 曙光 303 前半 人間通の気晴らしならぬ「ラーメン通の気晴ら