ローマに対するキリスト教の復讐

おそらく普遍の勝者を見ることより以上に疲れるものはないであろう。 曙光 71 序

普遍の勝者を想定する場合、社会的な横並び目線で考えることは避けなければなりません。それはいずれ自惚れや欠落への恐怖心、もしくはルサンチマンを発動せざるを得ないからです。

同じような年齢の人同士ではよく比較なんかが行われます。先日もどこかで書きましたが、やたらとランキングが気になるのはそうしたものの最たるものです。

そして勝敗を絶対的に考える場合でも、例えば他人を無視して自分だけで考えていく場合でも、過去との比較、過去の記憶のようなものから自分で自分に貼ったレッテルから、自分と自分を比較するという方向になってしまうことがあります。

絶対的に見ているようで相対的に見ている

しかしそれは絶対的に見ているようで相対的に見ています。

だからこそ「成長している」とか「あの頃は良かった」みたいなことが起こるのです。

では勝者とはいったい何を基準として考えるべきでしょうか?

まあ言うまでもなくアイツです。

でも「アイツに勝った」という格好は、アイツ目線の意見なので、本当はアイツに勝ったというのもおかしいのです。

これほどにまでアイツアイツと言いすぎているので、アイツは悪者で勝ち伏せなければならないというような印象を持っている人もいるかもしれませんが、「アイツに勝つ」という構造自体がアイツの内なのです。

いつまでも勝ちたがるのはなぜ?

「勝ちたい」

「勝者になりたい」

その裏には、他人や外界という分離の概念があり、あくまで客観的な社会・世界があってその中の一員だという前提があります。

そしてその中で、生存本能としての恐怖心があります。

だから「勝ちたい」「勝たねばならない」と思っている、という感じです。

何かに勝たなければ、自分の生命維持は保たれないということが根本にあるからこそ身の安全を案じて何かに勝とうとしてしまうということになります。

あなたに全幅の愛を注いでくれる
おばあちゃんと世界で二人きり

まあイメージですが、例えばあなたに全幅の愛を注いでくれるおばあちゃんがいるとしましょう。

そのおばあちゃんと世界で二人きりなら、「何かに勝とう」とするでしょうか。

人によって「生まれてきたときからおばあちゃんがいなかった」という人などもいますから、あくまでイメージとして、赤子の頃から世話をしてくれ、事あるごとに可愛がってくれたおばあちゃんと世界で二人きりになった時、「勝ちたい」という感情は起こり得ないという感じでイメージしてみてください。

もしそのおばあちゃんが、体を壊したとして、既に二人しかいませんから、医者もいません。

ということで、どんな行動を取るでしょうか?

何か体に良さそうなものを取りに行くとか、マッサージが効きそうならマッサージをしてみようとか、そういうことくらいしか浮かばないと思います。

そこには分離による恐怖心(敵対し攻撃されるという恐怖などなど)という感覚もなく、愛や慈しみしか残りません。

ということで、それが本来の世界です。

アイツによる錯覚がなくなり、夢から覚めれば、そした恐怖心はなくなっています。

自分の世界に入ってきた、というより体感し心が受け取った全ての生き物が等価値であり、慈しみの心だけが世界に広がる、という感じです。

ローマに対するキリスト教の復讐 曙光 71

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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