「無知の知」による迷宮からの脱出

一度哲学的領域に入ってしまうと、ソクラテス的な迷宮に入り込んでしまうことがあります。それは「無知の知」のような一種の納得せざるを得ないようなものを通過すると、社会生活等々がままならなくなってしまうというような現象です。無知の知そのものは、それはそれで概念としての空性であり、ある種の理として「それそのもの」という感じになりますが、そうした正しさがあると、混乱から迷宮に突入してしまうことがあります。

これは端的には、「定義できないのだから何も示し得ず、示し得ないのであれば、それらをもって何かを示すということは成り立たない」というような、言葉を並べただけでもぐちゃぐちゃなものが正しさを帯びているというところから、「ではそんな中で、話や契約が成り立つというのはおかしいのではないか」というような感じになって、社会生活がままならなくなってしまうというような感じです。

しかしこれは「精神としてどう捉えればよいのか」ということ、そして「社会のおけるあり方」を見出すことで、「無知の知」からおこる混乱、「無知の知」がもたらした迷宮から脱出することができます。

無知の知

ソクラテスが残したとされる「無知の知」は、「私は何も知らないことを知っている」とか「何も知らないことを知ったのだ」というようなものです。

「知らないことを知った」となると矛盾になりそうなものなので(といっても、先の知ると後の知るは、言語的な問題で、意図するところは異なる概念であるということもできます)、「知り得ないことを知っていると思っている」ということから前者を不知、後者をふんわりとした自覚という感じで捉えても良い感じになるでしょう。(なお、ソクラテスが、直接「無知の知」という言葉を残したというわけではないともされています)

まあ特にギリシャ哲学のお勉強のためのコーナーではないので、適当にしか示しませんが、言葉というもの、概念というものは、結構曖昧でその本質を知ることはできないということを知っているというような感じで捉えてもらえればよいでしょう。

「言葉の定義のための言葉」をまた定義していかなければならない

「知っている」ということで、「知っていることを説明する」ということになりますが、その際、各々の言葉の定義を示そうと思っても、示すために使った言葉をまた定義していかなければならないということになります。

なので、永久に説明は終わらず、本質的にその言葉が何を示すのかは示し得ないということから、「知っているということは成り立たない」ということを知っている、というような、屁理屈のようなものです。

そんな感じで、ある言葉の定義は、また別の言葉によって定義されていくため、関係性を示すにとどまり、永久に完全なる定義ができないというようなものを筆頭に、りんごを半分にしてもりんごではありつつ、さらに小さく米粒ほどになると「りんごのかす」等々概念が変わってくるため、りんごをどう定義すればよいのかわからなくなる、というようなものもあります。

そして、そんな言葉たちのそれぞれが完全に定義できるものではないということなのであれば、不完全なものをいくらつなげても、何の定義もできないということになり、そうであるのならば、「話」や「知」が成り立ったりするのはおかしいという感じになってきます。

別件で起こる解釈問題

さらにもし定義の問題を棚上げし、仮止めとして確定的に定義したとしても、別件で解釈問題が起こってきます。

例えば、本稿タイトルである

「無知の知」による迷宮からの脱出

「無知の知」によって、何かしらの迷宮から脱出する。

という意味と、

「無知の知」によって入り込んでしまう迷宮から、脱出する。

というような解釈ができてしまいます。ちなみに今回は後者です。

なお、こうした解釈は、一般的に本文の文脈によって推測していくことになります。

「説明」の範囲

大学等々のテストでありがちな、説明や論述を求められる「一行問題」に初めて当たった時、説明等々においてどの範囲まで記述すべきかというところで迷ってしまうことになったりします。

ソクラテスの無知の知的な思考で考えると、概念を示すための概念も示していかねばならないということになるので、「何をどこまで説明すればよいのかわからない」という感じで混乱が起こります。

「まさかそこまで考えなくても」

「そんなことは曖昧で適当でいい」

と思ってしまう人もいるかもしれませんが、そうであるならば、せめてその曖昧さ、説明の範囲の概要や例を何かしらで示すべきであるはずだと思っています。

簡単に「説明せよ」とはいいますが、説明文に登場する語の説明まで加えたほうがいいのかどうかという感覚は、慣れていかないとわかりません。

それに説明文に登場する語の説明をしても、その「語の説明」に出てきた語をまた説明しなくてはなりません。

そうなってくると単に「関係」の関係になったりしますし、「成立していることの総体である」とか、可能性の全体としての「論理空間」等々、ウィトゲンシュタインの世界に入っていったりします。

といった感じで、哲学的思考をする人にとってはそうした「説明」の範囲だけで大混乱が起こったりするわけです。

「社会の領域における意志の伝達である」という視点

そんな感じで、説明や論述、そして社会における契約等々を考える上で、語の定義に関する点を考え出すとどこまでも範囲が広がってしまい、しかもキリがないので永久に終わることがありません。

そんな時は、哲学領域を一度棚上げして、定義の範囲を「社会の領域における意志の伝達のための範囲」に限定していくと混乱を避けることができます。

「社会の領域における意志の伝達である」という視点で説明範囲を考えて文字通りの「適当」を探っていくというのが良いでしょう。

説明範囲の感覚

しかしながらやはり、どこまでの範囲で説明すれば良いのかわからないということになりがちです。

ということで、その説明範囲の感覚は、「参考文献に書いてあるくらいの範囲」という感じで慣れて掴んでいくくらいしかありません。

何かしら教科書のようなものがあるのであれば、その教科書で表現されているくらいの説明の範囲を目安にするような感覚です。

契約であればその手の契約書で触れているような範囲ということになりますし、論述であれば、その分野の論文を読めば感覚がついてきます。

社会におけるそれらは、「相手が聞きたがっていることを把握し、自分が言いたいことをある程度の範囲で伝える」というくらいのものです。なので「ある程度」で伝わればそれで問題はありませんし、厳密にしなければならないのなら、相手にその厳密さはどの程度なのかを聞けばいいのです。

ということで、哲学的思考により社会との適合性を無くし気味である場合は、そんな「適当」を掴んで社会との適合を図るという感じが一番良いでしょう。

「哲学領域と社会領域の切り離し」と「無知の知的な構造の把握」

語の定義やその範囲、「無知の知」的な混乱により社会と馴染めないということになれば、哲学は害悪になります。もちろん、社会と適合したからと言って、哲学的問題がある種の解決に至ったというわけではありません。

ただ、哲学領域と社会領域を切り離し、「無知の知」的な構造は、社会生活においては「解決しなくても問題はない」というところを発見しておくというのは重要です。

一方で、「無知の知」的な構造を把握しておくと、世の中で「決まっている」とされがちなことも「本当は曖昧な仮定にしかすぎない」ということが見えてきます。そうなると、社会の決まりごとに縛られることが少なくなっていきます。

「切り離し」と「適当」

そのような感じで、「無知の知」による迷宮からの脱出という点で言えば、基本的には次のような要素が重要になってきます。

ひとつは、無知の知自体は成り立っても、ひとまず哲学領域と社会領域を切り離すということ。そしてもう一つは、参考となるものに触れて社会における「適当」の感覚を掴むことです。

そしてそうした「切り離し」と「適当」が意識に馴染んだ時、社会において説かれていることで「自らを縛るもの」が部分的に解けていきます。

これは哲学的、論理的には曖昧になりつつも、社会自体、存在自体が曖昧なものであるということを示しうるような感じでもあります。

「語の定義の問題」が解決していないという点でいえば、哲学的、論理的には不十分感がありますが、この領域は、「それくらいしか論理で示し得ない」という到達点の発見自体で十分ですし、性質上それくらいしかできません。

概念の空性・不確定性・曖昧さ

直接的に「無知の知」を知っているということでなくとも、同じようなことを考えてみたり、その限界を知った上で様々な論理や決まり事を考えるのと、それに類似するようなことすら考えたことがないまま、様々な論理や決まり事を考えるのとでは、思考のあり方が異なってきます。

端的には、「語の定義の問題」から、概念の空性というか不確定性というか曖昧さがつかめてくるため、体育会系の「年上が偉い」という論理など自己都合の空論の暴論であることくらいすぐにわかってしまいますし、そうした論理や社会的な空気感にとらわれることも無くなっていきます。

「なんで?」

と聞いても

「そういうもんだろ」とか「決まっている」という曖昧で非論理的な答えしか返ってきませんし、いかにもっともらしい事を言っても究極は「無知の知」に突入することになるため、完全には成り立ち得ないことを示すことができます。

というこれらも、「なんとなくの印象」を示す程度です。

そういうわけなので、どのように説かれていることでも、己の内側でどう捉え、どう取り扱い、どのように活かすか程度の問題となる、という感じになります。

ということすら、印象から感覚で掴んでもらうしかありません。

という言葉すら、完全には伝わっているかすらわかりません。

でもまあ、何かしらの印象は起こるでしょうし、どう転ぶかはわかりませんが、何かしらの情報は変化するでしょう。

ということで、「伝わるかなぁ」という部分も含めて「何事にも執著しようがない」ということにも繋がっていきます。

蓋然性とあいまいさ

Category:philosophy 哲学

「「無知の知」による迷宮からの脱出」への4件のフィードバック

  1. bossu様

    おはようございます、ご無沙汰しております。

    とても興味深いテーマだったので、思わずコメントを返しちゃいました。
    いや、返したかったと言う方が当たってるかもしれませんが、今回もぜひ僕なりの意見を述べさせていただきます。よろしくお願いします。

    多種多様なシチュエーションを問わず、最終的には自分自身が現状に満足を感じるに至ったのであるならばそれでいいですよね。

    ですが、硬く絡み合ったコンセントコードみたいに、思考の配線を解いていくことは他の誰でもない己のつとめだと思います。
    自分の背負い込んだ哲学的領域における問いに関する落とし前を、社会の中でどのような形で位置づけていくのか本当に重要だと僕自身も肌で感じて生きてきました。

    「説明せよ」に関しては、まさしく僕も思い当たる節があり、一体どこから着手すればいいのか分からないんですよね。
    どうしても両極端になりやすいというか….。
    微生物の観察に望遠鏡、天体観測に顕微鏡を使うくらいの凄まじい的外れっぷりかもしれません。

    たしかに、知人との他愛もない言葉のキャッチボールにさえわざわざ変化球を織りまぜてしまうような難癖は僕自身も否めません。

    「アンタ(お前)難しく考えすぎ」
    「そんな軽い一言で終わらせるなよ」

    などと親、友達、僕に関わる周りの人間にまで一通り言われてしまう始末です。

    たとえ一言で結論づいたとしても、やはりその後の説明は冗長になる傾向が強いですね。
    一度気になり始めると、モノごとの骨の髄までしゃぶりつくしたくなるようです。
    もちろん真剣で悪意はないし迷惑をかけるつもりは一切はないんですが、不服そうな顔を見るたびに心外に思い、悲しいです。
    まぁ、話の内容もどちらかといえば暗く聞こえるのは分かりますが。

    ただなぜ、その表面的な説明で腑に落ちれるのか。
    そこからまた、細胞分裂のように1つの疑問が2つ、4つ、8つへと次から次へと広がっちゃいます。

    だからと言って、何クソッ!!と思い、こちらの意図が伝わるまで躍起になるのはただの執着ですから「どういう風に解釈するのかは、もうアナタに委ねます」と、自分の身のためにも、他人事としてそこは合理的に切り離すようにしています。

    哲学的問いが多い人間がこんなこと言うのもなんですが、伝わるなら語る言葉も少なく簡略な方がいいですね。語るに語って伝わらないならば、ただ疲れが残るだけですし….。

    あと話はそれますが、負傷されていた左手も完治したようで本当に良かったです!どのタイミングで言えばいいか迷っていました。
    遅かりしですが、この度の機会にて一言だけ伝えさせていただきます。

    1. コメントならびに左手へのお心遣いありがとうございます。
      (なお、恐縮ながら、歌詞の「引用の仕方」に引っかかりそうなので、一部非表示とさせていただきました)

      さて、本稿の内容をある意味裏返すと「社会的に通じているからといって、正しいというわけではない」ということ示し得ます。
      ただ一応、、状態・反応を含めた「相手への依存」は、この「心」にとって苦しみをもたらすため、相手が理解するかどうかについては、緩めに捉えておいたほうが楽という感じになります(伝わること自体が有り難いという意味で、伝わればありがたいというくらいの姿勢が理想的であると思います)。
      という点から、おっしゃる通り「他人事としてそこは合理的に切り離すように」ということは合理性があります。

      こうした「通じる・伝わる」といった点は、結果ベースで考えると、語気の強さや説明範囲の匙加減を適切に捉える事ができます。また、同じ言葉でもその単語に対する捉え方が結構曖昧だったりしますので、そうした食い違いを補正していくというのも良いような気がします。
      が、結局様々な主張は、たいていその裏側に隠れた意図があり、「単に面倒・負担が大きい」、「直視したくない・直接指摘されたくない」等々、精神の状態に応じて言葉でつじつまを合わせているというのがほとんどです。
      なので、そんな意図を汲み取り、精神の負担を和らげると伝わるということもあります。
      説明の仕方や範囲が不十分なわけではなく、本当は相手も論理上は理解しているという場合がよくあります。
      論理的な理解はあっても感情的抵抗があり、その抵抗の元となる不安・恐怖が和らげば、合意という意味での理解を示すこともあると言うような感じです。

      社会的な範囲についてはそんな感じですが、社会においてうまくやっていけているからといって、哲学的なすべての領域を心底納得していたり、一切の苦から脱しているか、という点については別問題です。

      しかしながら、それら哲学的領域は、他人が関わる社会とは別の領域であり普遍的な領域となります。
      なので他人を説得できたから良しというわけでもなく、他人に通じなかったからといって、どうこうなるというわけでもありません。

  2. 今回もコメントありがとうございます。

    あと、割愛された部分について….

    そこが一番面白いところだったのにー!笑

    ….と言いたいところですが、著作権的なNGというものやはりありますからね。
    子供が徐々に大人のルールをまとっていくように、僕もこうやってネット上の規範を知っていくのですね。(しみじみ)
    渾身のボケを冷静に処理される、ここにも笑いの旨味がありますけどね!

    とまぁ、話がそれました。

    そして改めまして、訂正に多大なご迷惑とお手数をおかけしました….。
    これからは、引用の仕方にも一段と気をつけたいと思っておりますので、何卒以後もよろしくお願い致します。

    少しずつ上手な受け身を取っていく方法も心得ましたが、今までダイレクトに僕を苦しめてきたのは、哲学的な矛盾における血が煮えたぎるような憤りでした。

    それが必要以上に相手を傷つけ、哲学そのものが返す刀により己を滅ぼすことにもなっていたわけですね。

    今ではこうしてbossu様とお話をさせてもらえることで僕は数多くのことを学んでいます。
    問題は問題としてそこにあるんでしょうけど、そうした感覚を共有できたことで、やっと何かが完結さえしているようにも感じているんです。

    とはいえ、これからも自分の中で哲学的な問いとは対峙していくのかもしれません。

    だけど同じような悩みを持ち、同じような願いを抱いた方々が集う「憩い」がこの場所にあると思います。

    立ち入り禁止のフェンスを超えて、古き友達と見つけた秘密基地のような感じですね。

    それが各人になんらかの形でしるべを示すことになり、再び自らの足でもって回帰していけるのではないかと思いますね。

    1. どうしても引用となると、引用元の明示などが必要になったり等々がありましたので、非表示としました。(なお、明示すればしたで野暮ったく、味が失われるというもったいなさがあります)
      「渾身のボケを冷静に処理される」というのが、またひとつの笑いの要素として機能するいうところは、人の感情の性質の面白いところだと思います。

      さて、哲学的矛盾は世のいたるところにありふれていますし、そこまで高度なものでなくても、例えば、法と実際の運用のあり方の食い違い等々の社会的な矛盾もたくさんありますし、矛盾だらけの「ローカルルール」もたくさんあります。
      勉強して原則を知ったり、色々と考えて合理的な考えを持った時、その対象に対して「知らない」とか、「意図的に守らない」というような人を見ると怒りが生じてきます。
      特定のルールを知らなかったり意図的に破りながら組織の上に立つ人、要領の悪い方法に固執している人などになるでしょうか。
      また、論理矛盾が生じていることを「そう決まっている」という言葉でしか返せない人にも怒りを感じてきたりします。
      しかしながらそうしたものも、社会的な領域と内側の領域とは本来関連していないことに気づくと、無駄な苦しみはなくなっていきます。
      とりわけ決着をつけた後に生じる「結果」がどのようなものになるのかを考えれば、大抵のことは対処の必要すらないことばかりです。
      それは社会的な領域だけでなく、哲学的領域についても同様です。
      結局大切なのは、「普遍性や再現性があるような『正しいこと』を発見し、心底納得して『苦から脱したい』」という部分だけであり、それ以外のものは蛇足的で趣味的な領域にしかすぎないという感じになっています。

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