お世辞屋に寛大

飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気付かれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることである― 全く寛大でいることが出来る神のように。 曙光 300 「お世辞屋の風土 曙光 158」、「犬にお世辞 曙光 258」と、お世辞屋、お世辞というのもよく出てきますね。ただ今回は、お世辞屋がメインというより野心家が主体となっています。 寛大かのように自分を偽り「お世辞」を言ってくる人にも「ありがとうございます」と言ってその野心を隠すという野心家

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一体隣人とは何だろう!

われわれは一体隣人について、彼の限界― 彼がそれでもってわれわれにいわば印づけ、印象づけるもののことを私は考えているのだが― 以外の何ものを把握するだろうか?われわれは彼について、われわれを変化させること― その原因は彼であるが、以外の何ものをも把握しない。 曙光 118 前半 「一体隣人」という字を見て「いっぽんでもニンジン」を思い出してしましました。「動物園の帰り道」で出てきた「およげたいやきくん」のB面ですね。 うさぎの場合は隣人ではなく隣兎ということになるのでしょうか。 そういえば最近、養子のウサギに人参を

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英雄主義の見かけ

敵の真中に身を投じることは、卑怯のしるしかもしれない。 曙光 299 英雄崇拝とその狂信者において、何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり「殉教」に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れであり、自慰行為であるのに、その狂信者の間においては「カッコいいこと」とされるため、卑怯のしるしかもしれませんね。 最近かどうかはわかりませんが、その崇拝対象は、何か人物に限定されているわけではありません。わかりやすい例としては、ヒーローやアイドルなど誰か一人のモデルや、「社会はこうあるべきだ!」などのあ

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新しい根本的な感情

われわれは決定的に無常であるということ。― 昔、人々は自分が神の血統であると示すことによって、人間の栄光の感情にたちいたろうと試みた。これは現在では禁じられた道になった。(中略)そこで現在人々は反対の方向を試みる。人類がその方へと向かってゆく道を、人類の栄光および神との親類関係の証明に奉仕させようとする。ああ、これもやはり無駄だ!(中略)生成は過去のを自己の背後に引きずっていく。なぜこの永遠の演劇の中で、ある小さな星と、さらにまたその上の小さな類にとって、例外がなければならないのだろう!そのような感傷をすてよ! 曙

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英雄崇拝とその狂信者

彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナポレオンこそ、「天才」と「英雄」に対する浪漫主義的な―啓蒙主義の精神から疎遠な―屈従を、われわれの世紀の魂に与えた人であったろう。 曙光 298 後半一部抜粋 「英雄崇拝とその狂信者」

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駄目になる

同じ考え方の人間を、違った考え方の人間よりも高く尊敬せよ、と指導するなら、青年は一番確実に駄目になる。 曙光 297 知識と知恵は違うとよく言われますが、たいてい語られている知恵は知識の部類の中に入るでしょう。たまに「難しい漢字を使う方がいい」と思って「智慧」を使う人がいますが、狭義の智慧はインスピレーションなどではありません。むしろ知識やインスピレーションとは真逆の性質であり、「そぎ落として捨てるからこそ迷わない」というようなものです。 たまに「無駄な知識を増やしても仕方ない」と言って勉強することをしない人がいま

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決闘

ぜひとも必要な時に決闘することが出来るのは利益であると思う。なぜなら私のまわりにはいつでも勇敢な仲間がいるからだ、とだれかが言った。決闘というものは、最後に残された全く栄誉ある自殺への道である。悲しいことには廻り道である。しかも全く確実なものですらない。 曙光 296 実際の肉弾戦でなくても同じことです。決闘は栄誉ある自殺の道、とニーチェは言いますが、栄誉などありません。ともすれば最後に「名前だけは残したい」「歴史に名を遺したい」というタイプの人がいます。前回の「奉仕の如才なさ」でも触れましたが、これは本能的な生存

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奉仕の如才なさ

奉仕という偉大な技術の中で、御(ぎょ)しがたい野心家に奉仕することは、もっとも如才ない任務のひとつである。なるほど彼は全体で一番ひどい利己主義者ではあるが、断じてそうは思われたくない(これこそ彼の野心の一部である)。 曙光 295 前半 野心家は、その野心のためならどんな時でもどんなことでも利用しようとします。そんな野心家を支持して同調し、一体化しているような感覚を持って、自分を大きく見せようとする野心家よりひどい野心家がいます。 それは昔ならば隠れていました。ところが今ではSNSにたくさん現れています。消費者が供

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聖者

女性からのがれ、肉体を呵責しなければならぬ人々こそ、最も感覚的な人々である。 曙光 294 賢者どころか聖者にすらなってしまうくらいでちょうどよいはずです。世の中にはたくさんの自称聖者・自称聖人がいますが、周りの人からの評価ではなく、己自身が聖者たるかどうかが問題です。それは心の安穏によって示されます。 さて、中学生の時に将来の夢を書きなさいと言われて、「大阪湾までゴムボートで行く」と書いた事がありますが、「ふざけるな」と言われたので、「ふざけてなどいない」と返しつつも、「では、将来なりたい職業を書きなさい」と言わ

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感謝する

一グラン感謝の心と感恩が多すぎる。― するとわれわれは悪徳で苦しむようにそれで苦しむ。われわれは自分の自主性と誠実ともどもに、良心の疚しさの手中に陥る。 曙光 293 (※一グラーン(Gran)は、0.06グラム。薬量の単位<注釈より>) 過去記事を見ても、「感謝しなさい! 曙光 5」「感謝を拒絶する 曙光 235」と、またまた同じようなタイトルのものが出てきました。 感謝の効用のようなものが近年様々な方面で語られるようになってきました。もちろんしないよりした方がいいですが、闇雲に意味もなく感謝を示すような行為ばか

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一種の誤解

誤解というものは厄介ですが、いつでもどこでも付きまとってくるものです。 「スプリンクラー」と「スクリンプラー」、どちらが正しいかはっきりわかったのは20代後半のことです。コントなどで、「道場六三郎氏」役を「六場道三郎」という名でやられてしまっては頭の中は混乱の一途を辿ります。 洞爺湖につられて「トーベ・ヤンソン」か「トーヤ・ベンソン」かがわからなくなってきたりしますし、「オイゲン・ヘリゲル」か「ヘイゲン・オリゲル」かがわからなくなってきたりもします。 パソコンで打つ分にはIMEがなんとか予測してくれるので、名詞はあ

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不遜

不遜とは見せかけで偽りの誇りである。しかし誇りにまさしく特有な点は、それが遊び事も、偽装も、偽善もできないし、願いもないということである。― その限り不遜とは、偽善の才能のない偽善であり、非常に困難なものであり、大ていは失敗するものである。 曙光 291 前半 不遜(ふそん)、つまり思いあがりであり、へりくだる気持ちのないこと、これを意図的にそのように演出している様子は、滑稽なものですが、こちらは自然体でいるのに、「おい君、遜り給え」と主張してくるタイプの人がいますね。 昔はよく「お酌してまわれよ」と言われたもので

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浪費

興奮しやすく突飛な性格の人々にあっては、最初の言葉や行為はほとんどいつも彼ら本来の性格を特徴つけるものではない(それらは環境によって示唆されたのであり、いわば環境の精神の模倣である)。しかしそれらはたしかに語られ、なされたのであるから、その後に続く性格に基づいた本来の言葉や行為は、しばしば調停や、回復や、再忘却などに費やされざるを得ないのである。 曙光 290 浪費と消費、似て非なるこの言葉たちは、無駄遣いと生き金、というわかりやすい尺度がありますが、一般的に言われる消費ですら、厳密に言うとほとんど浪費です。 浪費

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美徳に反対のことを言うことが禁じられる場合

臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす。そして無分別な人間は、同情に反対のことが言われると憤激を示す。 曙光 289 先月、「いろんなことに挑戦していきたい!」「どうしてでしょうか?」という問答について少し触れました。「挑戦したいからです」への挑戦状ですね。 「臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす」 とニーチェは言いますが、確かに臆病だからこそ奮闘している姿に、自己陶酔するのでしょうか。チャレンジすることに限らず、残業時間を自慢しているようでは同

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上品な人々の悲劇

心からの親密さをうまく示すことの出来ない上品な人々は、その上品な性格を、慎しみ深さや、厳格さや、ある種の親密さの軽蔑などによって推測させようと努める。彼らの強い信頼感は姿を見せることに恥じらいを抱いているかのようである。 曙光 288 よくビジネスマナーなどの研修で言葉遣いについて研修をすることがありますが、相手尊重した版、こちらが遜った版、丁寧に言った版、そして「おビール」。 おビールって何よ? 美化語です。 何じゃそりゃ。 というようなことを経験したことがあります。 キャシー塚本先生のおマヨネーズのようなもので

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二人の友人

友人同士がいた。しかし彼らは友人ではなくなり、どちらの側からも同時にその親交を解いた。一方は、自分が誤解されすぎたと思ったからであり、他方は自分が知られすぎたと思ったからである。―しかし両方共その際間違っていた!― 彼らのうちどちらも、自分自身を十分には知っていなかったからである。 曙光 287 ニーチェは時折、古典落語のような事を言い出します。ニーチェに限らず古代ギリシャの哲学者達もそのような傾向があります。とんちが大好きですから、比較的容易な入門書のような本で気楽に読むと、下手なお笑いを観るよりも面白おかしかっ

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お客さんのお客さん

昔、頭文字Dを観ている時に、ふと思ったことがあります。 乾信司との最終戦でも出てきたブラインドアタックですが、かつてのバトルでは、相手の車体を見るのではなく、相手のヘッドライトの照らしている先を見る、という旨のことを言っていました。 同じようなことを、似非コンサルタント達に言いたい、いや、言いたいと思った瞬間に本人や、そんなコンサルにお世話になっている、もしくはその予備軍には言いますから、既に言って回っています。 いつでも「客単価をあげるために」とか「回転率をあげるために」とか、「集客アップのために」とか、そういっ

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家畜、愛玩動物、およびその同族

最も兇暴な敵として、はじめから植物や動物の間を荒らし廻り、最後には、衰弱し不具になったその犠牲のために、さらに思いやりさえ要求するような生物の側からの、植物や動物に対する感傷ほど、嫌悪するべきものがあろうか!この種の「自然」に面したとき、人間―もし彼が考える人間であるとすれば―にとっては何よりも真面目がふさわしい。 曙光 286 「家畜」や「愛玩動物」果ては「経済動物」などという呼び方は、人間が人間との間で勝手に使っている言葉であって、当の動物たちからすれば言われる筋合いのない言葉です。家畜とされるネパールの山奥で

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うさぎの斜頸

先日、養子のうさぎが、「もげているのか?」と思えば、ずっと同じ方向に首を傾げていたので、おかしいなぁと思いつつも、朝のうちは様子を見ていました。外出後も同じ方向に傾けていたので、「やはりおかしい」と思いながらも既に夜だったため、動物病院も開いておらず、てんやわんやになりました。 ひとまず動物病院の診察券を見ると、土曜日も午前中だけは開いているようだったので、朝までの間同じ部屋で寝ることにしました。 具合がわるいからか、あまり食事も摂らない様子でした。 ひとまずは獣医に接し方のアドバイスをもらうまでは、変なことはしな

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自我はどこでおしまいか?

大ていの人々は、自分たちが知っている事柄を引き立てるものである。まるで、知っていればそれがすでに自分の所有物になるかのようである。自我感情の所有欲には切りがない。 曙光 285 前半 自我は関連性と言うもので成り立っていますから、というような話を先日、「自我は一切を持とうとする」というところで触れたどころか何度も何度も言っているような気がしますが、ニーチェは、アフォリズム形式、短文の寄せ集めが大好きなので、どうしても同じような事柄が何度も出てきます。 「なぜこのように崇高なのだろう!」の直後に「なぜこのように誇り高

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新しいものを古いと申し立てる

多くの人々は、新しい出来事の話を聞くと興奮するように見える。彼らは、新しい出来事がそれを先に知った人に与える優越を感じるのである。 曙光 284 新しいギャグほど寒気を催すものはありません。歌モノやリズムネタ、一発芸など、小学生が真似をするようなものは絶望的なはずですが、大の大人になってもそのようなことを面白いことだと思っている人がいますからもっと絶望的です。そのような大人は幼稚園くらいから学び直したほうがいいでしょう。 それらは根本的に一過性の流行的なものであり、新奇性、奇抜性という笑いの一要素が尖っているだけで

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家庭の平和と魂の平和

われわれの普通の気分は、われわれが自分の環境を維持することのできる気分に依存している。 曙光 283 自分の環境を変化させる事こそ、「ひとまず今のままでも大丈夫なのに新しく危険なことをする必要はない」という抵抗感を一番感じる時です。家庭の平和と魂の平和という言葉のごとく、気分としての平和な状態を強く望んでいます。 確かに新しく危険なことをわざわざする必要はどこにもありません。 したいとも思わず、というのならばいいですが、心の何処かでは、「本当はやりたい」と思っているにもかかわらず、それを現実的に考えた時に出てくる煩

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美しさのもつ危険

この女性は美しくて賢明である。ああ、彼女が美しくなかったら、どんなにはるかに賢明になったことだろう。 曙光 282 本であっても人の話であっても、その情報がどんな情報であれ、情報というものならば、内容とそれ以外の属性は切り離さなければなりません。 その人の経歴や肩書などの属性は、その情報を解釈するにあたっての単語のもつ意味、つまり定義付けの「ぶれ」をなるべくなくすために、参考程度には使えますが、それ以上の意味を持たせてはいけません。 たまに、「権威による事無く、肩書を気にしないように」という旨のことを言ってくれる人

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自我は一切を持とうとする

人間は一般に、所有するためにのみ行為するようにみえる。少なくとも、一切の過去の行為をあたかもわれわれがそれによって何かを所有しているかのように見なす言語は、この考えを暗示している(「私は語った、戦った、勝った」ということは、私は今、私の言葉、戦い、勝利を所有している、ということである)。これとともに人間は何と貪欲に見えることだろう!過去さえわが身からもぎ離そうとせず、まさにそれをやはり相変わらず持とうとするのだ! 曙光 281 外国人から見ると、日本語は主語を省略しすぎだということをいいますが、主語を抜いたほうが本

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順位

第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛すべき地下のものである。 曙光 446 頭が泥沼にはまりこんでいる思想家というものは意外と結構いるものですが、当然に深みのしるしでも、徹底性のしるしでもありません。愛すべき馬鹿野郎であり

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