成長してしまったゆえに、ということなのか、以前は人と接していて戸惑いが起こることがよくありました。否、戸惑いとはまた違うのかもしれませんが、今でも違和感を感じてしまう時がたまにあります。
なぜ昔はこのタイプの人とも普通に話せていたのに、今ではうまく話せないのだろう、というような感じです。
二十代前半頃までは普通に話ができたりしたのに、今では普通に話をすることができないという場合があります。
それはきっと物事をどう捉えればよいかということに関して、最適な方法やあまり適していない方法をたくさん見聞きして、経験してきたからこそ、効率性のために遮断してしまうということが起こっているのでしょう。
つまり、「面倒だ」ということなのでしょう。
すべて論理で示せるが、示すのが面倒
まあ例えば「挨拶って効率悪くないですか?」ということを言うバイト君がいたとしましょう。
どういう意味で効率が悪いと思っているのかということもわかりますし、すべての社会関係性を示せば、「効率が悪いなんてとんでもない」ということを示すこともできます。
そうした人としては、「なるべく省エネルギーで」という意図もありながら、我が事として「頭を下げるようなこと」で起こる自尊心への影響を気にしているというものがあるのでしょう。
しかしながら、経済活動としての理屈で言えば次のような構造もあります。
「挨拶程度の言動であっても、顧客との親和が起こりやすくなり、その影響で顧客のリピート率が上がり、結果新規開拓の必要性が下がり、広告宣伝費などを浪費しなくて良くなる」というような部分です。
「挨拶を省略することによって失った顧客の再訪の分の売上をどうやって埋めてくれるのかね?」
という感じですね。
あまりそうした面を数値化して捉えることも少し気が引けますが、商人ならば当然に理解しているような事柄です。
しかしバイト君としては、自分の都合しか見ていません。
ただ、バイト代を稼ぐにしても他人の褌で相撲を取っていることには違いがなく、そんなバイト先においては、「使える人は重宝され、使えない人はそのうち肩を叩かれる」という構造もあるわけです。
ということで互いの都合がマッチしないとそのうち自己都合すら叶わなくなるという面が常に潜んでいるわけです。
感情面で判断している人を論理で説き伏せるのには時間がかかる
ということを説明しても良いのですが、感情面で判断している人を論理で説き伏せるのには時間がかかったりしますし、わざわざ説明などしなくてもある程度理解している人を探すほうが早いという構造もあります。
というわけで、「面倒だ」という感じになってしまいます。
「すべて論理で示せるが、示すのが面倒」という感じのことをすぐに思ってしまうわけです。
そういうわけなので、普通に話すということが難しくなったりしているわけです。
うまくいっている人たちばかりだけと付き合うくらいでちょうどいい
僕も昔は相手が変な人であっても、いろいろと素直に物事に取り組んだりしました。
しかし、すべての経験を振り返った時、「うまくいっていない人たちの論理に合わせるとやはりうまくいかなくなる」ということに気付いてしまいました。
従業員が割安の品を探している間にもかかる人件費
そういえば、昔、従業員が一回きりの購入を予定している機器に関して、全国的に価格を調べて、結果相場よりも1000円安いものを見つけるのに5時間費やしていたことがあります。
その5時間の間に、会社としては数千円払っています。
本人としては一生懸命探した自分を評価してくれ、という感すら出していましたが、どうも経済観念が根本からズレているとしか思えません。
確かにその従業員としては、価格を調べるということを自分の作業として決定し、それをするだけで数千円稼げるのだから合理的です。
「そういうことはやめなさい」というと不服そうです。
そりゃあ、ある意味では不服でしょう。楽して稼げるということが次からは叶わないということですから。
ということでクビにしたことがあります。
検討している間に発生する人件費や機会損失
そんな感じの感覚を持っている人も未だにお客としてやってきたりもします。
単価の低いことをわざわざ「会議で決めます」とか「社内で十分に検討後に連絡します」というような感じです。
検討している間も賃金が発生していたり、その間にも機会損失があるということがあまりわかっていないような感じがします。
しかしながらうまくいっている人たちは単価が大きくてもパパっと決め、次々に物事を進めていきます。細かいことは気にせず、決断が早いという感じです。
そうした気質だからこそ、事業もうまくいっていて、大きな単価のものでも気にすること無く頼んだりできるという感じがしてしまいます。
ということなので、ある時から、そんな感じで大したこともないのに細かいところをウジウジ気にしている人たちに対して、「気持ちはわかりつつも合わせない」ということにするようにしました。
その方がうまくいきますし、うまくいっている人たちばかりで、どんどんうまくいき続ければそれで良いのではないか、と思ったりした次第です。
失敗という良い経験
物事が失敗するか成功するかということに関して、二元論で考えれば成功するに越したことはありません。
しかしながら、大きな失敗をした経験から、失敗した時に起こる実際の損害を目の当たりにして、「ああ、こんなもんか」ということを思った結果、失敗を恐れないとか、多少の損失は受け入れるという感じがもたらされる方が圧倒的にその後の強みになります。
ある程度大きな失敗を繰り返すと
「命があるならまあいいか」
というような感じになってきます。
細々したことをウジウジと検討していれば、確かにコストは10%、20%削減できるのかもしれませんし、時に半額という場合もあるでしょう。
しかしながら、そうしたちまちました感じの場合は、動きが鈍いので売上の方も少なかったりします。
パーセンテージで考えると合理的で賢く生きているように見えても、少し割高のものを掴みつつもガンガン攻めている人と比較した場合、結果としての利益、絶対数に大きな開きがあるということがよくあります。
その差はきっと大きな失敗の経験のような気がしてなりません。
うまくいっている人の開示性は結構ものすごく、社外秘としか思えないような情報をどんどん見せてくれます。
現状の数字やこれから先の事業計画なども包み隠さず「どうですかね?」という感じで自ら開示してくれたりもします。
そんな感じなので、いろいろな人から色々な角度でアドバイスが入ることになり、洗練度がどんどん増していっているのでしょう。
というような人たちを接していると、ウジウジと値踏みしてくる人達と接する度に
「そんな金額、といったら失礼かもしれないが、そんな金額のことに対して社内で検討か」
という気分になってしまったりします。
もちろん自分が十代の頃だったら気にして仕方ないような金額だったりもしますし、そうした気持ちも理解できるのですが、
「あんまり難しく考えると、難しくなるだけですよ」
ということを思ってしまうので、値踏みをされたり、様々な点について情報の出し惜しみをされたりすると
「そんなふうにしていたら、うまくいくものもうまくいかなくなるよ」
と言いたくなってくるのですが、
そうした構造を一から十まで説明するのが
「面倒くさい」
と思ってしまうので、
「好きにしてください」
と言ってしまったりするわけです。
そんな感じで、「若さは武器になるのよ」と思っている人がいて、「私は若いのだから頭を下げるのはあなたよ」という感じで来られても、
「いちいち説明するのがめんどくさい」
と思ってしまったりするので、話自体を切り上げてしまったりするわけです。
昔に比べて変わったのは自分の方ですが、うまく話ができないというのは致し方がないと思っていますし、直そうとも思いません。
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浅学菲才の値踏み。
ここち惑ひ侍りぬ。
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