問ひわきまふる心愚かならず

質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。

抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。

ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちらから質問をすると「質問に質問で答えるな」と言い返してくるような人がいたりもするので困りものです。

こうなると愚かにしか見えませんが、意図するところは論理上の理解というものではなく「別のところにある何かの感情の方に問題があるのだろう」という推測が立ちます。

「感情的なうねりを無理やり言語で表現するとそうなった」という程度です。

また、学術論文等々においても「そういうことじゃない」と思ってしまうことが多々あります。一つの仮定の中で一つの可能性としてはありうるということであっても、「科学が証明した!」ということにはならないだろうと思うような感じです。

それは一種の科学的方法というものを用いて示したものは正しく、主観領域や哲学的、形而上学的な部分をも説明できるという事を思っているところが発端となっています。しかし、厳密にはそれら客観的観測やそれによって示された方程式と哲学的領域は結びついていないということがよくあります。

人と人との相互コミュニケーションにおいては客観性が重要にもなってきますが、「私はそう感じた」ということは、どうあがいても完全には示し得ないため、客観性のあるものを用いた相互理解は完全には果たし得ません。

ということは、何かしらの客観的事実があるからということでは証明し得ない、という意味で完全にナンセンスということになりますが、「それならばどうすれば良いんだ?そうするしか無いじゃないか」ということでムキになる人たちを説得するには、相手にそうした論理構造を理解してもらうしかありません。

相手が理解しないのであれば、致し方ありません。しかし相手が理解しないからと言って、理の構造が壊れるということはありませんし、自分で決めるとか選ぶとかそうした次元のことではないので何ともなりません。

相手の主観領域のことなので、「相手が理解しているか」ということを完全に知ることはできません。できるとすれば間接的な「印象」の領域における推測くらいしかない、というのが本当のところです。しかし社会生活においては、それで特に問題は起こりません。

「この質問をして私が手に入れたいものは一体何なのだろう」

それを自省することができれば、意志の本来の姿が見えてきます。

意味を記述しても主に何某か別の意味を記述するにとどまります。

意味と主観とは本来切り離されています。

感情により破綻した論理が生まれ、また一方で、理から外れると無駄な感情が働きます。

それらが静まると見えるもの、それが本来の現実です。

問いに潜む問いの意図。

問ひわきまふる心愚かならず。

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「問ひわきまふる心愚かならず」への3件のフィードバック

  1. ぼっすーさん、こんばんは。

    今日のひとことを読んで、ぼっすーさんが年賀状を書かかれることにびっくりしました。日本郵政には搾取されないぞ!とか言いそうだと思ったのです。一方で、本当に書きたい人には手書きで気持ちや挨拶を書くんだろうなぁと思っています。

    ずーっと思っていたのですが、ふと考えたことに対する答えらしき内容がたまたま借りた本に載っていたり、膨大なぼっすーさんの過去の記事の中から偶然見つけたりします。

    この記事や他の類似記事を読んで、勢いで安易に質問をしていた自分が恥ずかしくなりました。

    それにも関わらず、ぼっすーさんにこうしてコメントを読んでいただけること、応答してくださること、本当にありがたいことだなぁと思います。

    そんなことを思いながら、生活していると、私は決して一人ではなく、あらゆるものに生かしてもらっているんだと感じます。

    今回は読んで溢れでる気持ちをコメントさせていただきました。今後もきっと湧き出る疑問や感情に、沈黙することができず、絡んでしまうと思います。すみません。

    どんな意図があって質問をしているのか明らかにし、本当に必要な質問をできるようになりたいです。

    また、コメントは見た目は23歳中身は子供が書く読書感想文的な感じで迷惑でなければたまに書きたいなと思います。

    目が潤んで目が合わせられない質問に対して返答ありがとうございました。

    1. 構造上「質問をする」という形式を使って単に攻撃のようなことをすることも可能です。それ行為の奥にある意図が、保持する概念への執著であるのか、知の探求であるのか、一種の慈しみであるのかによって、その行為の意味が変わってきます。
      ひとつの修辞学的詭弁のようなものですが、直接的な攻撃ではなく若干のオブラートに包んだような形で相手をやり込めたり、不利になるであろう言葉を吐き出させようとするような意図を持った質問のようなものがあります。
      例えば、自尊心の補償を意図し、対象をカタルシスの踏み台としている行き過ぎたフェミニストのような人が、「どうして企業の役員は男性ばかりなのでしょうか?」という質問をするようなものがそれに当たるでしょう。

      ということなので、問いの性質も千差万別という感じになっています。
      少なくとも知の探求であれば、問題はないと思います。

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