それ「自体」

昔人々は、おかしなものが性質として付着している物がわれわれの外部に存在するかのように、おかしなものとは何であるか?と問うた。

現在人々は、笑いとは何であるか?笑いはどうして起こるのか?と問う。人々は考えたあげく、よいものそれ自体、美しいものそれ自体、崇高なものそれ自体、悪いものそれ自体は存在しないが、われわれが自分の外部や内部の物にそのような言葉を与える魂の状態は存在する、ということをとうとう確定した。 曙光 210 抜粋

それ「自体」を指していると考えていても、「それ自体」の付属した性質、つまり付着した性質がついたまま捉えていることはよくあることです。

例えば、愛国ということを考えてみても、自国のことを好きなことはかまいませんが、他国と相対的に比較して、よい所をもっと主張しようとしてしまいます。

その結果他国への怨恨が生まれるような事がありますが、恨みの気持ちは他のだれでもなく自分の心を蝕みます。

好きな気持ちがあるのはいいですが、その好きな気分、ある対象を好きでいることによって心地よく安心できる気分を「永続させよう」と「アイツ」が考えだした時に、妨害要因に対して攻撃態勢をとります。

それが所謂、執着というものです。「この心地良い気分を永続させよう」と考えて結局苦しみが増えてしまう、本末転倒の典型例です。

ただのパターン化

即時的にそのような対象がはじめからあって、ずっと続いているわけではありません。その場その場で似たような現象が続いているだけです。

その対象に出会ったのも変化があったからであり、また、何度か繰り返し同じような体験をした結果、記憶に条件反射のよう蓄積されて、パターン化されていったのですが、毎度毎度同じ経験をしているわけではありません。

一つの経験の中にも数えきれない変化があります。ただ、そのような体験をできるということは、同じような経験ができる可能性は高いものの、「変化なし」というわけにはいきません。そのようなことに期待や憂いを抱くのは、馬鹿げています。これは諸行無常と「執著による苦しみ」の関係性そのものです。

贈り物による相手の変化の期待

さて、例えば親友がいたとして、もっと仲良くなろう、思い出をつくろうとしてプレゼントや「サプライズ」を演出をしたとしても、あまり相手の感情が動かないという場合があります。つまり反応が薄かった、というような場合です。

贈ることは贈った時点でもう終わりです。その時の相手の反応やこれからの態度の変化を期待してはいけません。

「じゃあ何のためにやるのか」というように思ってしまいますが、何のためでもありません。ただその時起こった衝動による行動ですから。それでも「まあ贈ってみようかなぁ」くらいに思えないのなら、やめておいたほうがいいでしょう。

そこで、贈ったのに贈り返されない、というようなことも起こるかもしれません。しかしながら、こちらは贈りたいから贈ったのであり、贈り返されるために贈ったわけではありません。

家族だ、親友だ、といったところで、その人達も「恋の衝動」に駆られ、意識の大半が「恋心」に向いている間などは、こちらのことなどほとんど頭にありません。

で、それが落ち着くと、第二くらいの順位だったものが繰り上げ式に上がってきて、また付き合いが始まる、と言った具合です。人付き合いなどその程度だと思っておいたほうが賢明ですね。

それ「自体」 曙光 210

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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