情報の破壊
気力や体力がない時、「治そう、回復させよう」と考えます。それでうまくいくときもありますが、うまくいかないときもあります。 それはマイナス要因が大きすぎる時です。 このマイナス要因というのは何かということを突き詰めると、意図の障害になっている情報状態です。 また、治しても治しても復活する体のこわばりや痛みがある時、特定の情報による慢性的な緊張や炎症が潜んでいる場合があります。 なので表面的に治療しても、また緊張によって復活します。 何かしらの表現としての情報が残っているわけですね。 で、それを意識上の解釈変更で正そう
肚の据わりと集中力・やる気のルート選択
肚の据わりとやる気について、そして集中力・やる気のルート選択でも触れていきましょう。極めて大まかに軽くだけ触れておきます。 大きく分けると肚(はら)の気と、「集中力・やる気のルート選択」についてです。それぞれ別々のことについて触れますが、前者は東洋的、後者は西洋的かもしれません。 肚(はら)の気 まず、肚(はら)の気について触れていきます。気と呼ぼうがプラーナと呼ぼうがそのあたりは何でも構いません。 まあいわゆる下丹田、臍下丹田であり、あえてまとめると第一・第二チャクラについてです。第一は会陰や尾骨、第二は小腸・仙
現実を無視する
「なんとかなる」の続編です。 それは「現実を無視する」です。 「現実が変わらないのであれば困る」ということになりますが、その意見は自我の意見です。現実を変えるために「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。 「なんとかなる」と心底思って安心して意識の向きが明るくなったのに、現実を確認してまた騒ぐということを繰り返してはいけません。 なので、より厳密に言えば、「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視するということです。 「現実を無視する」
なんとかなる
「なんとかなる」 これは僕が17歳くらいの時、父の事業破綻の影響が家庭内にも本格化し始めていた時、母が買ってきた招き猫のような置物に書いてあった言葉です。 「なんとかなる」 うん。いい言葉ですね。 ということで、なんとかなるということについて、自我とバトルを繰り広げてみましょう。 「なんとかなるという証拠を見せろ」 というのがアイツこと自我ですね。 なぜですか?なぜ証拠を見せろ、ということになるのでしょうか? 安心したいからですね。 いつの話ですか? ひとまず今ですね。 「今すぐに安心したい」 ということです。 も
閉ざされた傷の蓋
物事の表面上の出来事を追い、現実的対処をしているだけでは何度も繰り返されるような問題が起こることがあります。 解決したかのように見えて、構成する人や状況を変えて何度も起こる現象です。 やはりその奥には、巧妙に隠された原因があります。 コロナ感染以降ですが、一度地に落ちたような感じになりました。凡夫に戻るような感覚です。 ただそれには理由があります。いわばやり残していることを片付けようという意図です。やり残しているというよりも、「あっても構わないが、キレイにしておいた方が良かろう、そうするには一度凡夫に戻る必要がある
困難を乗り越えることについて
「困難を乗り越えること」についてでも触れていきましょう。いきなりですが、困難は、困難を欲した時にしか生じません。「何かしらの困難を乗り越えることで、何かを叶えたい」というものであっても、「こんな困難はコリゴリだ」という場合でも、いずれにしても、それらは「作り上げれたもの」にしか過ぎません。 困難というものは、それを支える「因」と「縁」が無いと生じません。ということで、困難というものも、「今、形成されているもの」です。 この因縁は、世間一般に捉えられている因縁、つまり「原因と諸条件」よりは一段階抽象的なものとなります
許せない相手を許すこと
新約聖書をはじめ、「相手を許しなさい」というようなことがよく言われたりします。自分のために相手を許しなさい、むしろ相手に感謝をしなさいというようなことまで言われたりします。ただ、巷にあふれるものは、結局聖典や偉人の言葉の引用ばかりで胸にも頭にもスッキリ入ってきません。ただのゴリ押しです。 普通の感覚でいくと、何でもかんでも相手を許していたら「人を傷つけたやつがやったもん勝ちじゃないか」ということになってしまいます。なので、到底受け入れられません。 ということで、こうした許せない相手を許すことについてでもふんわり書い
断捨離や掃除で環境を変える
意外と「断捨離」や「掃除」といったキーワードがいつもサイト内検索上位にあります。ということで、断捨離や掃除で環境を変えるということについて触れていきましょう。 世の中では「気分が落ち込んでいます」という人に対して、精神的なアドバイスをしたりはするものの、どのような生活をしているのかの確認、改善案の提案などはパスされています。基準が各々で異なり、下手に提案すると喧嘩になるからです。 本来は、「考え方」から、住環境、職場環境や学校環境、食生活等々多岐にわたって確認してから、それぞれを良い方向に持っていくというのが正しい
「いつかやる」の「いつか」が来るための勇気
「いつかやる」の「いつか」が来るための勇気ということで、極めて簡単でゆるいお話をしていこうと思います。 世の中では「いつかやる」と言っている人は、「いつまで経ってもやらない」という感じで取り扱われています。 また自分自身のこととして、「いつかはやるぞ」と思っていてもなかなかそれが現実的に進まなかったというようなこともあります。 なぜでしょうか? 「いつかやる」と思っているということは、一応やりたいこととして設定されているようなことになります。 それでも現実には歩みは進みません。 なぜですか? そしてどのようにすれば
やる気の活性化
うつに関して直接的に「やる気の活性化」について触れていこうと思います。サイト内検索においても「やる気」は、常に上位にあります。ということは、それほど需要があるテーマなのでしょう。 「やる気が出ない」 ということに関して、様々な方向から様々なことが説かれていますが、どれもこれも部分部分的な感じになっていて、さらに今そこそこ元気な人がさらに元気になるというような程度の目線で語られることが多いので、絶望的にうつ状態にある人には耳をすり抜けてしまうような話ばかりとなっています。 ということで、かなり絶望的なうつ状態や、慢性
暇や退屈という苦悩
生きている限り、たいてい欲か怒りに纏わりつかれます。しかしそれらが静まっていても結局「暇」や「退屈」というモヤモヤしてどんよりとした苦悩がやってきます。 そうした暇や退屈な時間は、たいてい思考がめぐります。嫌な記憶ばかりが思い起こされることもあります。そしてまた欲や怒り、不安等々がやってきます。 そしてその思考を止めるため、思考を紛らわせるために、様々なものに依存し、それに汚染されます。 暇や退屈という状況から欲や怒りや不安が生じる思考がめぐり、その思考を紛らわせるために何かに依存する、という格好になっています。
未来を見るためのエネルギー
思い返すと昔はかなり先延ばし癖があり、未来を見ようとしないというか、現状維持に相当意識が向いていたような気がします。 それは未来を考えることが恐ろしいというようなものも含まれていますが、現状がそこそこ楽しいので、その空間をなるべく継続したいというような、そんな理由も結構な比重であったように思います。 十代後半の頃は、「とりあえず癖」が強く、衝動のままに突き進むことも多かったように思います。しかしながら大人になるためのあれこれについては、経済社会に対する「本質的にはどうなっているんだろう?」という問いの力がある程度高
苦悩を縦横無尽に展開
思考がループする時は、基本的には情報不足や意志決定の気力不足が影響していたりします。決めるための情報が不足しているとか、あと一歩の思い切りの力が出ない、というようなものです。 堂々巡りを脱却するため、普通はそうした面でなんとかしようと思ってしまったりします。 また、とりあえず思考が働きだしたら「ストップ」と口に出したりして、思考ループによる気力の浪費を防ぐというような方法が勧められることもあります しかしながら、何かしらの苦悩、苦悩から起こる思考のループを脱却するということに関しては、もっと良い方法があります。 苦
限界や転機における体の再生
今までの人生で何度か自然と食が進まないような時がありました。無理や我慢のような感覚は全くなく、また、「体調が悪く、食えない」というような感覚ではなく「特に要らない」というような感覚です。 そして、ふとした眠れない夜、よく散歩にでかけました。 こうした時はだいたい、鬱屈した身体が限界に近づき再生を図るときか、もしくは精神を含めて大きな変化があり、転機に差し掛かっているときかのいずれかです。 古い自分を食うような感覚 表現は変ですが、古い自分を食うような感覚です。 どれだけ当てになるものかはわかりませんが、軽く断食のよ
偶然への気付きと必要なき裏付け
生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。 自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれていることに気付きます。 また、願いのようなものが叶っているかいないかという点について、「特定の何か」に限定して「考えて」みると、叶っていないような気にもなりますが、抽象的な幸せに関しては、
嫌な記憶や辛い記憶の扱い方
おそらく誰にでも嫌な記憶や辛い記憶というものがあると思います。 「嫌な記憶や辛い記憶を忘れる方法はないか?」 「いっそ記憶を消す方法はないだろうか?」 ということを思う人も結構いると思いますが、無意識の奥底まで対象とするならば基本的に記憶というものは忘れることができないため、何かしらで表面的に出てくることを抑制することはできるかもしれないものの、それらは忘れ難く、忘れようとする試みは失敗に終わることがよくあります。 嫌という感情や辛いという感情が伴うような記憶の想起は、体の緊張を伴います。ということで体に刻まれた「
感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁
うつなどの精神症状が語られる場合、感情的なリラックス、身体的な楽さが軸に置かれ、それらをもたらすものであるようなコミュニティや「人と話すこと」などが大切であるというようなことが囁かれたりします。 しかしながら、ここであえて触れておきますが、そうした感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁というものがあります。 すなわち、世間で提示される「解決策」は、イライラしたり不安だったりうつ状態になっている人に対して、何かしらの物理的処置、社会的関係性の調整等々によって「ほっ」としてもらえばそれで良くなるだろうとか、「人
撫でられることや撫でることの効果
撫でたり撫でられたりするだけで「ふわぁ~」っとします。 撫でられることの効果や撫でることの効果は論理で考える以上のものとなっています。 「撫でられることや撫でることでオキシトシンが出る」とか「精神症状にオキシトシンが効く」という物理的な観測もいいですが、それは、なぜ撫でられたり撫でたりすると抗不安作用や抗ストレス作用のあるオキシトシンが出るのかを説明はしていません。 そうしたことは雑談程度にしておいて、実質的に撫でたり撫でられたりするだけで「ふわぁ~」っとなるだからそれでいいのではないでしょうか。 そして、たったそ
緊張時や不眠時の精神統一
緊張時や不眠時の精神統一について軽く触れていきましょう。 緊張しているときや眠れない時は、落ち着こうと思ってもなかなか落ち着くことができません。 また無駄な思考や妄想がループしたりして無駄に疲れてしまうという時もあります。 そうした時に「思考によって思考を制する」ということはなかなかできません。 なので、手綱を取るように暴れる思考を制する実践的方法を軽めに少しだけご紹介します。 意識の散らかり 落ち着きの対極にあるものは、混乱や妄想といったものになります。そうした物を含め思考の活動は、刺激に対して反応するということ
体の記憶と澱みが消える感覚
イライラや不安の記憶というものは頭の中に残るという捉え方が一般的ですが、緊張によって起こったコリが体の記憶として体に残るという側面もあります。 うつやパニック障害等々を含め広く自律神経失調症の要因となるひとつはコリにあります。 一応緊張の原因となる精神としての原因があって、それによって生じた結果といえば結果ですが、その一種の疲労は蓄積していきます。 何度も想起してしまう記憶は、いま現実には起こっていないことなので虚像ですが、そうした虚像によって起こる緊張、そして緊張から起こるコリはどんどん蓄積していきます。 普通は
うつと仕事と経済的自立
うつと仕事と経済的自立ということで、うつと仕事を中心に書いていきます。 ご連絡の中で、うつ状態にある自分がどうやって経済的自立を果たせば良いのかとか、体力が続かない中、仕事面はどうすればよいのかという旨のご質問をいただくことがあります。 具体的な職探し等々は、ご本人の性格やスキル、エリアごとの求人状況によって千差万別なので、各エリアの職業安定所や求人サービス等々に委ねるしかありません。 まあ経済的自立に関して言えば、就職という形でなくても構わないのですが、「起業や投資等々なんてとんでもなく、ひとまずそれしか浮かばな
自己実現と安らぎ
「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」 といった感じで、自己実現と安らぎについて触れていきます。 ふと心が折れそうになった時、一種の呪文のようにつぶやいてみると面白いかもしれません。 より厳密に考えると、「無意識は単語の概念から想起するため否定形を認識できない」とか、「単語の意味を想起してから打ち消すので、一度は想起してしまう」という部分もありますが、そのようにしか表現できないので、ひとまず先の感じのフレーズにしておきました。 この自己実現と安らぎの関係については、複数の意味が抽象的に統合されていま
認知のあり方と解釈
認知のあり方と解釈について触れていきます。 社会においては、誰が発したのかというところが影響することがありますが、本来は意味において誰が発するかというところは、哲学領域等々、領域によっては本当に関係がありません。 出典を根拠とされようが、その出典自体は何に保証されているのか、という感じになります。より詳しい論証やデータがあるくらいで、蓋然性が高まる程度でしかなく絶対的な根拠としては成り立たないのです。 ただ、 「内容は同じでも誰が発するかによって解釈が変わる」 ということは、日常でよくあります。文脈によっても変わり
対人恐怖と人間不信への対処
対人恐怖と人間不信への対処について触れていきます。 人間不信や疑心暗鬼が加速すると、人によっては他人と接するのが恐いという感じになりますし、人によっては攻撃的になってしまったりします。 自分の「自我」を含めて人の意識は不安定です。なので、人を心底信用することはできませんし、それはそれで大いに理解できることですが、恐怖を感じたり攻撃的にならざるを得ないというのは「この心」にとっても苦しいことなので、「それとこれとは別次元のこと」として捉え、苦しみを時空の彼方に追いやってしまいましょう。 対人恐怖と人間不信への対処とし
ウジウジが続く時は極論や極端な発想で思い切る
ウジウジが続く時、そんな時は微妙なストレスが日々心身を痛めつけてきます。 変なウジウジが続く時、極論や極端な発想で思い切ると、意外とあっけなくそれが解決したりします。 友人や知人に相談なんかをして「そんなことは関係ない」とか「気にするほどのことじゃない」と言ってもらったとしても、なんだか頭では理解することができつつ、心の内では納得できずにウジウジが続く、そんな時があります。 ウジウジしている時というのは、少なからず葛藤があるときです。本当に諦めていたら気にもならなくなるはずですし、若干の期待のようなものがあるからこ