道徳の空位時代
いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半 理性で判断すると、たいてい行き詰まりになります。思考が行き詰まった時に、その理屈に「根拠なし」ということが、わかった時点で、自由や解放の方向に向かうきっかけになればいいのですが、どうもまた堂々巡りが始まるくら
商売に精通していないのが高貴である
教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営は株式会社であり、どちらかというと福祉っぽくない方でした。 どういうことかというと、その方のお客さんは福祉関係者であり、その方は株式会社としてサービスを提供する側なのですが、意見の食い
短気
短気は気が短いということ、というわけで短気な人というのは「我慢ができない人」ということになるのでしょうか。我慢などしてはいけません。やりたいことはどんどんやりましょう。 しかしながら、我慢の手前には欲とか怒りがあるはずです。でもそれを表に出してはいけない、行動に移してはいけないと思う時に我慢が出てくるはずです。 短気というのは気が短いと言うだけで、短気でなくとも我慢があればいつかは限界に来て行動を起こしてしまう、ということになるはずです。 我慢と怒りの観察 ところで、何かの衝動が起こった時、どうして我慢をしてしまう
道化師が必要な人
道化という字を見ると、やはり太宰治氏が思い浮かびますね。「人間失格」「道化の華」(青空文庫)などなど、道化ということについて自分塾を開きすぎたがゆえに入水自殺してしまいました。人間失格については以前に「恐れられる眼」で、少し触れましたね。 さて、無理をすると、どれほど凄まじいことになるか、ということについて書いていきましょう。道化師が必要な場合です。 笑ってやり過ごさなければならない時 人生には笑ってやり過ごさなければならない時がやって来ます。 どういうリアクションを取ればわからないものの、ひとまず笑ってやり過ごさ
認識の誘惑
学問の門戸をのぞきこむことは、情熱的な精神の持ち主たちにとって、魅力中の魅力のような働きを及ぼす。そしておそらく彼らはそのとき空想家に、うまくいったときには詩人になるであろう。認識する者たちの幸福に対して、彼らはそのように激しい熱望を抱く。 曙光 450 前半 ニーチェはここで、 「妄想を消失させよ!そのとき《ああ悲しい!》もまた消失してしまう、そして《ああ悲しい》とともに、悲しみもまた消失する」(マルクス・アウレリウス)と、マルクス・アウレリウス(ストア派の哲学者で、2世紀後半のローマ皇帝)を引用しています。 空
事実!そうだ虚構の事実!
歴史家は、実際に起ったことに関わり合わず、推定された数々の出来事とだけ関わり合う。なぜなら、後者だけが影響を及ぼしたのであるから。(中略) ― 底の知れない現実という深い霧の上の幻影の、絶え間ない産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、想像の中以外には決して存在しなかった事物について物語るのである。 曙光 307 抜粋 「事実だ事実だ」と言いながら、世間での事実は全然事実ではありません。事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではありません。だから蓋然性というものでひとまず決定し
精神を必要とする者たちはどこにいるか?
ああ!他人に自分自身の思想を押し付けることは、何と私を不快な気持ちにさせることだろう!他人の思想が自分自身の思想と引き替えにちょうどよいときにやって来るような、すべての気分や私の内面のひそかな改心は、どんなに私を喜ばせることだろう!しかし時折もっと高度の祝祭がある。片隅に座り、窮乏した者がやって来てその思想の困窮を物語り、、それによってもう一度その人の手と心を一杯にしてやり、不安な魂を気楽にするということを熱望している聴罪司祭のように、彼の精神的な家や財産を贈ることがいつか許されるそのときである。彼はそれによってい
ギリシア人の理想
ギリシア人は、オデュッセウスのどこを賛嘆したのか?何よりもまず、嘘をつく能力や、狡猾(こうかつ)でおそろしい仕返しの能力、局面を収拾しうること、必要であるなら最も高貴な者よりも高貴に見えること、望むものになることができること、英雄的な頑張り、すべての手段を意のままにすること、才気を持つこと。― 彼の才気は、神々の賛嘆するところであった。神々はそのことを思うと笑う。 曙光 306 前半 ギリシア人、ギリシア人とギリシア人ばかり出てきますが、現代のギリシア人ではなく、古代アテナイを指して、といったところでしょうか。ギリ
現実を尊敬する
われわれは自己を失わないために、自分の理性を失わないために、体験を避けなければならない!そこでプラトンは現実から逃げ、事物を単に色あせた抽象物においてのみ観ようと思った。彼は感覚のゆたかな人であり、感覚の波がどんなにたやすく自分の理性を打ち砕くかを知っていた。― したがってこの賢者は、次のようなひとりごとを言わなければならなかったのであろう。「私は現実を尊敬したい、しかし同時にそれに背を向けたい。私はそれを知っており、恐れているから」と? 曙光 448 中盤 「ありのまま」や「そのもの」を定義しようとすると、「うー
けち
買い物のとき品物が安いとわれわれのけち振りは増して来る。― なぜか?小さな値段の差が、たった今けちの小さな眼をこしらえたからであろうか? 曙光 305 「けち」は、吝嗇(りんしょく)を意味しますが、節制とは異なり、細かな点についてでも物惜しみをするような様を意味します。 ニーチェの「曙光」には、今回のように「けち」や「浪費」という言葉がちらほら出てきますが、やはりそういう言葉が出てきた時はたいていお金にまつわるテーマになります。といいつつ「見え坊で、けちで、賢くない」の時は、パンチングマシーンの話になりました。 特
感情の別な見通し
ギリシア人についてわれわれは何とたわいのない話をしていることだろう!彼らの芸術について、一体われわれは何が分かっているのだろう。その芸術の魂は― 男性の裸体美に対する情熱である!そこからはじめて彼らは女性の美を感じた。したがって彼らは女性美に対して、われわれとは全く別の見通しを持っていた。そして彼らの女性に対する愛も類似した関係にある。彼らは別様の尊敬をもち、別様の軽蔑を抱いていた。 曙光 170 女性に対しての感情はいくつかありますが、一種の軽蔑と怒りがありました。ひとつの軽蔑は醜さです。特に美魔女でしょう。なぜ
世界の破壊者
この人は或ることがうまくゆかない。とうとう彼は怒って叫ぶ。「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」この嫌悪すべき感情は次のように推論する嫉妬心の絶頂である。私は或るものを所有し得ない。だから全世界には何も持たせたくない!全世界を無にしたい! 曙光 304 「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」とは完全にゲームかアニメの世界のようです。しかしよく起こる心理状況です。 ちなみに芸人さんの世界において、ネタがスベった時は「この世界よ、滅びてしまえ」と思うそうです。 確かにそのような心境になるでしょう。ネタがスベった
体験と創作
「1日体験」といったタイプのことをやってみると、その体験作業などをあまりに集中してやってしてしまうので、「ご興味が有るようですね」と言われて、その後に勧誘されてしまいます。 相手の言っていることを努めて理解しようということなのですが、不明点は質問し、理解したであろう内容を復唱して確認をとったりなんかすると、「よほど関心があるようだ」と思われるのでしょうか、その後はたいてい「支持者」として参加してくれと勧誘されてしまいます。 それが、政治主義思想や宗教の類なら、「普通は出だしから嫌な顔をするのに」と珍しがられるのか、
人間通の気晴らし
彼は私を知っていると信じこみ、私とこれこれの交際をするから上品でえらいのだと自負している。私は彼を失望させないように気をつける。なぜなら、私は彼に意識的な優越感をあてがったのであるから。彼は私に好意を持っているのに、私はその償いをしなければならないことになるであろうから。 曙光 303 前半 人間通の気晴らしならぬ「ラーメン通の気晴らし」は、誰かをラーメン屋に連れて行って「バリカタ」などと注文し、「ここのはバリカタが一番うまいんだ」と言った具合に「通」であることを誰かに伝えることです。 消費者なのに専門家、専門家な
陶酔への信仰
信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。 そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚の内にいるのだ」、と言ってあげてください。 科学と言っても一般に思われている理科や自然科学だけではなく、人文科学や社会科学というものがあります。その時の科学を思い浮かべればすぐにわかる
一度、二度、三度正しい!
人間というものは、口では言えないほどしばしば嘘をつく。しかしそのことをあとから考えない。そんなことがあるとは一般に信じない。 曙光 302 現在最多PVでお馴染みの「すぐにお金を借りる人」は、何かでお金が入用だとしても、その焦り、その問題がお金を借りることによって解決した場合は、お金を借りたことを忘れます。お金を借りてしまう人の特徴は、参照先をご覧ください。 そして、油断していると金銭感覚というものは周りの人から少しずつ影響されてしまいます。家族や友人の中にギャンブルなどをする人がおらず、自分はギャンブルをしないと
師と弟子たち
弟子たちに用心させることは、師たるものの人間性の一部である 曙光 447 どういうわけか、僕には師匠というものがいません。できたらそのような人がいればいいなぁと思いながらも、どこにもそれに値する人はいませんでした。 学校における恩師や習い事の先生、職場の上司など部分的にたくさん学ばせていただいた方々はいますが、心の本質的な部分における師匠というものはやはりどこにもいませんでした。 いい師匠がいたらなぁ できれば何日でも教えを請いたいと思いましたが、話しても一日でその人を超えてしまいます。共同作業者というものはいまし
「性格が強い。」
「私は、一度言ったことはする。」― この考え方は性格の強さと見なされている。どんなに多くの行為が、最も理性的な行為として選ばれたという理由からではなく、心に浮かんだときに何らかの仕方でわれわれの名誉心と虚栄心とを刺戟したので、われわれはそれらに固執して盲目的にやりとげるのだ、という理由からなされることであろう!(中略) できるかぎり理性的なものを選択すれば、自分に対する懐疑が、そしてその程度に弱さの感情が、われわれの内面に維持されることになるのに。 曙光 301 抜粋 「強い性格」として評価されるようなことは、ほと
われわれが極めて疎いギリシア的なもの
東洋的であれ近代的であれ、アジア的であれヨーロッパ的であれ、これらすべてのものは、ギリシア的なものと比較すると、嵩高(かさだか)なことや、崇高なものの表現としての巨大な量を楽しむことが、特有なことである。われわれは、ペストゥムやポムペイや、アテナイにおいて、またギリシア建築術全体の前において、ギリシア人が、どんなに小さな量で何か崇高なものを表現することができ、また表現することを好むかに驚くのに。― 同じようにギリシアでは人間自身が、彼らの考えの中でどんなに単純であったことだろう!人間智の点で、われわれは彼らよりもど
お世辞屋に寛大
飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気付かれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることである― 全く寛大でいることが出来る神のように。 曙光 300 「お世辞屋の風土 曙光 158」、「犬にお世辞 曙光 258」と、お世辞屋、お世辞というのもよく出てきますね。ただ今回は、お世辞屋がメインというより野心家が主体となっています。 寛大かのように自分を偽り「お世辞」を言ってくる人にも「ありがとうございます」と言ってその野心を隠すという野心家
一体隣人とは何だろう!
われわれは一体隣人について、彼の限界― 彼がそれでもってわれわれにいわば印づけ、印象づけるもののことを私は考えているのだが― 以外の何ものを把握するだろうか?われわれは彼について、われわれを変化させること― その原因は彼であるが、以外の何ものをも把握しない。 曙光 118 前半 「一体隣人」という字を見て「いっぽんでもニンジン」を思い出してしましました。「動物園の帰り道」で出てきた「およげたいやきくん」のB面ですね。 うさぎの場合は隣人ではなく隣兎ということになるのでしょうか。 そういえば最近、養子のウサギに人参を
英雄主義の見かけ
敵の真中に身を投じることは、卑怯のしるしかもしれない。 曙光 299 英雄崇拝とその狂信者において、何かを崇拝し、敵の中に飛び込む、死を決して飛び込む様、つまり「殉教」に向かう方向性は、一種の自己陶酔であり、自惚れであり、自慰行為であるのに、その狂信者の間においては「カッコいいこと」とされるため、卑怯のしるしかもしれませんね。 最近かどうかはわかりませんが、その崇拝対象は、何か人物に限定されているわけではありません。わかりやすい例としては、ヒーローやアイドルなど誰か一人のモデルや、「社会はこうあるべきだ!」などのあ
新しい根本的な感情
われわれは決定的に無常であるということ。― 昔、人々は自分が神の血統であると示すことによって、人間の栄光の感情にたちいたろうと試みた。これは現在では禁じられた道になった。(中略)そこで現在人々は反対の方向を試みる。人類がその方へと向かってゆく道を、人類の栄光および神との親類関係の証明に奉仕させようとする。ああ、これもやはり無駄だ!(中略)生成は過去のを自己の背後に引きずっていく。なぜこの永遠の演劇の中で、ある小さな星と、さらにまたその上の小さな類にとって、例外がなければならないのだろう!そのような感傷をすてよ! 曙
英雄崇拝とその狂信者
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナポレオンこそ、「天才」と「英雄」に対する浪漫主義的な―啓蒙主義の精神から疎遠な―屈従を、われわれの世紀の魂に与えた人であったろう。 曙光 298 後半一部抜粋 「英雄崇拝とその狂信者」
駄目になる
同じ考え方の人間を、違った考え方の人間よりも高く尊敬せよ、と指導するなら、青年は一番確実に駄目になる。 曙光 297 知識と知恵は違うとよく言われますが、たいてい語られている知恵は知識の部類の中に入るでしょう。たまに「難しい漢字を使う方がいい」と思って「智慧」を使う人がいますが、狭義の智慧はインスピレーションなどではありません。むしろ知識やインスピレーションとは真逆の性質であり、「そぎ落として捨てるからこそ迷わない」というようなものです。 たまに「無駄な知識を増やしても仕方ない」と言って勉強することをしない人がいま